2019年6月29日土曜日

支那事変1 共産主義は何人殺した?

ロシア革命を成功させ、共産党による一党独裁体制を築いたウラジーミル・レーニンが実施した政策は、「個人取引一切禁止」「企業国有化」「食料配給制」「農産物強制徴収」「労働者による工場管理」でした。

まさに「THE・共産主義」と呼びたくなるようなコテコテの政策なのですが、給与が平等に分配される事によって早速「働かなくなる労働者」が続出します。

これに対しレーニンは「強制労働」を実施しますが、「社会主義の理想と異なるじゃないか!」と共産党内から批判を受ける事になりました。

この反発に対してレーニンは党内で派閥を作る事を禁止し、「一党独裁」どころか、党内の少数の人間による独裁が固められていきました。

階級社会の権力を打倒するために築かれた共産主義国家は、皮肉にも権力が一極集中する独裁国家になったのです。
ウラジーミル・レーニン
1921年、ロシア革命後の内戦の中でも強制徴収が行われていたために農村部では大飢饉が起きていました。

その飢饉は想像を絶するもので、人々は人間の肉を食して命をつなぎました。

体力の少ない子供が死ぬと、大人はそれを埋葬せずに食し、それでも500万人が飢え死にしたと言われています。
低迷する経済を持ち直すためにレーニンは新経済政策「ネップ」を打ち出します。

「余剰生産物の自由販売」「私的中小企業の開設許可」など、社会主義の思想に反するこの政策は批判を浴びましたが、徐々に経済は回復していきました。

しかしその翌年、1922年にレーニンは脳梗塞で職務を離れる事になってしまいます。

レーニンはモスクワ郊外に移住します。

「ヨシフ・スターリン」は、レーニンに対する訪問者との面会を管理する役職につきました。

スターリンとレーニンはしばしば政策について口論し、対立を深めていくことになります。
レーニン(左)スターリン(右)
レーニンは妻・クルプスカヤを仲介して政治局へ意見や指示を出していましたが、スターリンはこれを嫌い「レーニンと政治の話をするな」と電話でクルプスカヤを恫喝します。

これによってレーニンとスターリンの中は決定的に悪くなり、レーニンはスターリンの持つ「差別意識」「凶暴性」を見抜いて「スターリンを指導者にしてはならない」と遺書に書き残しました。
ナデジダ・クルプスカヤ
そして1924年、レーニンは4度目の発作を起こして死去します。

最後の一年は言葉を話す事もなく、ほとんど廃人状態でした。
生前最後の写真
スターリンはなんとレーニンの遺体に防腐処理を施し、永久保存状態にして公開展示します。

指導者を祀る事によって、共産党の求心力の低下を防ごうと考えたのです。

この時点で共産主義は、個人崇拝の宗教と化しました。
レーニンの遺体はレニングラード(レーニンの町)に眠っています
レーニン亡き後の後継者には、ロシア革命の頃からレーニンの右腕だった「レフ・トロツキー」が有力候補に挙げられていました。

トロツキーは、
「工業後進国であるロシア一国が共産主義になったところで、国際的に孤立するだけ」
と考え、共産主義を世界中に広める「世界革命」「世界ソヴィエト共和国」を構想していました。

この考えはレーニンと同じであり、マルクス主義本来の思想に通じるものでした。

コミンテルンは、世界革命を実現する為の組織として結成されたのです。
レフ・トロツキー
これに対してスターリンは、「世界革命をしなくても一国で社会主義国家の成立は可能」と考え、「一国社会主義」を唱え、トロツキーと対立します。

トロツキーやスターリンの他、古参の要人たちが入り乱れる後継者争いは激化して行き、思想や政策の違いからそれぞれが対立し、派閥を作り、権力争いに没頭していきました。

スターリンはトロツキーの評判を下げるために嘘の日程を教えてレーニンの葬儀を欠席させたりと、情報操作に余念がなく、ライバルたちを蹴落としていきます。

その結果、トロツキーや他の有力者達は次々とソ連から追放され、ソ連内部における最高地位は「書記長」であるスターリンとなりました。
ヨシフ・スターリン
権力を掌握したスターリンはソ連の工業化と、経済の集中管理を推し進め、コミンテルンは一国社会主義の概念の下、ソ連の為の諜報・謀略を担当するようになりました。

