2019年9月18日水曜日

支那事変13 日本包囲網


1937年から始まった支那事変ですが、日本軍は損害を出しつつも連戦連勝の快進撃を続けました。

これに対し国民党の蒋介石は首都・南京を放棄して内陸部の重慶へと遷都させて事変の長期化を目論みます。

重慶まで陸軍の侵攻を進める事が困難であると考えた日本軍は、航空機による戦略爆撃を行いました。

戦争というものは「歩兵」が地面を踏まねば終わらないものです。

いくら爆撃を行っても、蒋介石が根をあげる事はありませんでした。
重慶爆撃


しかし、主要な商業都市を抑えられ、国民党は独力では戦闘の継続が不可能なほどに打撃を受けた国民党でしたが、なぜ戦闘を継続させる事ができたのでしょうか?

実は、蒋介石率いる国民政府は、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連などから多大な支援を得ていたのです。

イギリス・フランス・アメリカは、支那に「租借地」「租界」を持っていました。

租界や租借地を大雑把に説明するなれば「プチ植民地」とでも呼ぶべきでしょうか、列強国はとにかく支那市場の旨味を存分に味わっていました。

彼らにとって一番困るのは、日本軍の軍事行動が彼らの租界での経済活動に支障をきたすことです。

列強各国は、中華民国との関係が崩れないように、蒋介石を支援しました。

さらにソ連には、支那事変を長引かせて日本の国力を衰退させようという思惑もあったようです。

支那事変が起こった1937年の12月、中華民国と「ソ支不可侵条約」を結んだソ連は、国民革命軍に空軍支援を行いました。

当時、大阪毎日新聞はその事を「露国は支那を支持する事によって日本の国力を衰退せしめ・・・」と的確な記事を書いています。

これらの中華民国に対する様々な援助に必要だった輸送路は「援蒋ルート」と呼ばれました。

日本軍は、支那事変を終わらせる為にこの援蒋ルートを遮断する必要があり、戦線を拡大していかねばなりませんでした。

援蒋ルート
ところで、話は逸れますが、現在の日本の学校教育において「支那事変」という言葉は使われておらず、代わりに「日中戦争」という言葉が使われています。

この「日中戦争」という言葉は、「日本と中華人民共和国が戦争をした」という勘違いを意図的に狙った悪質な造語であります。

戦後、「日支事変」「日華事変」という言葉を用いて教科書などでも説明されていましたが、1970年代に入って急速に「日中戦争」という言葉が普及していきました。

日中国交正常化以降、明らかに日本の教育は中華人民共和国に忖度するようになり、外交的にも中華人民共和国があたかも「戦勝国」であるかのように振る舞うようになっていきました。

しかし、支那事変、日支事変、日華事変と呼び方は色々あれども、この戦いはあくまでも戦争ではなく「事変」でありました。

当時のアメリカは「中立法」というものがあり、「戦争している国に対しては、軍事物資を輸出してはいけない」という決まりがあったのです。

蒋介石を支援したかったアメリカをはじめとする諸外国は、日本と支那で起こった紛争を「戦争」として認めるわけにはいかなかったのです。

「日中戦争」という言葉は、そういった当時の状況を全く無視したものなのです。
「中立法」を風刺した絵
さて、支那事変が長引く中、日本が占領した地域では自治政府が発足し、治安を安定させていました。

それらの自治政府は集結し「中華民国臨時政府(後に汪兆銘の南京国民政府と合流)」を結成します。

1939年4月、中華民国臨時政府が任命した海関(港の税関)監督が、天津の英国租界で暗殺される事件が起こりました。

しかしイギリスは、租界の中に隠れる犯人を日本へ引き渡す事を拒否します。

かねてより日本軍は、「抗日ゲリラ」に苦しめられており、イギリスやフランスの租界はゲリラや共産党員の活動拠点となっていました。
天津租界

北支方面軍参謀長の「山下奉文」は最後通牒を突きつけ、イギリス租界を封鎖して厳しい検問を行います。

当然、イギリスは検問を中止するように要請し、有田八郎外相とクレーギー駐日大使による会談が行われる事になりました。

意外な事に、イギリスは日本の要求に対して大きく譲歩し、「租界内の抗日分子の取り締まり」「租界内に国民党が隠し持っている現金の引き渡し」などの条件を飲む事になりました。

イギリスは、国民党に対して多大な支援をしつつ、日本とも歩調を合わせようとしていました。

実はイギリスが最も警戒していたのは、支那利権に進出し始めたアメリカだったのかもしれません。

日本がもし日米開戦を避けようとするのであれば、イギリスを利用するべきだったのですが、日本はあえてそれをしませんでした。

イギリスと手を組む事は、ヴェルサイユ体制の維持を意味し、アジアは欧米列強に今後100年は貪り続けられる事になるからです。

イギリスの、このような対日宥和政策をアメリカは当然面白く思いませんでした。

有田・クレーギー会談の4日後、アメリカは日本に対して一方的に「日米通商航海条約」の破棄を通告してきたのです。

これは、日本に対し甘い対応を取り続けるイギリスへの牽制でもありました。

そしていよいよ、日本は経済的にも世界から孤立していく事になるのです。


アメリカは国民党に対して多大な軍事支援を行っていました。

それはもはや、「支那事変はアメリカとの戦い」とも言えるほどのものでした。

1940年以降、アメリカは「アメリカ義勇部隊America Volunteer Group」、通称「フライングタイガース」と呼ばれる部隊で日本軍への攻撃を仕掛けていました。

