2019年6月10日月曜日

満州事変4 張作霖よ何処へ往く

張作霖と息子の張学良
張作霖は遼東半島の海城市の貧しい家に生まれますが、14歳の時に実父を亡くしてからは継父とそりが合わず、家を出て満州地方へ行き、馬賊に身を投じました。

※馬賊とは、盗賊から村人を守る為に組織された騎馬隊の自衛団ですが、しばしば馬賊自身が盗賊として荒らし回る事もありました。
馬賊のイメージ
海城はこの辺り
成長した張作霖はその中で頭目となり、アヘンの密売などを行っていましたが、日露戦争が勃発し満州が戦場になると、張作霖はロシア側のスパイとして活動します。

しかし日本軍に捕らえられてからは、二重スパイとしてロシアの情報を日本へ送るようになりました。

日露戦争は終わりますが、戦場の混乱に巻き込まれた満州地方の行政は混乱状態に陥っていました。

そこで清朝は超爾巽(ちょう じそん)を送り込み、満州統治の安定化を図ります。
超爾巽

超爾巽は馬賊に対し「清朝に帰順すれば政府軍にしてあげるよ」と触れ込み、張作霖はこれに乗りました。

張作霖の下には多くの馬賊が集まり、勢力を伸ばして行きました。

そして満州の治安維持に努め、張作霖は清朝の信頼を勝ち取る事になります。

その頃、日本企業が進出して開発が進められていた満州は急速に発展して行きました。

清朝最大の北洋軍を率いる袁世凱はこれに目をつけ、満州を勢力下におく為に北洋軍の一部を派遣します。
袁世凱「満州ええやん」

これをきっかけに、張作霖と北洋軍の関係は深まっていきました

1911年に武昌起義が起こり、辛亥革命が始まると、各省が蜂起し清朝からの独立を宣言します。

しかし満州地方では張作霖が革命勢力を鎮圧したため、蜂起は成功しませんでした。

つまり、満州では清朝の旧勢力が温存されており、中華民国に帰属していないという事です
清から独立した地域に満州は含まれない


張作霖はこの功績によって陸軍師団長にまで出世し、強い影響力を持つようになっていきます。

1916年に袁世凱が死去すると、北洋軍閥は5つの軍閥に分裂する事になりました。

その中で満州の奉天を根拠地にしたのが「奉天派」です。

張作霖は策略によって奉天派を乗っ取り、満州全土を勢力圏に置き、「満州王」と呼ばれるまでになりました。

軍閥割拠
当時、支那では共産主義が浸潤しつつあり、正当な中華民国政府を主張する国民党の背後には、ソ連のコミンテルンの暗躍が見え隠れしていました。

共産主義の蔓延を警戒する日本は、それに対抗しうる奉天派を支援する事になります。

そして清朝時代の権益を維持するため、北洋軍閥の中の一つ「直隷派」をアメリカ・イギリスなどの欧米が支援しました。

「中華民国」と言ってみたはいいものの、他国の介入を許した軍閥割拠の内戦状態であり、近代的な「統一国家」ではない事がおわかりいただけるかと思います。

ここで一つ注釈を加えさせていただくならば、「張作霖を支援していた日本」とは、具体的に「関東軍」の事です。

関東軍とは、日露戦争以降、ポーツマス条約によって日本が租借権を引き継いだ「関東州」に置かれた軍隊の事で、南満州鉄道の附属地域の警備を担っていました。
関東州
張作霖はこの関東軍の支援を受けて、満州から中華民国領内に侵攻、1924年に北京に入り、その後は中華民国北京政府を掌握する事になりました。
そして、自分こそが中華民国の正当な政府だと宣言をするのです。
満州の安定を第一に考えていた関東軍からしてみれば、北京まで進出した張作霖はもはや扱いづらい存在になっていきます。
その頃、ソ連の軍事支援を受けていた蒋介石の国民革命軍は強く、中華民國統一を目指して順調に北伐を進めていました。