コミンテルンの海外でのスパイ活動やソ連の工業化にはどうしても「外貨」が必要になる為、スターリンは「五カ年計画」を策定します。

政府の計画に基づいて収穫量を定められた農作物は全て徴収され、それを輸出して得た外貨は工業化の原動力となりました。

全世界にとって不幸だったのは、この五カ年計画が始まった1928年の翌年に「世界恐慌」が起こったという事です。

世界中の資本主義社会が恐慌によって衰退していく中でソ連だけが成長していく現実は、欧米や日本にも大きく影響を与え、共産主義の浸透の手助けをしてしまいます。

自由主義経済の限界を感じた各国は、経済政策に「国」が介入する「社会主義」に感化されてしまいました。

フランクリン・ルーズベルトの「ニューディール政策」もその一つです。

1929年を基準にして指数化した各国のGDP推移
スターリンの情報統制は徹底しており、諸外国は五カ年計画の実態など知る由もありませんでした。

五カ年計画における農業政策で有名なのが「ソフホーズ」と「コルホーズ」です。

「ソフホーズ」とは、「国営農場」の事です。

国家計画に基づいて、国が指定した作物を栽培し、生産物は全て国が買い上げます。

大規模な農場に高度な機械が導入されており、大規模機械化農場がどれほど有利なのかを国民に知らしめる役割を担っていました。

「コルホーズ」は「集団経営」を意味し、半官半民の協同組合による農場経営です。

土地を所有していた「富農」を追放して国有農場にし、そこで労働者は組合員として農作物を政府に売却して賃金を得ます。

コルホーズは「農協」のモデルになったとも言われていますが、農協とコルホーズの決定的な違いは、農協の場合は農機具や土地が「私有財産」であり、自作農として決定権を持つことです。

コルホーズでは、農民達は土地も農機具も所有を許されず、共産党幹部である組合の役員の指示に従うだけで、収益は均等に分配されていました。

「ソフホーズ」も「コルホーズ」も、どちらも「集団」で農業を行うことにこだわっているのはなぜでしょうか?

利益が均等に分配されるので、サボる人間が出てくるからです。

集団で仕事をする事によって相互監視のシステムを構築し、効率よく農民から収奪できるのです。
コルホーズの農民
農民は作物を国へ売却しますが、その買取価格は非常に低価格でした。

徴発される収穫物の量は、豊作・不作ではなく「政府の都合」によって左右され、その要求は非常に厳しいものでした。

集団農場に囲い込まれた農民達の不満を押さえつける事ができたのは、「富農(クラーク)」という見せしめがあったからです。

富農とは帝政ロシア時代の地主階級の事であり、ロシア革命や内戦の時にほとんど皆殺しにされて絶滅しています。

しかしスターリンは、勤勉で熱意のある「少しばかり裕福な農民」に対して「富農」のレッテルを貼り、さらにコルホーズへの加入を渋る農家にも「富農支持者」と決め付けて、100万人を処刑しました。

この惨劇は、さらなる悲劇を引き起こします。

「やる気のある農民」つまり指導者的立場にいる人間を一掃してしまった事によって作業効率は下がり、当然のように飢饉が起こったのです。

それでもスターリンは工業化を達成するために、農作物を徴収する事をやめませんでした。
コルホーズ
五カ年計画における飢饉の中で、最も凄惨だったのは「ウクライナ」です。

当時ソ連領だったウクライナは、ヨーロッパの穀倉と呼ばれるほど豊かな土壌を有していました。

農耕地帯のウクライナでは知識人や、反乱分子はことごとく処刑され、厳しい目標収穫高に苦しんでいました。

スタニッツァ・ボルタフスカヤという町では目標の収穫高を達成する事ができず、罰として男達は皆運河の建設現場で重労働を強いられ、女はステップ地方に送られて農地を開拓させられ、男も女もほとんどが死にました。

まさに「見せしめ」の為に4万人も住んでいた町が一つ消滅したのです。
ウクライナの人口減少(赤い地域では25%も減った)
農作物は全て「人民のもの」とされ、勝手に穂を刈ったり、落ちていた穂を拾っただけでも10年間シベリア送りにされるような過酷な状況下で、人々の労働意欲は極限にまで低下しました。