飽くまでも「退役軍人が」「個人の意思で」「傭兵として」国民革命軍に参加したものとされていますが、実際に戦闘に参加した機体は最新式のものであり、米国内の陸軍航空隊内部でリクルートが行われていました。

さらに、フライングタイガースの投入は大統領の承認を得た秘密作戦であり、日本機を一機撃ち落とすと500ドルのボーナスが支給されていたのです。

つまり、日本とアメリカは真珠湾攻撃の前から戦闘状態にあったと言えるのです。

アメリカのルーズヴェルト大統領は、支那大陸からフライングタイガースを利用して日本を爆撃する作戦を承認していました。

真珠湾攻撃の半年前の事です。




真珠湾攻撃前にサインされた対日攻撃計画書「JB355」

さて、国民党を支援していたのはアメリカ・イギリスだけではありません。

フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)にも重慶へ通じる援蒋ルートがありました。

日本は何度もフランス政府へ国民党への援助をやめるように訴えましたが聞き入れられませんでした。

しかし第二次世界大戦の勃発に伴い、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、ようやくフランスは援蒋物資の輸送を停止します。

ドイツに占領されたフランスは、国家存続と引き換えにナチスの傀儡政権「ヴィシー政府」を発足させました。
親ナチス派のヴィシー政権では、ユダヤ人の迫害も行われました。

ヴィシー政権は、ドイツと同盟締結の話が進んでいた日本に対して友好的で、松岡洋佑外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で「松岡=アンリ協定」が結ばれる事になりました。

この協定は
「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐を認める事」
「日本はインドシナにおけるフランスの主権を認め、領土保全を尊重する」
という、日本とフランス両国の利益を尊重するものでした。

1940年9月23日、正式に進駐が開始されます。

日本の進駐に反対する一部のフランス軍との間に戦闘が起こるなどの問題が起こりましたが、25日には停戦が実現し、日本軍はインドシナ北部の飛行場や港の使用権を獲得しました。

フランスの植民地支配に虐げられていた現地のベトナム人達は、フランス軍を蹴散らして進駐してきた日本軍を見て「解放軍だ!」と歓喜しました。

何しろ、8万のフランス軍が守る要塞を、わずか3000人の日本軍が陥落させたのです。

日本軍と共闘できる事に期待したベトナム人達は、独立をかけて武装蜂起を起こしますが、ヴィシー政権を尊重しなければならない日本軍はそれを支援するわけにはいきませんでした。

ベトナムの「復国同盟軍」を率いたチャン・チュン・ラップ将軍はフランス軍に捕らえられて銃殺されてしまいますが、その後もベトナム人達の独立の火は消えませんでした。

日本軍の「北部仏印進駐」は、期せずしてアジア独立の導火線になったのです。
仏印進駐(北部)


このように、中華民国の背後にはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の影が隠れていて、支那事変はもはや日本と中華民国の紛争を隠れ蓑にした「代理戦争」の様相を呈していました。

そんな中でも、「ヴェルサイユ体制の打破」「防共」などの点で日本と利害が共通し、歩調を合わせようという国も存在していました。

1936年に「日独防共協定」を結び、ソ連のコミンテルンに対抗しようとしていた日本とドイツですが、この協定には後にイタリア、満州、ハンガリー、スペインが参加したことによって6カ国協定になりました。

日本政府は、この多国間協定が国際社会に置いて無視できない存在になれば、英米にも影響を与えて支那事変解決の糸口になるのではないかと考えていました。

しかし1939年、ノモンハン事件の最中にドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」を結んだ事によって日本は失望し、防共協定は事実上、空文化してしまいました。

それでも第二次世界大戦でドイツが快進撃を見せると、日本国内では再び「ドイツと組むべし」という声が起こり始めます。

異様な世論の盛り上がりによって「バスに乗り遅れるな」という流行語もできたほどでした。
領土拡大を続けていたドイツ

ところで、「独ソ不可侵条約」は、内閣を総辞職に追い込むほど日本に衝撃を与えましたが、実際はドイツとソ連が軍事同盟を結んだわけでもなんでもなく、ドイツからしてみれば「フランス・イギリスと戦う時に、東のソ連に挟み撃ちにされないように」と保険をかけたに過ぎません。
「欧州情勢、複雑怪奇なり」と言い残して総辞職した平沼内閣

ドイツはソ連と軍事的に手を組んだわけではないのです。

「独ソ不可侵条約の解釈の違い」という、噛み合わない歯車はそのままに、日本とドイツは同盟を結ぶことになってしまいました。

近衛文麿首相による第二次近衛内閣によって、1940年9月27日、「日独伊三国同盟」が結ばれました。

外務大臣・松岡洋右は、三国同盟にソ連を加えた「4カ国同盟」に発展させる構想を練っていました。

防共協定の時と同じように、国際的に無視できない勢力を築いて圧力をかけ、支那事変の終息を目論んだのです。

スターリンはこの構想に乗る構えを見せましたが、同盟締結の見返りにドイツの領土を求めたりと厳しい条件を突きつけたために、ドイツとソ連の関係は悪化し、交渉は困難になってしまいました。

