その前例として「不戦条約」が挙げられます。
第一次世界大戦の後、63カ国が署名した「パリ不戦条約」は、国際紛争解決の手段として「戦争」をする事を放棄したものです。
しかしこの条約では「自衛戦争」は認められていました。
その要領は「国境の外であっても、自国の利益を守る為であれば、軍事力を行使してもそれは侵略ではない」という事であります。
「自衛戦争」が認められるなら、「侵略戦争」の定義は何か?という話になるのですが、この条約は「侵略」が定義づけされておらず、非常にあやふやな内容だったのです。
1932年1月7日、アメリカの国務長官「ヘンリー・スティムソン」は、満州における日本の軍事行動を不戦条約違反であると勧告しました。(スティムソン・ドクトリン)
ヘンリー・スティムソン。原爆投下の決断に大きく関与した。 |
しかし満州事変は「国境外であっても自国の権益の為なら武力行使は侵略ではない」と言う不戦条約の主張に、まさに当てはまるのです。
また、国境外での武力行使を世界で一番行っていたイギリスは、スティムソンの主張に同意しませんでした。
要は、不戦条約というものは「これ以上、支那利権を他国に渡したくない」というアメリカの野心を包み込んだ「まやかしの平和主義」の産物なのです。
さて、満州事変について、中華民国政府は「国際連盟」に訴えかけ、日本の「いわゆる侵略行為」について議論される事になりました。
これを受けて国際連盟は事態を調査すべく調査団を結成する事になります。
イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリアから1名ずつの5名で構成され、そして当事国の中華民国と日本からもオブザーバーとして1名ずつ外交官が参加する事になりました。
イギリスのリットン伯爵を団長とするこの視察団は「リットン調査団」と呼ばれ、その費用は全て中華民国と日本が負担しました。
調査団は直接満州へ赴いたわけではなく、日本、上海、南京、北京を視察してから満州へ入りました。
調査団は日本で昭和天皇に謁見し、幾度となく宴会などの接待を受けました。
しかしドイツ代表のハインリッヒ・シュネーによると、刺身やウナギの蒲焼などの和食は口に合わなかったようで、さらに芸者による三味線も「単調な音楽」として不評だったようです。
支那ではどのような説明や接待を受けたのかはわかりませんが、調査団は1932年の3月から6月までの3ヶ月に渡り調査を行い、膨大な証言や証拠を基に「リットン報告書」を作り上げました。
リットン報告書の内容は日清戦争にまで遡り、
「ロシアの領土的野心」
「満州における日本の権益」
「支那の近代的進歩の遅さ」
「支那は満州に無関心であった事」
「満州の発展は日本の努力によるものである事」
などについて、比較的公平にまとめられ10章に渡って書かれており、その結論としては
「満州事変は日本の侵略とは一概に言えないけど、自衛戦争とも言い難いし、満州国の自発的な独立とも言えない。支那が主権を握りつつ、日本にも一定の利権を認めましょう」
という事でした。
そしてこのような提言をしています。
・満州事変以前に戻るのも現実的ではないし、かといって日本の主張通りに満州国を承認するわけにはいかない
・満州は、支那主権のもとで自治政府を樹立する。
・自治政府には国際連盟が派遣した外国人顧問団が指導する
・満州は非武装地帯とし、国際連盟が助言した特別警察機構が治安を維持する
・日本と支那は仲直りしなさい
要するに、「一定の日本の利権は認めるけど、満州国は国際管理下に置くので日本軍は撤退してください。」という事です。
「支那による主権」とは言うものの、中華民国は統一国家などではなく、地方の軍閥も完全に掌握できたわけでもなく、共産党との内戦も続いていました。
つまり支那が主権を握る事など無理な話で、自治政府など列強国が派遣した顧問団の思うがままになってしまう恐れがあります。
さらに日本と支那両国の軍隊を排除して国際連盟の影響下にある特別警察を置く事は、「事実上の乗っ取り」なのです。
国際連盟の派遣したメンバーの中には、なぜか国際連盟に加入していない「アメリカ」の代表が入っている事も違和感を感じざるを得ません。
アメリカは何とかして満州利権に付け入ろうと画策していたのではないでしょうか。
このリットン調査団が提出した報告書は、国際連盟にようる同意確認によって
賛成42票
反対1票(日本)
棄権1票(タイ)
となり、採択される事になりました。
唯一棄権したタイは、華僑との間で民族摩擦が起こっていて支那に同情できない事情があり、同じアジアの有色人種国家として対日関係を重視していたのです。