スターリンの虐殺が飢饉を呼び、飢饉が虐殺を呼ぶ地獄となったのです。。

共産主義が生んだ、この「人為的な大飢饉」を「ホロドモール」と呼びます。
道端に死体が横たわっている光景が当たり前に
そんな中、1932年にはウクライナから農民が脱出しないように国内パスポート制が実施され、ウクライナは封鎖されてしまいました。

共産党は「オルグ団」を結成して農民達や農場を監視し始め、役人達は各家庭から食料を強奪して回りました。

農民達は犬猫やどんぐりなどを食べて過ごし、ついには病死した馬や人を掘り起こして食べる者も出始めたためにさらに病死者が増え、赤子を連れ去って食べる者も出てきました。

町には死体が山積みになって死臭が漂い、子を持つ親は子供を戸外へ出さないようになります。

五カ年計画の成功を対外に宣伝し続けていたソ連は、このような実情を一切認めず、隠し通そうとしました。

ウクライナでの飢饉による死者数は250万人〜1450万人と諸説ありますが、これがソ連による「虐殺」である事に疑う余地はありません。

1933年になってようやくウクライナからの挑発は中止になり、人々にパンが配られましたがパンを早く食べ過ぎて死亡した人が続出したと言われています。
ホロドモール慰霊碑
路上に座り込む飢えた人々
さすがに共産党内部からも、スターリンのこのようなやり方に危機感を抱く議員も多数出てきました。

そこでスターリンは部下に命じて対抗勢力の暗殺計画を練ります。

1934年12月、セルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに大粛清が始まりました。
キーロフ
まずは共産党関係者5000人が逮捕され、収容所に入れられた後に銃殺された後、かつてスターリンが手を組んでいた大物政治家達も粛清の対象になり、メキシコへ亡命していたトロツキーなども暗殺されてしまいました。

しかしこれはまだ序の口で、粛清の対象は政治家だけでなく民衆にまで及び、その数は100万人にも及びました。

1939年にはロシア革命以前からの古参の議員は3%しかいなくなってしまい、スターリンは「個人による独裁」を始める事になります。
粛清された人間は写真からも消され、「いなかった」ものとされました
1917年、ロシア革命当時の共産党の中心メンバー。生き残ったのはスターリンのみ。
1935年、モスクワで開かれた第7回コミンテルン大会でスターリンは次のように演説します。

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ。日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日独の敗北は必至である。そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

この演説は「砕氷船のテーゼ」と呼ばれています。

日本が支那事変から日米開戦へと歩んでいくその道筋の影に、共産主義の暗躍があったように思えてならないのです。
砕氷船

2019年6月26日水曜日

満州事変9 傀儡国家?だからどうした!


「満州国」と聞くと、「侵略」とか「戦争」などの単語を連想し、あまりいいイメージを持たない人が多いのではないでしょうか。

そういった「イメージづくり」は今でもNHKなどが膨大な取材費用をつぎ込んでせっせと行っています。

そのイメージ作りによく利用されるのが「阿片」です。

満州は、阿片の一大産地でありました。
NHKスペシャル

阿片とはケシの実から採れる乳液を乾燥させて粉末状にした「麻薬」で、その歴史は古く、紀元前3400年頃のメソポタミアでは既にケシが栽培されていました。
ケシの実
しかしモルヒネやヘロインに精製せずにそのまま使用しても麻薬としての効果は薄く、古代から「鎮痛剤」「眠剤」として使用されていましたが、乱用すれば健康被害を及ぼすものでもありました。

日本でも江戸時代には「阿芙蓉(あふよう)」と呼ばれ、医療行為に使用された例がありますが、麻薬として常用されるような習慣はありませんでした。

その為、開国した時の修好条約にはアヘンの輸入を禁止する条項が入っています。

打って変わって支那では、「明」の頃から阿片吸引の習慣が根付いており、「清」の末期になると4人に1人が阿片中毒患者と言われるほどになってしまいます。
日清戦争後に日本の領土となった台湾にも、20万人近いアヘン中毒患者がいたと言われています。

日本の統治が始まった当時の台湾では、支那人が台湾先住民にアヘンを売りつける事で経済支配が成り立っていたため、アヘンを厳しく取り締まる日本の政策に対して激しい反発が起こり、アヘンの全面禁止は不可能だと悟った日本は「漸減政策」をとります。