国民革命軍が北上するに伴い、1927年には南京事件や漢口事件が起こります。

共産主義の残虐性を恐れた欧米諸国は、もはや弱体化した直隷派よりも張作霖の奉天派を支持するようになり、張作霖も欧米の資本力に魅力を感じ、それに応じました。

奉天派に対する日本の影響力は徐々に薄れていくことになったのです。

共産主義勢力が北京にまで波及する事を恐れた列強国の圧力によって、張作霖は北京にあるソ連公使館の官舎を家宅捜索します。

支那人、ロシア人など80名以上が検挙され、武器や資料が押収されました。

これによって中華民国北京政府とソ連は国交断絶状態となり、ソ連はモンゴルに大兵力を集結させて張作霖に軍事的圧力をかけるようになります。

公使館から押収された資料には、4120名にも及ぶ工作員の名簿や、イギリス・フランス・日本を共産化させる計画も示されており、イギリスはソ連と国交を断絶するに至りました。

ソ連公使館捜索と同時期、国民党の蒋介石は「上海クーデター」を起こして、党内部の共産主義勢力を一掃します。
上海クーデター
共産主義色を一掃した国民党は好意的に受け入れられ、欧米列強は蒋介石を支持するようになり、張作霖から離れて行きました。

さらに日本の田中義一首相は蒋介石と会談し「国民革命軍は満州に攻め込まない」という確約を得ていたので、日本にとって張作霖はあまり利用価値がなくなってしまいました。

これまでソ連、日本、清、欧米列強など次々と支援先を乗り換えてきた張作霖でしたが、ここにきて遂に孤立化してしまったのです。

そして北伐を進める蒋介石の国民革命軍に張作霖は敗北し、北京を去る事になります。

満州へ帰ってくる張作霖に対する日本の評価は、政府と関東軍とで食い違いがありました。

田中義一首相は「張作霖にはまだ利用価値があるので、満州で再起させる」と考えていましたが、関東軍は「軍閥を通して治安を維持するのは困難なのでインフラ整備を施して傀儡政権(満洲国)を立ててから間接統治をすべきであり、そのためには張作霖は邪魔」だと考えていたのです。

それぞれの思惑が渦巻く中で、大きな事件が起こります。

1928年6月4日、満州へ列車で引き返していた張作霖は、奉天郊外で列車が爆発し、両手両足を失って重体となり、その後死亡します。

警察や側近らが17名も死亡する大事故となってしまいました。
当時の満州には数百万人の「匪賊」と呼ばれるテロリストがおり、数年間で100件以上の鉄道爆破事故が起きていたので、今回もそのうちの一つかと思われていました。

しかし爆破に使用されていた電線が日本の監視所まで引き込まれていた事が判明したり、現場で発見され、犯人とみられていた二人の支那人の遺体が、関東軍の参謀・河本大作大佐による偽装工作であった事が判明すると、「事件の主犯は日本側にある」との見解が有力になります。

これを知った張作霖の後を継いだ息子の「張学良」は激怒し、敵対していた蒋介石と和解、中華明国の「青天白日旗」を掲げて服属を示す事で、奉天派は独立を維持する事になりました。

青天白日旗
そして張学良は日本を敵視し、満州における日本の影響力は絶対的に薄まってしまったのです。
張学良
さて、現在において「日本の仕業」として断定されているこの「張作霖爆殺事件」ですが、色々と不審な点があります。

「日本がやった」と思える点としては

・爆破現場から日本の監視所まで点火の為の導線が残されていた
・以前より関東軍参謀の河本大作大佐が「張作霖排除」を主張していた(後に、「自分がやった」という口述記事が文藝春秋に掲載される)
・河本大作は、線路脇の土嚢の土を黄色火薬にすり替えたと証言している。黄色火薬はこの地域では日本しか使っていない
・現地残されていた遺体が関東軍の工作によるもの