日本はなんとか単独で「日ソ中立条約」を結ぶことに成功しましたが、この条約によって日本とドイツの同盟は意味をなさなくなってしまいます。
日ソ中立条約に調印する松岡洋右

ドイツにしてみれば、日本と同盟を結ぶ最大のメリットは「ソ連を挟み撃ちにできる事」だったのです。

明治維新以降、日本の国防上の最大の課題は「ロシア・ソ連にどう対抗するか」でした。

しかしこの頃の日本は、その本分を見失い、ソ連と歩調を合わせて英米に喧嘩を売るような外交しかしていません。

日本の中枢がおかしくなっていたとしか言いようがないのです。

そして1941年6月、イギリスを攻めあぐねていたドイツはソ連と戦争を始めてしまいました。

これによって「4カ国同盟によってアメリカに対抗する」という構想は完全に消え去り、かといってソ連を挟み撃ちにしてドイツを援護する事もできず、日本の立ち位置は完全に宙ぶらりんになりました。

1つ確かなのは、ドイツと同盟を結んだ事により、日本は完全にイギリスの敵に回ったという事です。

「連合国VS枢軸国」という、第二次世界大戦の構図はこうして出来上がり、アメリカとの開戦までのカウントダウンが始まりました。




2019年9月10日火曜日

支那事変12 第二次ノモンハン事件「夏が来れば思い出す。炎天下の大草原とサイダー瓶、そして戦車」



(前回からの続き)
支那事変11 第一次ノモンハン事件 「太陽の先生」

1939年6月18日、第一次ノモンハン事件が沈静化して二週間ほどがたった頃、再びソ連軍の動きが活発になってきます。

ソ連軍の爆撃機が突如、越境して各地を爆撃し、多数の死傷者を出した上に燃料500缶を消失する事件が起きたのです。

20日には、ソ連軍は戦車や装甲車による砲撃で日本軍の野営地を攻撃、兵舎などが炎上しますが、日本兵は対戦車砲などで反撃し、撃退しました。

関東軍はノモンハン事件の拡大に消極的でしたが、さすがにこのような軍事衝突が度重なると、再びノモンハンへ出撃し、敵勢力を殲滅すべしという考えが出てきます。

関東軍参謀の「辻政信」は、第23師団に加えて北方の守りの要である「第7師団」も投入して戦力を強化しようと計画しました。

しかし関東軍司令部が第23師団の「小松原道太郎」のプライドに配慮し、「小松原師団長の担当正面を、他の師団に任せるわけにはいかない」として、第7師団の参加は否決されてしまいます。

なんとか第7師団から4個大隊を引き抜いて第23師団に編入させることにはなりましたが、ソ連との戦力差を考えると十分な補強とは決して言えませんでした。

関東軍参謀・辻政信
6月22日にはソ連軍戦闘機150機が越境し、ノモンハン空域で日本軍戦闘機との空戦が起こります。

日本軍はソ連軍機を56機も撃墜しつつも、自軍の損失は「4機だけ」という大戦果をあげました。

その後も連日に渡ってソ連軍との空戦が起こったため、事態を憂慮した関東軍は、内地の参謀本部に無断で越境爆撃を行い、あくまでも「事件不拡大」の方針をとる参謀本部と関東軍の間に大きな溝ができてしまいます。

日本国内の軍中枢では「ソ連に事件拡大の意思はない」という誤った見解が浸透しており、関東軍との間にかなりの温度差ができてしまっていたようです。

ノモンハンの空の覇者・九七式戦闘機

ソ連軍・モンゴル軍との決着をつけるべく集結した日本軍の戦力は、第7師団から4大隊を引き抜いて第23師団に編入させた「21953名」に、満州軍の「2000名」を加えたもので、戦車を73両も投入した大規模な機械化部隊でした。

これに対するソ連軍は歩兵の数こそ12000名と少ないものの、戦車186両、装甲車266両と日本軍を圧倒し、後に増援も到着して兵数でも日本を上回る事になります。
ジューコフとソ連兵