アヘンの売買を政府の専売制にして健常者には売らず、中毒患者にのみ販売し新規の中毒患者を作らないようにするという、50年先を見越した長期計画を実行したのです。

その結果、アヘン患者数は昭和10年には16000人、昭和14年には500人を切るほどまで減少し「撲滅」に成功しています。(1946年に0人達成)
漸禁政策を進めた後藤新平

このような阿片中毒対策は台湾だけでなく、満州でも行われました。

1906年、日露戦争に勝利し南満州での権益を手に入れた日本は台湾と同じような漸禁政策を行います。

しかし支那では台湾以上にアヘンが蔓延しており、各軍閥は農民に強制的にケシを栽培させ、アヘンを収奪して税をむしり取っていました。
奉天軍閥の張学良自身もアヘン中毒患者だった
そのような状況で台湾と同じような事をしても成功するわけがなく、日本は専売制を実施しますが、日本が売る値段の半額でアヘンを売りつける闇取引が横行してしまうばかりでした。

そしてアヘン対策の為に綿密に作成された麻薬売買の記録は、日本を「麻薬大国」に仕立て上げる為の資料として利用され、「日本が支那人をアヘン漬けにした」というプロパガンダとして世界中に発信されてしまうのです。

この当時の日本は、やる事なす事全てが裏目に出ていたような気もいたします。

しかしアヘンの生産、売買を取り仕切る事で膨大な収入源となり、台湾統治や満州国にとって貴重な収入源となって「アヘン利権」を生み出してしまった事も確かであり、次第にアヘンの売買は軍費調達に利用されていく事になりました。

ただ、時代背景を考慮するなれば、アヘンから精製されて造られる「モルヒネ」は絶対に必要なものだったはずなのです。

満州でアヘンを栽培・販売していたからといって、「悪の麻薬大国」と断じてしまうのは如何なものかと思います。

戦争に麻薬は「医薬品」として必要不可欠であったという事実を考慮した上で「アヘン大国・日本」の評価を論じるべきではないでしょうか。
ところで、満州国の国旗は五つの色で構成される「五色旗」となっています。

満州族と統一を意味する「黄」
大和民族と情熱を意味する「赤」
漢民族と青春を意味する「青」
モンゴル民族と純真を意味する「白」
朝鮮民族と決心を意味する「黒」

満州は「五族協和」を理想として掲げ、1932年の建国以来「王道楽土」を目指して国づくりを始めました。

人口の95%が漢人・満州人、5%が日本人(その半数は朝鮮人・台湾人)となっており、そして少数のロシア人が暮らしていました。

日本政府は貧困農村の住民や、農業希望者たちに移民を募集し「満蒙開拓団」として27万人を送り込みます。
また、しばしば欧州で迫害を受けていた「ユダヤ人」を受け入れてユダヤ人自治州を作る「河豚計画」も進められていましたが、大東亜戦争の勃発などにより実現が困難となり、頓挫してしまいました。

しかしそれでも樋口季一郎などによって多くのユダヤ人が救われました。
「オトポール事件」で100名前後のユダヤ人を救った樋口季一郎
経済面では、日本企業の参入により大いに発展し、「10年間で国民の所得が10倍」という驚異的な経済成長を遂げています。

日本国内では色々な「しがらみ」で不可能だった様々な試みが成されたのです。

満鉄に就職した支那人が自分の家族だけでなく、友人二人の家族を一緒に養う事ができたほどでした。

日本資本の威信をかけて造られた満鉄の「あじあ号」は冷暖房完備で最速120kmを誇り、高速鉄道の構想は現在の新幹線の礎となっています。
あじあ号
さらに首都・新京には映画会社「満州映画協会」通称「満映」が設立され、多くの支那人を俳優・監督として抜擢し、五族協和を国民に知らしめました。

戦争が激化する中でも1938年〜45年もの間に100本以上の映画を生み出し、終戦後に日本に引き上げたスタッフ達は現在の「東映」の基盤となりました。

満映がなければ「ガメラ」も見れなかったかも知れません。
インフラ面ではまず「豊満ダム」の建設が挙げられます。

「東洋最高のダム」と言われたこのダムは、満州の水害を無くし、農業を発展させ、多くの地域の電力を賄いました。

このようなダムや炭鉱の労働では過酷な環境によって死者が多数出たのですが、これを「強制労働だった」と朝日新聞は主張しています。
豊満ダム
地方では匪賊や馬賊の襲撃に苦労しながらも、農村で作られる大豆は素晴らしい品質で、世界中に流通しました。
満州大豆

