その排斥思想は、外国人を意味する「夷狄(いてき)」を「攘う(はらう)」という意味を持って「攘夷(じょうい)」と呼ばれました。
まだ13歳だった将軍・徳川家茂(いえもち)を補佐し、幕府の実権を握っていたのは、日米修好通商条約を締結した大老「井伊直弼」です。
井伊直弼 |
徳川家茂 |
孝明天皇は「攘夷」の立場を頑なにとっていたので、「日米修好通商条約」の勅許をもらえませんでしたが、井伊直弼は「国賊」の汚名を背負って天皇の勅許なしで条約に調印してしまいました。
なぜ、彼はそこまでして、日本の経済をめちゃくちゃにされる事も覚悟の上で、急いで条約を締結したのでしょうか。
私は、答えは「アヘン」にあると思っています。
イギリスは、清に対して「売るものがないからアヘンを売ろう」と「アヘン戦争」「アロー戦争」を戦い、清をボロボロにしました。
井伊直弼は、そのアジア情勢の中で、アヘンが日本へ大量に流入してくるのを危惧したのです。
日米修好通商条約の第4条にはこう書かれています。
「アヘンの輸入は禁止する」
この条文が前例となり、日英、日仏、日蘭、日露全ての国との通商条約にも「アヘンの輸入禁止」の条文が組み込まれました。
不平等条約である「日米修好通商条約」は、日本が清のようにアヘン漬けにされる危険性を回避する為の手段でもあったのだと考えられるのです。
しかし、孝明天皇は幕府と水戸藩に対し、無断調印に対する批判などを書いた勅書を下しました。(戊午の密勅)
当時としては朝廷から藩へ幕府を通さずに直接勅書を下すことなどもってのほかで、幕府は水戸藩が朝廷と組んで何か企んでいるのであろうと、これを重大な問題として捉えました。
そこで、井伊直弼は諸策に対し反対するものを弾圧し、100名以上の活動家を処罰しました。(安政の大獄)
その中には倒幕論者であった「吉田松陰」も含まれていました。
彼が松下村塾で育てた人材は後に大いに活躍することになります。
安政の大獄によって、多くの人材と諸藩の幕府に対する信頼が失われ、結果としては幕府の滅亡の遠因になったと言われています。
安政の大獄を指示した井伊直弼は、憤慨した水戸藩の浪士などの手によって暗殺されてしまいました。
(桜田門外の変)
桜田門外の変 |
実は井伊直弼は、何者かが屋敷に投げ込んだ手紙を読んで、自分が襲撃されるであろうことは重々承知していました。
それでも、従者の数を増やす事も、登城の時間をずらす事も、手紙のことを他言する事もしませんでした。
彼の本心をうかがい知ることはできませんが、列強の思惑が渦巻く世界情勢を乗り切るためには、国賊の汚名を一身に背負って、命を懸けてでもアメリカとの関係を深く結びつける必要があると考えたのではないでしょうか。
桜田門外の変で井伊直弼が殺害される一ヶ月ほど前、彼の結んだ日米修好通商条約に基づいて、「万延元年遣米使節団」が派遣されていきました。
咸臨丸 |
そのメンバーには「福沢諭吉」や「勝海舟」「ジョン万次郎」などが含まれており、彼らは帰国後、新しい日本を築き上げる大きな力になったのです。
さて、大老・井伊直弼を失った幕府では、即位したばかりで13歳の将軍、家茂を支えるために「安藤信正」が奔走します。
安藤信正 |
井伊直弼は反対派閥を弾圧しましたが、安藤信正は安政の大獄で弾圧を受けた「一橋慶喜」「山内容堂」などの謹慎を解くなど、穏健な路線を取りました。
また、「公武合体」を唱え、その一環として孝明天皇の妹、「和宮(かずのみや)」を将軍家茂へ降嫁させ、朝幕関係を深め、幕府の威信を取り戻そうとしました。
和宮親子内親王 |
「公武合体」とは、「公家・朝廷」と「武家・幕府」がともに難局を乗り越えようというものでしたが、世間では外国人に対する反発が増す一方で、尊皇攘夷派の動きは活発化していきます。
明治維新を語る際、最初に紹介させていただいたハリスの秘書「ヘンリー・ヒュースケン」も薩摩藩士に襲撃されて命を落としてしまいます。
ヒュースケン殺害事件 |
アメリカ公使館の通訳が刺殺されたにも関わらず、南北戦争で忙しかったアメリカはあまり大きな問題として介入してきませんでした。
さて、幕府の政局安定に尽力してきた安藤信正でありましたが、尊皇攘夷派の水戸浪士に襲撃され、背中に傷を負ってしまいました。(坂下門外の変)
幕府の御三家であった水戸藩ですが、光圀公が編纂を始めた「大日本史」を背骨に「尊皇」が叩き込まれていました。
和宮降嫁を強引に実現させたとして、安藤信正は襲撃の対象とされてしまったのでした。
安藤信正は結局この坂下門外の変をきっかけに失脚。
幕府はいよいよ人材不足となり、公武合体もトーンダウンしてしまいました。
そこで薩摩の島津久光は挙兵上京を敢行します。
目的は公武合体の推進などの改革を進言するためだったのですが、幕府を倒す為の挙兵と勘違いした尊皇攘夷派の志士たちもいました。
寺田屋に集結した攘夷派の志士たちは、島津久光が遣わした家臣によって殺されてしまいました。(寺田屋事件)
寺田屋 |
結局、幕府は薩摩藩の要求を受け容れ改革に着手します。