ノモンハンにおける地上戦は、ハルハ河をまたいだ戦闘になりました。

関東軍参謀・辻政信の作戦はこうです。

・主力部隊がハルハ河東岸の敵軍に正面攻撃を仕掛けて釘付けにする
・戦車部隊を主力とする突撃部隊はハルハ河を渡河し西岸から敵の後方に回り込む

しかしここで問題が発覚します。

ハルハ河を渡河する為に橋を作る資材が十分ではなく、戦車を通す事ができなかったのです。

戦車が自力で渡河しようにも水深が深く、川底の形状なども調査不足でした。

そこで協議の結果、主力の歩兵団が西岸へ渡ってソ連軍の退路を断ち、東岸の戦車団は南下してソ連軍を殲滅するという作戦に変更となったのです。




まずは東岸の戦況を見ていきたいと思います。

6月30日、日本軍の九五式軽戦車部隊がソ連軍と交戦を開始しました。

しかしソ連軍の対戦車砲の弾速の速さや、日本兵の動きを封じ込める機関銃による阻止射撃などによって、日本軍は反撃する機会すらありませんでした。

ソ連軍の兵器の威力は、日本軍が支那事変で体験した事のない激しいものでした。
日本軍戦車
さらにソ連軍はピアノ線を張り巡らせて日本軍の戦車や装甲車を苦しめました。

ピアノ線で動きを封じ込められた九七式装甲車に乗っていた古賀康夫少尉は、包囲するソ連兵を相手に1時間半も奮戦し、壮絶な戦死を遂げています。

ノモンハン事件は、日本陸軍史上でかつてない規模で戦車を集結させた作戦でしたが、致命的な欠陥がありました。

「陸の王者」とも呼ばれる戦車ですが、実際は非常に死角が多く、単独で行動するのは非常に危険なのです。

戦車には死角を補う為に歩兵を随伴させて援護してもらう必要があります。

戦車の上に歩兵を乗っけて移動する「タンクデサント」という戦法もあるほど、戦車には随伴歩兵が不可欠なのです。
タンクデサント
しかし日本軍には、戦車の数の割りには自動車が少なく、歩兵や砲兵が自動車について行く事ができなかった為、せっかく戦車が敵を倒しても陣地を確保する事ができず、後退するしかなかったのです。

そんな調子でソ連軍の猛攻に対応できなかった日本軍の「戦車第4連隊」でしたが、7月2日に戦車部隊による「夜襲」を行い、大戦果をあげて反撃の糸口を掴みます。

7月3日、日本軍の「戦車第3連隊」は、夜襲で成功した第4連隊とは対称的に、日中にソ連軍陣地へ正面攻撃を仕掛け、戦車同士の戦いを展開しました。

ソ連軍の「BT-5」は、射程距離も威力も日本軍の「九七式中戦車」よりも優れており、日本軍を苦戦させました。

それでも日本軍は奮闘し、ソ連軍の戦車32両と装甲車を35両も撃破します。

実は日本軍の戦車はディーゼルエンジンを積んでいて燃えにくかった為、命中弾を食らっても持ちこたえる事ができ、予想以上に打たれ強かったのです。

しかしソ連軍陣地の前に張り巡らされたピアノ線によって13両の戦車と5両の装甲車を失う大損害を被り、戦車第3連隊は撤退することになりました。

この戦いは後に「ピアノ線の悪夢」と呼ばれることになります。

九七式中戦車

BT-5










翌日4日、戦力を喪失した戦車第3連隊に追い打ちをかけるように、増援によってさらに戦力を充実させたソ連軍の反撃が開始します。

兵器の質も量もソ連軍が圧倒的に上でしたが、日本軍が勝るものが1つだけありました。

兵の「練度」です。

戦車第4連隊は戦車の性能差を考慮し、戦車を丘陵に隠して砲塔だけが見えるように配置させ、まるで砲台のように運用しました。

そして鍛え上げられた技術で次々と命中弾を浴びせ、ソ連軍の戦車、装甲車、対戦車砲などを撃破したのです。

しかしソ連軍の猛攻は5日、6日とさらに数を増して断続的に続けられ、日本軍はその度に撃退するものの、損害は大きくなるばかりでした。

ついに6日の午後4時に戦車第4連隊に対して後退命令が出されます。

戦車を30両失った事によって戦車部隊は解散となり、以降日本軍はソ連軍の装甲部隊に「歩兵のみ」で挑んでゆく事になりました。

さらば戦車部隊
このように、ハルハ河東岸では両軍の激しい戦車戦が展開されたわけですが、西岸でも同時進行で激しい戦いが繰り広げられました。

小林恒一少将が率いる歩兵団「小林兵団」は、7月2日に渡河を開始し西岸へ渡ります。

ソ連軍の司令官ジューコフは、この動きを全く予想しておらず、ハルハ河東岸で日本軍戦車部隊との戦闘に集中していたため、小林兵団はほとんど抵抗を受けることなく渡河に成功しました。

ハルハ河を渡河
渡河を完了した小林兵団はモンゴル軍を打破しながら進軍を進めますが、ここにはすでにソ連軍の増援部隊の戦車・装甲車部隊が到着しており、不意に遭遇してしまった両部隊は戦闘になりました。

戦車を持たない小林兵団は速射砲(対戦車砲)や火炎瓶で応戦します。

火炎瓶とは言っても、サイダー瓶をかき集めて作った急造の火炎瓶です。

炎天下の中で連続走行を続けていたソ連軍の戦車は高温になっており、火炎瓶を投げるとよく燃えました。

この戦いで16両もの戦車を破壊された事を知ったジューコフは、まだ歩兵や砲兵が追いついていない増援部隊に「戦車・装甲車だけ」で出撃させるように命じました。

しかし先述したように、随伴歩兵を伴わない戦車は危険に晒される事になります。

結局、小林兵団に襲い掛かった133両の戦車と59両の装甲車のうち、77両の戦車と36両の装甲車を一日で失う事になりました。

ソ連軍の戦車が至る所で炎上し黒煙を吹き上げる様は「八幡工業地帯」と比喩されるほどでしたが、それでもソ連軍のさらなる猛攻は続き、小林兵団は防戦一方になっていきます。