満州国の元首は、執政である愛新覚羅溥儀で、1934年からは溥儀は皇帝となり、「満州国」は「満州帝国」となりました。

首相は張景恵(ちょう けいけい)や鄭孝胥(てい こうしょ)などが就任していきますが、実際の政治運営は関東軍司令官の指導下に行われ、高級官僚などの要職には日本人が就任し、公務員の半分が日本人という状態でした。
愛新覚羅溥儀
また、軍事面においては「満州国軍」が創設されてはいるものの、国境警備や国内の治安維持などの任務を主としており、実質的には関東軍の後方支援部隊であるとも言えました。
満州国軍のロシア人
満州国が内政面・軍事面において、日本の強い影響力を受けていたのは確かな事であり、「傀儡国家」と呼ばれるのも致し方ない事です。

そういった満州国の現実は、満州事変を立案した「石原莞爾(いしはら かんじ)」の理想とはかけ離れたものになったしまったようで、「わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底から踏みにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。」と語っています。
石原莞爾
しかしそれでも、荒れ果てた荒野が「東洋のパリ」と呼ばれるようになるまでに発展した事は世界を驚愕させ、何より国民党の蒋介石も衝撃を受けました。

「まずは中華民国の真の統一を優先させ、国力をつけなければ抗日路線を進んでも無駄である。」と蒋介石は考え、共産党の排除を優先させるのです。

満州国の存在は、蒋介石を抗日路線から逸らさせ、ソ連の南下も防ぎ、日本経済の原動力にもなりました。

まるで全てがうまくいっているかのように思えたのです。
新京
奉天

大連


2019年6月23日日曜日

満州事変8 世界は満州事変をどう見たのか

国際間の話し合いや条約では、戦争を防ぐことはできません。

その前例として「不戦条約」が挙げられます。

第一次世界大戦の後、63カ国が署名した「パリ不戦条約」は、国際紛争解決の手段として「戦争」をする事を放棄したものです。

しかしこの条約では「自衛戦争」は認められていました。

その要領は「国境の外であっても、自国の利益を守る為であれば、軍事力を行使してもそれは侵略ではない」という事であります。

「自衛戦争」が認められるなら、「侵略戦争」の定義は何か?という話になるのですが、この条約は「侵略」が定義づけされておらず、非常にあやふやな内容だったのです。

1932年1月7日、アメリカの国務長官「ヘンリー・スティムソン」は、満州における日本の軍事行動を不戦条約違反であると勧告しました。(スティムソン・ドクトリン)
ヘンリー・スティムソン。原爆投下の決断に大きく関与した。
しかし満州事変は「国境外であっても自国の権益の為なら武力行使は侵略ではない」と言う不戦条約の主張に、まさに当てはまるのです。

また、国境外での武力行使を世界で一番行っていたイギリスは、スティムソンの主張に同意しませんでした。

要は、不戦条約というものは「これ以上、支那利権を他国に渡したくない」というアメリカの野心を包み込んだ「まやかしの平和主義」の産物なのです。

日本からしてみれば、せっかく満州国という「共産主義の防波堤」を作ってあげたのに、なぜアメリカから批判されなければならないのか、という気持ちだった事でしょう。

さて、満州事変について、中華民国政府は「国際連盟」に訴えかけ、日本の「いわゆる侵略行為」について議論される事になりました。

これを受けて国際連盟は事態を調査すべく調査団を結成する事になります。

イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリアから1名ずつの5名で構成され、そして当事国の中華民国と日本からもオブザーバーとして1名ずつ外交官が参加する事になりました。

イギリスのリットン伯爵を団長とするこの視察団は「リットン調査団」と呼ばれ、その費用は全て中華民国と日本が負担しました。
ヴィクター・ブルワー=リットン
調査団は直接満州へ赴いたわけではなく、日本、上海、南京、北京を視察してから満州へ入りました。
調査団の来日を花束で歓迎
調査団は日本で昭和天皇に謁見し、幾度となく宴会などの接待を受けました。
しかしドイツ代表のハインリッヒ・シュネーによると、刺身やウナギの蒲焼などの和食は口に合わなかったようで、さらに芸者による三味線も「単調な音楽」として不評だったようです。