などですが、日本単独犯行説に懐疑的な指摘もあります。

・張作霖の位置を把握して爆殺する事は、線路に仕掛けられた爆薬では困難
・線路に仕掛けられた爆薬によるものなら、地面に大穴が開くはずが、列車上部の陸橋のレールが落ちてきて車両上部が大破している。
・つまり、実際に爆発したのは陸橋の脚部か、もしくは列車の天井である可能性が高い
・列車の整備は日本軍の担当では無い
・首謀者とされる河本大作の「線路脇の土嚢に黄色火薬をつめた」という主張と、爆破が起こったと思われる部位が異なる
・陸橋の脚に黄色粉末は見られず、黒煙が立ち上っており、使用火薬は黒色では無いかという指摘もある
・日本と奉天軍閥の共同調査によれば、集められた爆弾の破片がロシア製のものだと判明している

などです。


列車上部が大破
満州に対して領土的野心を抱き、張作霖個人に恨みを抱く存在を考えれば、最も強い動機を持つのはソ連です。

1992年にソ連からイギリスへ亡命したKGB幹部の「ミトロヒン」が持ち出したソ連の極秘資料には、張作霖を爆殺する為の計画と、その実行部隊についての記述がありました。
ワシリー・ミトロヒン
関東軍の張作霖暗殺計画を、内通者を通じて知ったソ連が、それを利用して張作霖を確実に始末し、日本軍単独の事件に見せかけたという解釈はできないでしょうか?

張作霖が死亡した時、息子の張学良は戦闘の前線におり、父親の死を知りませんでした。

しかしなぜか彼は日本軍に気づかれないように変装して奉天へ戻り、そこで部下から張作霖の死を知らされるのです。

その「部下」とは一体誰なのでしょうか?
張学良といえば、後に「西安事件」を起こして共産主義者と内通していた事が明るみになる人物です。

「ソ連公使館捜索事件によって国益を損ねたソ連は、河本大作の計画に乗っかって張作霖に報復し、張作霖不在の間に日本が満州に傀儡政権を作る間を与えない為に張学良に変装させて奉天に戻し、張学良を利用して満州から日本の影響力を排除しようとした。」

そんな筋書きが裏に隠れているのではないかと、私個人の意見として思うのであります。

張作霖爆殺事件の首謀者であったはずの河本大作は、南京軍事裁判や東京裁判などにおいて、なぜか尋問されたことも証人として呼ばれた事もありません。

後に満州事変を調査したリットン調査団は、
「事件の責任は未だ判明しておらず神秘的である」
と結論づけています。

これが当時の正式な国際的な見解だったのです。

さて、張作霖爆殺事件の犯人や責任が誰であれ、その影響は大きいものになりました。

事件についてうやむやにしか上奏できない田中義一首相に対し、昭和天皇に「田中の言う事はちっとも理解できぬ」と言われてしまい、その事を気に病んだ田中首相は内閣を総辞職することになりました。

もともと心臓の悪かった田中義一は、その二ヶ月後に狭心症で死亡しています。

この件は「天皇の発言が政治に影響を及ぼした数少ない案件」の一つであり、昭和天皇はこれ以降、あまり強く意見を言うことがなくなってしまいました。
なりふり構わず支援先を乗り換え、支配地域では重税を課す一方で豪華な私邸に住み、最後は結局「誰から殺されてもおかしくない」状態となってしまった張作霖でしたが、ちょっと憎めない一面も持っていました。
張作霖の官邸兼私邸

張作霖が爆殺される三ヶ月前、福岡の志賀島で、元寇で死んだ蒙古兵の為の塚が作られる事を知った張作霖は、敵の為に供養塔を建てるその精神に感動し、除幕式に祝辞を送っていたのです。

今でも福岡市の志賀島には蒙古塚があり、張作霖が送った言葉が刻まれています。