火炎瓶が尽きて壊滅する部隊なども出てき始め、日本軍は後退して態勢を立て直さざるを得なくなってしまいました。
八幡工業地帯

敵戦車もなんのその

7月4日、小林兵団は西岸からの撤退を開始します。

ソ連軍にそれを追う力は残されておらず、小林兵団は7月5日に東岸の日本軍と合流することができました。

しかし合流できたはいえ、ハルハ河東岸で戦っていた戦車団は引き上げてしまい、日本軍には味方の戦車が一両もいなくなってしまいました。

第23師団長の「小松原道太郎」は、歩兵による大規模な「夜襲」を行い、敵陣地を1つずつ潰しては戻り、潰しては戻りを繰り返してゆく消耗戦を挑みます

7月7日から開始された夜襲によってソ連軍は大混乱に陥り、同士討ちする部隊まで出てくる始末で大損害を被りました。
日本軍の戦争に「夜」などない

ジューコフは東岸に増援を差し向けましたが、その部隊は寄せ集めで練度が低く、日本軍の銃声を聞いただけで逃げ出す有様でした。

ジューコフは増援部隊を呼び戻し、軍紀を乱した者を銃殺刑に処して再訓練を行い、さらに「督戦隊」を設置しました。

督戦隊とは、支那事変においては国民革命軍も設置していた「自軍で逃げ出す者を銃殺する部隊」の事です。
こんなイメージ
ソ連軍がどれほど厳しい処罰を与えようとも、日本軍の夜襲には敵わなかったようで、ソ連軍の混乱は収まりませんでした。

しかし日本軍にとっても、一進一退の夜襲作戦ではなかなか進軍がはかどらず、徐々に損耗も大きくなっていくばかりでした。

そこで、日本国内からの増援と満州の砲兵戦力を呼び集めて砲兵団を結成し、砲撃戦にて敵砲兵を殲滅する計画が立案されたため、増援の到着を待つ間は日本軍は前線から後退し、夜襲作戦は終了しました。

かき集められた砲兵団は82門の大砲を擁する大規模なものになり、「内山英太郎」少将が団長となりました。

しかし肝心の砲弾が3万発足らずしか用意されておらず、これはソ連軍と打ち合えば半日でなくなってしまう量でした。

7月23日、日本軍は歩兵団の支援として、砲撃を開始します。

この砲撃によってソ連軍は数十門の砲を破壊されたものの、砲兵同士の打ち合いに固執した日本軍に対し、ソ連軍は進軍してくる歩兵に目標を定めて攻撃をした事によって、日本軍の進行を効果的に食い止めました。

3日間に渡る砲撃戦で日本の砲兵団は砲弾を使い果たしましたが、ソ連軍の砲弾が止む事はありませんでした。

物量の差が、両軍の戦局を大きく動かすことになるのでした。
九二式10センチ加農砲
ソ連軍には続々と援軍が届いているのに対し、日本軍に補充兵が来るのはまだまだ先のことでした。

日本軍はこれまでの攻勢から一転し、陣地を構築して防衛体制に入ります。

しかし、ハルハ河西岸から降り注ぐソ連軍の砲弾をかわしつつ、歩兵の襲撃を撃退しながらの陣地構築が捗るはずもなく、予定の三分の一しか完成していないまま、ソ連軍の総攻撃を迎える事になってしまいました。

日本軍の攻撃によって多大な損害を出していたソ連軍は、膨大な軍需物資をノモンハンへ輸送し、さらに三万名以上の兵員を増強させました。

ソ連軍は総攻撃の準備を悟られないようにあらゆる欺瞞工作を行い、日本軍司令部に緊張感を与えませんでした。

ソ連軍が総攻撃を行う二日前まで、第23師団の司令部の情報日誌には「平穏なり」と書かれていたほどです。

しかし前線の部隊はソ連軍の動きを察知しており、不眠不休で警戒体制を敷いていましたが、楽観視していた司令部はその報告を受け入れませんでした。

この時点でソ連軍は5万人以上の兵員、戦車438両、装甲車385両、野砲・重砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と、日本軍の何倍もの戦力を揃えていました。

これまでに敵兵力の過小評価・現状とかけ離れた情報分析を繰り返してきた日本軍でしたが、そのツケが最悪の形で回ってきたのです。

8月20日早朝、激しい爆撃と砲撃の後、ソ連軍の進撃が始まりました。

北部を守る満州国軍は忽ちにして潰走し、フイ高地を防衛していた「井置捜索隊」は孤立してしまいます。

「フイ高地」というのは、日本軍が作戦の便宜上名付けた721mの「21」の部分をもじってつけられた地名です。


「井置栄一中佐」が率いる井置捜索隊800名は、6000名のソ連軍を相手に奮闘します。

塹壕が張り巡らされた陣地ではソ連軍の戦車も役に立たず、井置捜索隊は白兵戦に持ち込んでソ連軍を撃退して行きました。

フイ高地を攻略できないと知ったジューコフは、予備兵力の全てをフイ高地へ投入します。

井岡捜索隊は10倍以上の戦力差があるとは思えないほど頑強に戦いますが、24日には食料・水・弾薬が尽き果て、部隊の半分が戦傷死して壊滅状態になってしまいました。

井置中佐は拳銃自殺を試みようとしますが部下に制止され、撤退を決断します。

わずかに生き延びていた部下達が脱水症状に苦しむ姿を見ていられなかったが故の判断でしたが、上層部からの命令がない「独断撤退」は後に強く責められる事になり、ノモンハン事件の後、井置中佐は自殺してしまいます。

ソ連の歴史家「アルヴィン・クックス」は、「ジューコフが井置の上司だったら、井置はは勲章をもらえていただろう」と、井置中佐の事を優秀な指揮官だと評価しています。
井置栄一中佐