支那ではどのような説明や接待を受けたのかはわかりませんが、調査団は1932年の3月から6月までの3ヶ月に渡り調査を行い、膨大な証言や証拠を基に「リットン報告書」を作り上げました。
靖国を参拝するリットン調査団
柳条湖事件を調査
リットン報告書の内容は日清戦争にまで遡り、
「ロシアの領土的野心」
「満州における日本の権益」
「支那の近代的進歩の遅さ」
「支那は満州に無関心であった事」
「満州の発展は日本の努力によるものである事」
などについて、比較的公平にまとめられ10章に渡って書かれており、その結論としては
「満州事変は日本の侵略とは一概に言えないけど、自衛戦争とも言い難いし、満州国の自発的な独立とも言えない。支那が主権を握りつつ、日本にも一定の利権を認めましょう」
という事でした。

そしてこのような提言をしています。
・満州事変以前に戻るのも現実的ではないし、かといって日本の主張通りに満州国を承認するわけにはいかない
・満州は、支那主権のもとで自治政府を樹立する。
・自治政府には国際連盟が派遣した外国人顧問団が指導する
・満州は非武装地帯とし、国際連盟が助言した特別警察機構が治安を維持する
・日本と支那は仲直りしなさい

要するに、「一定の日本の利権は認めるけど、満州国は国際管理下に置くので日本軍は撤退してください。」という事です。

「支那による主権」とは言うものの、中華民国は統一国家などではなく、地方の軍閥も完全に掌握できたわけでもなく、共産党との内戦も続いていました。

つまり支那が主権を握る事など無理な話で、自治政府など列強国が派遣した顧問団の思うがままになってしまう恐れがあります。

さらに日本と支那両国の軍隊を排除して国際連盟の影響下にある特別警察を置く事は、「事実上の乗っ取り」なのです。

国際連盟の派遣したメンバーの中には、なぜか国際連盟に加入していない「アメリカ」の代表が入っている事も違和感を感じざるを得ません。

アメリカは何とかして満州利権に付け入ろうと画策していたのではないでしょうか。

このリットン調査団が提出した報告書は、国際連盟にようる同意確認によって
賛成42票
反対1票(日本)
棄権1票(タイ)
となり、採択される事になりました。

唯一棄権したタイは、華僑との間で民族摩擦が起こっていて支那に同情できない事情があり、同じアジアの有色人種国家として対日関係を重視していたのです。

この「賛成多数」の採決を日本の外相「松岡洋右(まつおか ようすけ)」は受け入れる事ができず、その場で退場して国際連盟から脱退しました。

松岡外相は、国際連盟脱退を「最悪のケース」と想定しており、こうなる事は極力避けたかったはずです。

列強国の野心に従属するのか、独立国家として孤立する道を選ぶのか、その選択を迫られた上での決断であったと言えます。
退場する松岡洋右
日露戦争前、ソ連が満州を占領した時には、支那は何も文句を言いませんでした。

しかし日本が権益を守るために満州を制圧した時は、世界中から文句を言われるわけです。

「満州事変から日本は孤立化していった」と言われますが、私は「白人世界」に啖呵を切ったのだと、一定の理解と評価をしたいと思います。

その先に国の滅亡が待っているかどうかなんて、わかるはずがないのです。

2019年6月22日土曜日

満州事変7 喧嘩してはいけない場所がある

1932年3月、関東軍主導によって満州地方は独立宣言を果たし、満州国が建国されました。
満州から追い出されてしまった張学良は、満州と支那との境目にある「熱河省」で義勇軍を作り、反満州勢力を築いていました。
熱河省
熱河省で住民への略奪・婦女暴行・不当な占拠などを行う反満州勢力に対し、関東軍は「熱河作戦」を実行し、張学良軍を叩いて万里の長城より南に追いやることに成功しました。
熱河作戦

万里の長城は河北省と熱河省の境目にあり、漢民族にとっては「国境線」という意味合いが強く、長城より西側の地域を「関内」東側を「関東」または「関外」と呼んでいました。