この「賛成多数」の採決を日本の外相「松岡洋右(まつおか ようすけ)」は受け入れる事ができず、その場で退場して国際連盟から脱退しました。
松岡外相は、国際連盟脱退を「最悪のケース」と想定しており、こうなる事は極力避けたかったはずです。
列強国の野心に従属するのか、独立国家として孤立する道を選ぶのか、その選択を迫られた上での決断であったと言えます。
日露戦争前、ソ連が満州を占領した時には、支那は何も文句を言いませんでした。
しかし日本が権益を守るために満州を制圧した時は、世界中から文句を言われるわけです。
「満州事変から日本は孤立化していった」と言われますが、私は「白人世界」に啖呵を切ったのだと、一定の理解と評価をしたいと思います。
その先に国の滅亡が待っているかどうかなんて、わかるはずがないのです。
これを受けて国際連盟は事態を調査すべく調査団を結成する事になります。
イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリアから1名ずつの5名で構成され、そして当事国の中華民国と日本からもオブザーバーとして1名ずつ外交官が参加する事になりました。
イギリスのリットン伯爵を団長とするこの視察団は「リットン調査団」と呼ばれ、その費用は全て中華民国と日本が負担しました。
ヴィクター・ブルワー=リットン |
調査団の来日を花束で歓迎 |
しかしドイツ代表のハインリッヒ・シュネーによると、刺身やウナギの蒲焼などの和食は口に合わなかったようで、さらに芸者による三味線も「単調な音楽」として不評だったようです。
支那ではどのような説明や接待を受けたのかはわかりませんが、調査団は1932年の3月から6月までの3ヶ月に渡り調査を行い、膨大な証言や証拠を基に「リットン報告書」を作り上げました。
靖国を参拝するリットン調査団 |
柳条湖事件を調査 |
「ロシアの領土的野心」
「満州における日本の権益」
「支那の近代的進歩の遅さ」
「支那は満州に無関心であった事」
「満州の発展は日本の努力によるものである事」
などについて、比較的公平にまとめられ10章に渡って書かれており、その結論としては
「満州事変は日本の侵略とは一概に言えないけど、自衛戦争とも言い難いし、満州国の自発的な独立とも言えない。支那が主権を握りつつ、日本にも一定の利権を認めましょう」
という事でした。
そしてこのような提言をしています。
・満州事変以前に戻るのも現実的ではないし、かといって日本の主張通りに満州国を承認するわけにはいかない
・満州は、支那主権のもとで自治政府を樹立する。
・自治政府には国際連盟が派遣した外国人顧問団が指導する
・満州は非武装地帯とし、国際連盟が助言した特別警察機構が治安を維持する
・日本と支那は仲直りしなさい
要するに、「一定の日本の利権は認めるけど、満州国は国際管理下に置くので日本軍は撤退してください。」という事です。
「支那による主権」とは言うものの、中華民国は統一国家などではなく、地方の軍閥も完全に掌握できたわけでもなく、共産党との内戦も続いていました。
つまり支那が主権を握る事など無理な話で、自治政府など列強国が派遣した顧問団の思うがままになってしまう恐れがあります。
さらに日本と支那両国の軍隊を排除して国際連盟の影響下にある特別警察を置く事は、「事実上の乗っ取り」なのです。
国際連盟の派遣したメンバーの中には、なぜか国際連盟に加入していない「アメリカ」の代表が入っている事も違和感を感じざるを得ません。
アメリカは何とかして満州利権に付け入ろうと画策していたのではないでしょうか。
このリットン調査団が提出した報告書は、国際連盟にようる同意確認によって
賛成42票
反対1票(日本)
棄権1票(タイ)
となり、採択される事になりました。
唯一棄権したタイは、華僑との間で民族摩擦が起こっていて支那に同情できない事情があり、同じアジアの有色人種国家として対日関係を重視していたのです。
この「賛成多数」の採決を日本の外相「松岡洋右(まつおか ようすけ)」は受け入れる事ができず、その場で退場して国際連盟から脱退しました。
松岡外相は、国際連盟脱退を「最悪のケース」と想定しており、こうなる事は極力避けたかったはずです。
列強国の野心に従属するのか、独立国家として孤立する道を選ぶのか、その選択を迫られた上での決断であったと言えます。
退場する松岡洋右 |
しかし日本が権益を守るために満州を制圧した時は、世界中から文句を言われるわけです。
「満州事変から日本は孤立化していった」と言われますが、私は「白人世界」に啖呵を切ったのだと、一定の理解と評価をしたいと思います。
その先に国の滅亡が待っているかどうかなんて、わかるはずがないのです。