その後、フイ高地を失った日本軍は反転攻勢を仕掛けようとするも、ソ連軍の圧倒的な火力の前に兵は倒れていくのみでした。

ソ連軍の総攻撃が行われている最中でも、関東軍司令官「荻洲立兵」は、前線司令部でワインを飲んで酔っ払っていました。

ジューコフはノモンハンで戦った日本軍の事を「兵は優秀だが将軍は愚劣」だと評しましたが、まさにその通りだったと言えるでしょう。
荻洲立兵(おぎすりっぺい)
8月31日、最後に残された日本軍の陣地「バルシャガル高地」の陥落によってソ連軍の大規模な「総攻撃」が終了し、ノモンハン事件はひと段落つきます。

第23師団の損耗率は78%となり、文字通り「壊滅」しました。

日本兵の遺体


実はソ連軍の総攻撃のさなか、日本政府を揺るがす大事件が起こっていました。

日本と「防共協定」を結んで、共にソ連に対抗しようと約束を交わしていたドイツが、「独ソ不可侵条約」を結んだのです。

日本とドイツの軍事同盟を模索していた平沼内閣は直ちに交渉を取りやめ、平沼騏一郎首相は「欧州の天地は、複雑怪奇なり」との声明を残して総辞職してしまいました。

独ソ不可侵条約
この独ソ不可侵条約によって、ソ連は西の脅威であるドイツへの警戒を薄める事が出来、東への軍事行動を強める事ができるはずなのです。

7月末頃からソ連との停戦を模索し始め、困難ながらも交渉の糸口を掴み始めていた日本政府でしたが、ソ連の総攻撃で戦況が一気に悪化し、さらに独ソ不可侵条約が締結された事によって日本の置かれた立場は圧倒的に不利になってしまいました。

しかし、このような状況におかれても、日本政府と関東軍は飽くまでも強気でした。

関東軍はノモンハンに第2師団、第7師団を投入し、ソ連軍に一撃を与える計画を立てていましたし、日本の駐ソ大使「東郷茂徳」は、ソ連の外相代理のロゾフスキーと面会し、
「日本は、満州国軍に配慮して大兵力を投入しなかっただけの事。もし必要なら大部隊を北上させる事もできる。しかしそれでは日本とソ連は本格的に戦争をすることになるので、和平交渉は望むところです。」
と強硬な姿勢を見せました。
東郷茂徳
現状としては日本軍が劣勢であったとは言え、ノモンハン事件で投入された戦力比は10倍とも言える差がありました。

ソ連軍の大兵力は、「第23師団」という訓練不足のたった一個師団に大苦戦を強いられたのです。

「日本軍が大部隊を北上させる」この言葉に震え上がったのは他でもない、スターリンでした。

さらにソ連は、独ソ不可侵条約の際に、ポーランドをドイツとソ連で軍事侵攻し、分割する密約を交わしており、そのためにノモンハンにこれ以上軍事力を費やす余裕がありませんでした。
(この「ポーランド分割」は第二次世界大戦の大きな原因となりました。)

ノモンハンではいまだに散発的な戦闘が続いており、関東軍も総反撃を計画していましたが、日本とソ連は9月15日に停戦合意に至り、ノモンハン事件は終わりました。

停戦時の占領地を国境線とし、賠償金もない協定は、日本にとって五分五分とも言えるもので、戦況を考慮すると破格の内容だったと言えます。

このノモンハン事件の両軍の損害は

死傷者   
日本 17405名
ソ連 25655名以上

航空機損害
日本 179機
ソ連 1673機

戦車損害
日本 29両
ソ連 800両以上

となっており、ソ連軍の損害は日本よりも多いものでした。

日本兵の勇猛さに逃亡を企てるソ連兵が多かったため、ソ連兵は戦車の操縦桿に鎖で縛り付けられ、ハッチを溶接された状態で戦地へ送り出されたと言われています。

鹵獲品で記念撮影

「なんの資源もない草原を取り合いっこした、全く無益な国境紛争」
「日本軍はボロ負けだった」
という論調で語られがちなノモンハン事件です。

そかしその本質を紐解くと、
「支那事変で日本が国力を疲弊した隙を狙い、傀儡国家同士の国境紛争に乗じて太平洋進出を目論んだソ連の侵略戦争」
という、とても重要な出来事だったのだとわかります。

一個師団に苦戦を強いられたソ連軍は、その後、太平洋進出を諦めざるを得ませんでした。

そして1945年の8月、大東亜戦争で日本が壊滅した後に、ソ連軍は再び動き出す事になるのです。


ドラム缶見張り台

ヤギと日の丸
負傷したソ連兵を治療する日本兵

ソ連兵捕虜とタバコの火を分け合う日本兵


2019年9月3日火曜日

支那事変11 第一次ノモンハン事件 「太陽の先生」



突然ですが、「モンゴル」の話をします。

1911年に起きた辛亥革命によって、モンゴル北部(いわゆる外モンゴル)は清から独立しましたが、中華民国の影響下にありました。

しかしロシア革命が起こると、ソ連軍の支援とコミンテルンの指導のもと、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」となりました。