要するに漢民族が作った国「中華民国」で重要なのはあくまでも長城より以西、以南の「関内」なのです。

関東軍はその事を重々承知しており、昭和天皇も「万里の長城を越えて関内に侵入しないように」との条件で熱河作戦を認可しています。

このような日本の認識を逆手にとって、「日本軍は万里の長城を越えて攻めてこない」と舐めきった国民革命軍は、熱河省への軍事的挑発行為を繰り返しました。

このままでは国境紛争は解決しないと判断した関東軍は「関内作戦」を実行し、万里の長城を越えて関内へ進出、北京に迫ります。

ここでようやく支那国民党は停戦協定に応じ、1933年5月31日に「塘沽停戦協定」が結ばれることになりました。

これによって満州事変は終息を迎えることになり、中華民国は満州国に対して事実上の承認をする事になります。

世界恐慌が深刻化し、列強各国がブロック経済を推し進める中で、日本にとって満州国はまさに「生命線」となりました。
停戦協定の交渉
話を少し戻して、満州事変がまだ終息していない1932年の1月、日本を震撼させる事件が起こりました。

「桜田門事件」です。

皇居の桜田門に昭和天皇の乗った馬車列が差し掛かった時、突然沿道から男が飛び出してきて2両目の馬車に手榴弾を投げつけました。

昭和天皇は3両目の馬車に乗っていた為に無事でしたが、近衛兵1名と馬二頭が怪我をしてしまいます。

犯人は朝鮮人の抗日武装組織「韓人愛国団」から派遣された刺客の李奉昌で、逮捕された後に大逆罪で死刑となりました。

上海では国民党機関紙「民國日報」が「不幸にしてわずかに副車を炸く」と桜田門事件の事を報じました。

「残念ながら天皇ではなく従者の馬車だった」という意味のこの報じ方は当然ながら日本人の逆鱗に触れ、上海での日支関係は緊迫化してしまいました。

上海にはイギリス・アメリカ・日本・イタリアなどから成る「共同租界」と、フランスの「フランス租界」があり、これらは総称して「上海租界」と呼ばれ、各国ともに自国民を守るために軍隊を駐留させていました。
上海租界
1928年の上海
さらに上海にはアヘンの密売で巨万の富を築き、屈指の資産力を握っていた「サッスーン財閥」の本拠地がありました。

要するに、上海は列強各国の利権と思惑が蠢く場所であるという事です。

ここで問題を起こして彼らの経済活動の妨げになるようであれば、たちまちにして世界の除け者になってしまうという事なのです。
上海にあるサッスーン・ハウス
そんな上海郊外に、突如として3万の兵力を擁した支那国民党軍「十九路軍」が現れました。

彼らは「共産党」との戦闘により損耗しており、再編成のために上海付近に駐留します。

1931年に支那全土の共産主義者達が江西省に集結する事によって樹立された「中華ソヴィエト共和国政府」と、蒋介石率いる国民党は内戦状態になっていたのです。
第19路軍

さて、国民党軍が上海近郊に駐留し続けるとなると、日本軍も警戒せねばなりません。

上海に駐留する千名の海軍陸戦隊だけでは対応できないため、居留民の生命と財産を守るという名目で軍艦を十数隻、上海へ派遣しました。

当時の上海では、満州事変の勃発によって支那人による排日運動が活発化しており、日本資本の企業では支那人労働者がストライキを起こして工場の閉鎖を余儀なくされ、日本政府が居留民の帰国を促していたほどでした。

そのような緊迫した状況の中で、1932年1月18日、日本人僧侶数名が50名以上の支那人に襲撃され、1名が死亡する事件が起こりました。(上海日本人僧侶襲撃事件)

その翌日、武装した日本人右翼団体「青年同志会」の32名が、僧侶達を襲撃した支那人がいる「山友実業社」の物置小屋へ放火し、租界へ帰る途中で警官と乱闘になって双方に1名ずつの死者を出す事件がおきました。
射殺された日本青年同志会の簗瀬松十郎
日本の領事は上海の市長に対し、僧侶襲撃事件についての謝罪と賠償、抗日組織の解体などを要求しました。