安政の大獄で追いやられた派閥(一橋派)を政治の中心に戻し、参勤交代の緩和などを行いました。(文久の改革)
外様大名の圧力により幕府が動いたことで、幕府の信用は失墜しました。
このように、国内情勢が混沌としていく中、日本をめぐる海外の動きは激しくなっていきました。
1861年、南北戦争で忙しいアメリカが、対日外交から脱落する中、ロシアがひょっこり対馬へやってきて占領してしまいます。
東アジアにロシアの拠点ができる事は、イギリスにとっても脅威であるため、この時はイギリスが対応してくれたので事なきを得ました。
そのイギリスもアロー戦争や太平天国の乱で清国にかかりっきりになっており、日本には一隻の軍艦も置いていない状態でした。
日本国内では譲位の嵐が吹き荒れ、イギリス公使館も度々襲撃されていたのですが、軍艦もないのであればイギリス大使が逃げ込む場所がありません。
そこでイギリス海軍の東インド・支那艦隊の「レオポルド・キューパー」提督は軍艦を横浜へ派遣し、自身も入港しました。
レオポルド・キューパー |
しかしここで大事件が起きてしまいます。
1862年「生麦事件」です。
生麦事件 |
島津久光が江戸から帰る途中、横浜での事でした。
狭い市中では武士であっても馬に乗るのは禁じられていたのに、馬に乗った四人のイギリス人は大名行列が近づいても馬から降りず、久光の乗った籠の横を通り過ぎようとしたのです。
四人は切りつけられ、一人が死亡、二人が重傷を負う事件となりました。
後日、イギリスは責任者の処罰と逮捕、賠償金を求めますが、薩摩藩は責任なしと回答。
怒り心頭のイギリスは「日本を海上封鎖する」との勅令を可決させ、キューパーは一旦、香港へ戻ります。
キューパーは、日本を海上封鎖しても薩摩藩が賠償に応じなかった場合の事を考え、京都、大阪、江戸も占領する計画を立てましたが、当時のイギリスにはそれに必要なだけの陸軍を日本へ派遣する余裕などありませんでした。
そのような状況にあっても攘夷運動は盛んで、建築中の新英国公使館も焼き討ちにあってしまいます。
キューパー提督はできる限りの軍艦を集めて横浜に向かいました。
この軍事的圧力に屈した幕府はイギリスに10万ポンドの賠償金を払いましたが、薩摩藩は依然2万5千ポンドの賠償金の支払いを拒否していたため、キューパーは7隻の軍艦を率いて薩摩へ向かいます。
イギリスからしてみれば、軍艦を引き連れていけば薩摩藩もビビるだろう、くらいに軽く考えていたのかも知れませんが、薩摩藩の覚悟は相当なものでした。
薩摩藩は決して「怖いもの知らず」でイギリスと戦ったわけではありません。
イギリスの強さは重々承知しており、寺田屋事件で謹慎を受けていた藩士も戦闘に参加する事を許され、子供ですら参戦するほどの「総力戦」の構えをとっていました。
当時14歳だった東郷平八郎や、10歳の山本権兵衛(後の総理大臣)も従軍していたのです。
薩摩藩士たちは島津久光の命により、選りすぐりの精鋭81名による「スイカ売り決死隊」を結成しました。
彼らは「今生の別れ」を意味する水盃を島津久光と交わします。
スイカ売りの振りをして敵艦内に潜入し、キューパー提督を殺して船を乗っ取るこの作戦は、イギリス軍の警戒が強く断念せざるをえませんでした。
ちなみに、この作戦には生麦事件の犯人と言われている「奈良原喜左衛門」も参加しています。
イギリスの軍艦が生麦事件の報復として薩摩藩の船を拿捕し、薩摩藩がこれに対し砲撃を加えた事によって薩英戦争は火蓋を切りました。
薩英戦争 |
イギリス艦隊が薩摩藩の大砲の射程圏内にいた為、旗艦の艦長と副艦長が死亡するなど11名の死者、52名の負傷者を出し、戦艦大破一隻、中破二隻の損害を与える事ができました。
しかし薩摩藩も数百戸の民家、藩士屋敷が焼失するなど大損害を被ります。
イギリス海軍内では、海兵隊を投入して上陸しようという声も上がりますが、キューパーは戦局を判断し、横浜へ撤退していきました。
そして最終的に薩摩藩が幕府から借用する形で賠償金を払い、講和する事になります。
この結果には世界中が驚きました。
この時の事をニューヨークタイムズはこう書いています。
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本人を侮ってはいけないという事だ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにも関わらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった。西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」
イギリス海軍の力を思い知った薩摩藩、圧力に屈さずに挑んできた薩摩藩を見直したイギリス、この両者は薩英戦争をきっかけに接近することになっていきます。
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