中華民国の傀儡国家から、ソ連の傀儡国家へと移り変わったのです。

大国に挟まれた国の悲しい宿命であります。


1931年に満州事変が起きて満州国が誕生し、急速に国力をつけてくると、ソ連はこれを脅威に感じます。

西側で力を伸ばしていたドイツにも警戒せねばならないソ連は、モンゴルを「東側の盾」にしようと考え、政治的介入を強めました。

1936年にソ連とモンゴルは「相互援助議定書」に調印し、モンゴルにはソ連の軍隊「赤軍」が置かれることになります。

しかしこうしたソ連の介入を警戒していた人物がいます。

首相の「ペルジディーン・ゲンデン」です。
ゲンデン

モンゴルはもともと「チベット仏教」が盛んな国でしたが、共産主義国家においては、指導者以上の権威になりかねない「宗教」はご法度です。

スターリンはゲンデンに対しラマ教(チベット仏教の俗称)の寺院の取り壊しを再三に渡り要請しますが、ゲンデンはこれを断り続け、首相を解任されることになります。

ゲンデンは「日本のスパイ」と言う容疑で、クリミアの温泉地で療養しているところを逮捕され、処刑されました。

代わりにモンゴルの首長になったのは「ホルローギーン・チョイバルサン」です。
チョイバルサン

1937年、チョイバルサンはスターリンの指示通りに800もの修道院を破壊し、17000名もの僧侶を処刑しました。

そして政府内部の「ゲンデンに関わっていた者」をあぶり出し、二万人を処刑しました。

このような徹底した粛清により、モンゴルは完全にソ連の傀儡と化したのです。
破壊されたモンゴルの寺院
1929年にソ連軍と張学良が率いる奉天軍が衝突した「中東路事件」にも現れているように、スターリンは極東における領土的野心を抱いていました。

そのため、満州とソ連の国境では紛争が絶えず、住民の拉致や、偵察隊の侵入、領海侵犯などが起こっていました。

それが1935年頃になると、一年間に176件もの国境紛争が起こるなど、紛争の数も増え、規模も大きなものになっていきます。

支那事変真っ只中の1938年7月9日、ソ連軍が「張鼓峰(ちょうこほう)」に陣地を構築し始めます。
張鼓峰

ここは明らかな満州国領であり、日本軍が撤退を申し入れましたが、ソ連軍は聞き入れませんでした。

この不法行為に、日本軍は実力行使で撃退することになります。

しかし8月1日、ソ連軍は大量の飛行機と戦車を出動させ、執拗な爆撃や砲撃を行いました。

この攻撃によって日本軍は壊滅状態に陥るも、なんとか高地の頂上を死守したまま、8月11日に停戦協定が結ばれました。

この「張鼓峰事件」は、日露戦争以降に経験した初めての欧米列強国との戦闘であり、日本は軍隊の機械化の遅れを痛感する結果となりました。

日本軍の戦死者は500名、ソ連側の戦死者は792名と、両軍ともに大きな損害を被りました。
張鼓峰を死守する日本軍
ソ連軍による張鼓峰爆撃

ソ連軍の指揮官「ヴァシーリー・ブリュヘル」は、その損害の大きさ故にモスクワへ呼び戻され、壮絶な拷問を受けて獄死しています。

スターリンは「極東進出」を本気で考えており、張鼓峰事件はその序章に過ぎなかったのです。
極東進出に消極的で、日本軍以上の損害を出したブリュヘルはスターリンに粛清されました

日本の陸軍の中枢である軍務局は、支那事変の最中である為、国民革命軍に集中しなければならず、満州での紛争においては「不拡大方針」を取りました。

このような日本政府の方針はスパイを通じてソ連に伝わっており、スターリンは、「日本との全面戦争に拡大する可能性は低い」と考え、思う存分の兵力を極東へ投入する事ができるのでした。

満州の国防を担い、ソ連の脅威を肌で感じ取っていた「関東軍」は、「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定し、ソ連の不法行為に対しては軍事力を以って強硬に対応する事が示されました。
関東軍参謀・辻政信

当時、日本軍は支那事変によってほとんどの兵力を支那戦線に投入しており、国内には二個師団しか残っていない状態でした。

そこで急遽、通常は4個連隊(約三万人)で編成される「師団」を3個連隊(約二万五千人)に減らし、装備も旧式の特設師団が新設される事になりました。

その新師団は「第15師団」「第17師団」「第21師団」「第22師団」「第23師団」を名乗り、関東軍の後方警備用として満州に配属されるはずでした。

しかし結局、熊本で編成された第23師団を除く4つの師団は支那戦線へと投入される事になってしまいます。

1938年7月に満州北部のハイラルに配属された第23師団でしたが、極寒の地では耐寒訓練が主になってしまい、ろくに戦闘訓練を行う事などできませんでした。

そしてようやく暖かくなってきた頃に、いきなり主力として、ソ連軍と本格的な戦闘をせねばならなくなってしまいました。

1939年5月11日、「ノモンハン事件」が起こったのです。
第二十三師団慰霊碑
1939年に入ると満州とソ連、満州とモンゴルとの国境紛争は激増していきます。

5月13日、関東軍司令部に第23師団から電報が届きました。

その内容は「12日の朝からモンゴル軍700名がノモンハン西地区にてハルハ河を超えて不法越境し、満州軍と交戦中。増援もある模様」というもので、関東軍の幕僚たちは慌てて「ノモンハン」という地名を地図で探し出しました。


