2019年5月9日木曜日

明治維新1 ヒュースケンの言葉に耳を傾ける


江戸時代に日本が開国を迫られた時、日米修好通商条約に関わった「タウンゼント・ハリス」の名前は教科書にもよく出てくるのでご存知の方は多いと思います。
私は、ハリスの秘書兼通訳を務めた「ヘンリー・ヒュースケン」の言葉に強く心を揺さぶられました。
ヘンリー・ヒュースケン

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「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、
この進歩はほんとうに進歩なのか?
この文明はほんとうにお前のための文明なのか?
この国の人々の質樸な習俗とともに、
その飾りけのなさを私は賛美する。
この国土のゆたかさを見、
いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、
そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、
おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである。」
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「江戸時代って農民が虐げられてみんな貧しかった!」
というイメージが様々な方法で私達の頭に刷り込まれていますが、江戸時代後期に日本を訪れた外国人の目に写った日本人の姿はそうではなかったようです。
「貧乏だけど、貧困は存在しない」
と評した外国人もいます。
ヒュースケンは攘夷運動によって殺害されてしまいますが、彼が言う
「幸福な情景が終わりを迎える」
「重大な悪徳が持ち込まれる」
とは何のことだったのでしょうか。

私は、「明治維新」を見つめ直してみたいと思います。

日本の学校では「日本史」「世界史」と分けて教えられておりますが、なぜ分ける必要があるのでしょうか?
世界史の流れと「明治維新」は大きく関わっています。

明治維新が起こる前、世界は帝国主義が支配していました。
列強の侵略の触手はアジアにまで伸びており、
インドネシアはオランダの植民地
フィリピンはスペインの植民地
インド・オーストラリアはイギリスの植民地
というように、有色人種の力で国家の独立を保つのは困難でした。そして、有色人種は人としての尊厳すら奪われていたのです。

1840年の東南アジア
世界第2位の国力を誇り、不凍港を手に入れるために南下を目論むロシア、そしてそれを阻止しようとする覇権国家のイギリス。
19世紀はこの2国間のグレートゲームが世界情勢の流れを引っ張っていました。

そしてその世界情勢の激流の中で、日本がどう舵取りをしてきたかを見ていきたいと思います。
オランダという国は、日本と通商を持っていたことで有名です。
この国は17世紀の覇権国家であり、アジア貿易の主導権を握っていました。
しかし18世紀以降に没落の一途を辿り、19世紀には既に小国とも呼べる程になってしまいます。
それでもなんとかインドネシアを植民地とし、日本との通商を確保できていました。

1808年、ナポレオン戦争でオランダはフランスに吸収され、イギリスと対立することになりました。
しかしオランダは国を失ったことを日本には告げず、出島にはオランダ国旗を掲げ続けていました。

そこへ、敵対するオランダ船を拿捕すべくイギリスの軍艦「フェートン号」が出島にやって来ます。
オランダ商館員2名が人質となり、水や食料を要求された日本側は、対抗することができずに要求に応え、人質は解放されました。

この「フェートン号事件」によって、日本の防衛体制のもろさが明るみになり、以降、イギリスは日本に接近しようとします。
フェートン号事件


一方でロシアも、日本への接触を試み始めます。
シベリアでは食料生産が困難なため、かねてより日本との交易を望んでいたのですが、日本は取り合いませんでした。
これに腹を立てた外交官レザノフは、樺太や千島列島の日本人集落を襲撃させます。(文化露寇)
南部藩はこの報復として、国後島に立ち寄ったディアナ号の艦長・ゴローニンら8名を拘束します。
艦長を奪われたディアナ号もまた、翌年に高田屋嘉兵衛を連行しました。

ゴローニン
高田屋嘉兵衛
















高田屋嘉兵衛は択捉島や国後島の航路を開拓し、海運業などで巨万の富を築いていた商人です。
嘉兵衛は拘束されるなかでもロシア語を覚え、日露間の誤解を解き、この「ゴローニン事件」の解決に尽力し他たのであります。

「フェートン号事件」「ゴローニン事件」を皮切りに、日本と外国船との間で事件が度々起きるようになりました。

1824年、イギリス船の乗組員が、壊血病患者のために新鮮な野菜と水を手に入れようと水戸藩領の大津浜に上陸し、役人に捕らえられました。
事情を知った役人は船員達に水と食料を与えて釈放しますが、この寛大な措置は水戸藩の学者達から批判され、後の攘夷運動に繋がっていきます。(大津浜事件)

大津浜事件の説明

さらに同年、鹿児島南部のトカラ列島の宝島にイギリスの捕鯨船が漂着し、住民や牛に発砲しました。薩摩藩はこれに応戦し、船員一名を射殺しました。(宝島事件)
宝島


これらの一連の事件に幕府は警戒心を強め、1825年に「異国船打払令」を出します。
日本沿岸に接近する外国船は砲撃し、上陸した外国人は逮捕する、という内容のものでした。


外国船に対して強気な政策を打ち出したものの、それを考え直さなければならない出来事が起こりました。
「アヘン戦争」であります。

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