上海では日本人も支那人も双方とも異様な興奮状態にあり、戒厳令が出されて全域にバリケードが設置され、外国人居留民は自国の租界に避難するように勧告される始末でした。

この緊迫した事態に、租界を有する列強国は協議し、共同租界内を分担して警備に当たることにしました。

そして1月28日、警備中の日本軍に対して支那兵が射撃を加え、軍事衝突が勃発します。

そのまま戦火は拡大し、「上海事変」に発生するのですが、いかんせん日本海軍は戦力不足であるため陸軍からも増派が送られました。
当時の国民党はドイツと軍事同盟を結んでおり、国民党軍の装備はドイツ式

激しい戦いは3月はじめまで続き、日本軍は769名、国民党軍は4000名以上という多大な戦死者を出す事になります。

この戦いでは、アメリカの退役軍人達が支那軍パイロットとして日本軍と交戦していた事も発覚しており、この当時からアメリカは日本と戦う意思をあらわにしていた事がわかります。
上海事変は市街戦
ところでこの「上海事変」ですが、この戦いは今度の日本の行く末を暗示しているかのような出来事がありました。

敵陣地を突破するために三名の一等兵が爆破筒を持って突撃し、鉄条網を破壊して本人達も爆死した決死の作戦を、陸軍大臣であった「荒木貞夫」が褒め称えて「爆弾三勇士」と戦死した三人に命名しました。

「爆弾三勇士」は英雄視されて映画、歌、劇などが作られ、子供達は「三勇士ごっこ」をして遊ぶようになります。
爆弾三勇士
また、2月22日の戦闘で銃弾を受けて人事不省に陥った「空閑昇(くが のぼる)」少佐は国民党軍の捕虜になり、十九路軍の野戦病院で治療を受けます。

空閑少佐は捕虜になった事を恥じて自決を図りますが、看病に当たってた国民党軍の軍官に説得され、日本に帰ってくる事ができました。

軍法会議においても無罪のなった空閑でしたが、世間の風当たりは冷たく、軍の同期生達からは「潔く自決せよ」との電報が届いたり、自宅に怒鳴り込んだり投石する人も出てくる始末でした。

三月末、空閑は部下が多く戦死した上海の戦地を訪れ、その場で拳銃自殺をしてしまいます。

その死は「美談」として持て囃され、「捕虜」をタブー視する傾向は根付いてしまう事になりました。

これらの出来事は、「特攻」や、「生きて虜囚の辱めを受けず」という考えの下地になってしまったようにも思えます。

明治維新以降、日本は近代国家として国際的に認めてもらわねばならず、その為にあらゆる事に対して正当性を主張せねばなりませんでした。

爆弾三勇士の賛美や、生きて帰ってきた空閑少佐を死へ追いやってしまった世の論調は、その歪みなのではないかと思う次第であります。
空閑少佐の死は号外で伝えられました
日本軍の勝利に終わった上海事変ですが、停戦協定が成立したのは5月5日の事になります。

その交渉中の4月27日、上海日本人街で天長節(天皇誕生日)祝賀式典が開かれました。

この時、式典会場に朝鮮人テロリストが爆弾を投げこみ、医師が死亡した他、師団長や師団長など軍の要人、領事などの外交官数名が重傷を負いました。

この中でも重光葵(しげみつ まもる)公使は後に外務大臣を務める人物で、この時の爆発で右足を失いまってしまいました。

しかし重光は爆弾が投げ込まれても逃げませんでした。

後にその理由を「国歌斉唱中だったから」と答えています。

重光はその愛国心を胸に、後に戦時中も戦後も日本の為に奔走する人物になるのです。
爆弾が投げ込まれる直前
瀕死の重傷を負いながらも、停戦協定に調印
さて、この上海事変の停戦協定に対する列強国の態度は強硬なものとなりました。

日本人居留民は便衣兵狩りの名目で自警団を組み、支那人に検問を行って軍隊に引き渡したり、私的に監禁、処刑を行っていたのです。

上海在住の外国人たちは恐怖に震え、戦いによって利権を脅かされた各国の日本に対する姿勢は厳しいものになっていきました。

欧米の列強からしてみれば、無政府状態の満州で日本が国を作ろうが、知ったこっちゃなかったのです。

しかし、自分たちの権益が根付いている上海で暴れられるのは、到底許される事ではありませんでした。

世界情勢における日本の立ち位置に、暗雲が立ち込めてくるのでありました。