電報受診から2時間半後、関東軍は航空部隊、自動車部隊などの増援をノモンハンに差し向けました。

現地にはすでに敵はいなかったものの、増援の爆撃機は国境を超えてモンゴル軍の兵舎を爆撃します。

この軍事衝突に対するソ連軍の反応は非常に早く、狙撃部隊、戦車部隊、装甲車部隊、砲兵、化学戦車など、高度に機械化され、最新兵器を充実させた大部隊をノモンハンへ送り込みました。
ソ連軍の化学戦車(火炎放射器を搭載)

第二十三師団の師団長「小松原道太郎」は、今回の紛争での捕虜に尋問を行い、「ソ連軍の兵力は500名」という情報を得ていた為、国境地帯に再びモンゴル軍が戻って来たのを知ると、山県武光大佐を指揮官とした「山県支隊」を編成し、出撃させました。

しかし実際に待ち受けていたのは、最新鋭の武装を施した2300名の大部隊だったのです。

東八百蔵中佐率いる「東捜索隊」は、「九二式重装甲車」という小型戦車を有しており、山県支隊の中でも機動力が高く、この時も先陣を切って前線へと突き進みました。
九二式重装甲車
5月28日早朝、東捜索隊はほとんど敵の抵抗を受ける事もなく紛争地へと到着したため、陣地を構築し始めました。

東捜索隊の動きを察知したソ連軍は装甲車部隊を向かわせて攻撃を仕掛けますが、反撃を受けて撃退される事になります。

東捜索隊は鹵獲したソ連軍の装甲車に残された書類を見て、自分達が前線に出すぎて、ソ連軍の後方に出てしまったことを認識します。

味方と分断され、敵中で孤立してしまったのです。

その頃、山県支隊の主力はソ連軍・モンゴル軍の陣地に攻撃を仕掛けていました。

優勢に戦局を展開する山県支隊でしたが、無線機の欠陥により6つに分散した部隊間の連絡がとりあえず、各部隊が各々の判断で戦う事になってしまいました。

東捜索隊は徐々にソ連軍やモンゴル軍の激しい攻撃に晒されるようになり、戦車、装甲車、騎兵、狙撃兵と戦闘を繰り広げ、その度に損害を出しつつも頑強に抵抗し、撃退していきました。

夜になるとソ連軍には増援部隊が到着しますが、この部隊は全く統率が取れておらず、東捜索隊の夜襲などによって撃退させられます。


東捜索隊は奮戦を続けるも、157名の兵員のうち、戦死者19名を含む91名の死傷者を出しており、部隊としては既に壊滅していました。

東中佐は
「日本軍が初めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守してこの次は靖国神社で会おう」
と訓示しました。

翌日、火炎放射器の攻撃によって東捜索隊の陣地は壊滅、東中佐は最後の20名の兵を引き連れて突撃し、全滅しました。

後方の山県支隊は時間稼ぎを行いながら撤退、戦闘がひと段落していた30日の夜半に東捜索隊103名の遺体を収容しました。

どういう経緯で広まったかはしりませんが、東八百蔵中佐の名前はモンゴル軍の間にも広まっており、モンゴル語で「ナラン・バクシ(太陽の先生)」と呼ばれていたそうです。

この戦い「ノモンハン事件」において、日本軍は159名の戦死者を含む290名の死傷者を出しました。

これに対しソ連軍は138名の戦死者を含む369名の死傷者を出し、日本以上の損害となりました。

戦車の数の比率は日本とソ連では1:3、装甲車の数の比率は1:18と、ソ連が圧勝するのが当たり前とも言える戦力差でしたが、日本兵は想像を絶する抵抗を見せたのです。
日本軍

陸の戦いと同時に、空でも両軍の戦闘機による空中戦が起こっていました。

日本軍の「九七式戦闘機」は、ソ連軍のIー153やI-16戦闘機と交戦し、圧倒しました。

九七式戦闘機の射撃の正確さ、そして驚異的な旋回半径の小ささにソ連軍機は為す術もなく墜落していくのでした。

日本軍機の未帰還機は64機でしたが、ソ連軍は250機を失い、その戦果は戦略的に押され気味であった地上の日本軍の戦線崩壊を防ぐことに貢献しました。
97式戦闘機

日本を圧倒する戦力を有しておきながら、戦果をあげられなかったソ連の指揮官フェクレンコ軍団長は容赦なく更迭され、代わりに「ゲオルギー・ジューコフ」を兵団長に任命し、ソ連軍はさらなる増強を試みます。

ジューコフは先の戦闘で大損害を被った原因を分析し、軍の規律を立て直しました。

このジューコフですが、ロシア史上に名を残す「軍事の天才」であり、後に元帥にまで上り詰める人物なのです。

スターリンがノモンハンの戦局をどれほど重視していたのかが伺えます。
ゲオルギー・ジューコフ

これに対して日本の関東軍は、「東捜索隊の全滅」や「敵兵力殲滅の失敗」などの責任を取るものが誰一人おらず、兵力の増強も行いませんでした。

日本国内でも、支那事変の長期化と、英米との関係悪化に緊張が走っており、ノモンハンに注意を向ける余裕などなかったのです。

「ソ連に事変拡大の意思はない」として、完全に大局を見誤っていました。

ノモンハン事件の実態は、モンゴルと満州という2つの傀儡国家の「領土紛争」という仮面をかぶった「ソ連の侵略戦争」なのです。

そして再び、ソ連との壮絶な戦いが始まるのでした。