明治維新は、欧米列強による帝国主義の触手がアジアに伸びて来たことによって起きた奇跡的な改革です。
ペリーが来航した1853年のアジアは、まだビルマやカンボジア、ベトナムなどの独立国が残っていました。
しかしその後、ビルマはイギリス領インドに併合され、カンボジアやベトナムはフランス領インドシナとして植民地支配される事になります。
さらに東アジアでは南下を目論むロシアが清から領土を割譲し、ウラディボストーク(ウラジオストク)を獲得し、ロシアの領土は日本と目と鼻の先になりました。
日本は近代化を成し遂げるために一刻の猶予もありませんでした。
そんな中で、開国を果たした日本にとって国防上の最大の脅威は「ロシア」でした。
そしてロシアの南下を防ぐためには、朝鮮半島に近代的な独立国家が存在する事が重要だと日本政府は考えたのです。
そこで重要なのが、「李氏朝鮮とはどのような国だっのか?」という事です。
ここを理解しておかないと、日本の行動も理解できません。
そこで、朝鮮半島の統一国家の歴史を大まかにまとめて行きたいと思います。
唐や元、明などの「支那王朝」という大国に隣接する東アジアの隅っこの小国であるにも関わらず、朝鮮半島が独立を維持していた理由として、これといった国交路もなく、直接統治しても利益をあげる事ができないので、日本や北方民族との緩衝地帯として間接統治した方が得策だった、という点が挙げられると思います。
4〜7世紀において、新羅・百済・高句麗の三国に分かれていた朝鮮半島を統一したのは新羅でした。
しかし新羅はそのために支那王朝「唐」の力を借りており、この時から朝鮮半島国家は支那王朝の「属国」であり続ける事になります。
新羅は内乱や飢饉、唐の衰退によって再び分裂し、最終的には「高麗」によって統一されました。
918年に建国した高麗は朝鮮半島にとって初の「安定した統一国家」となりますが、北方で台頭したモンゴル帝国に6度に渡り侵攻をうけ征服されます。
その結果、高麗は徴税権すら失った「形だけの国家」となります。
高麗王はモンゴル貴人の娘を娶り、婿入りさせられました。
生まれた子供はモンゴル宮廷で育てられ、そして成長したらモンゴル帝国によって高麗王に任命されるというのが慣習となりました。
つまり、母系が全てモンゴル人になるので、最終的に高麗王のDNAは「99%モンゴル人」となるのです。
王家の血脈まで宗主国に委ねる異様な国家だったのです。
そしてその高麗も、元が衰退し漢民族王朝の「明」が建国されると、「親元派」「親明派」に分かれて混沌としていきます。
李成桂が高麗王になった1年後、明の初代皇帝「洪武帝」から国号変更の要請を受けます。
「お前モンゴル人じゃないんだろ?国王の血筋が変わったんだから国名も変えろや」という事です。
李成桂は「和寧」「朝鮮」の二つの国名候補を考え、洪武帝に選んでもらうことにしましたが、「和寧」とは、北元の本拠地「カラコルム」の別名であったため却下され、新しい国名は「朝鮮」となりました。
李成桂の朝鮮、李さんの朝鮮、すなわち「李氏朝鮮」の始まりです。
国名すら宗主国に決めてもらう有様は、朝鮮半島国家がいかに支那王朝の属国であり続けていたかを物語っています。
ところで、李氏朝鮮の国教は「儒教」ですが、朝鮮では儒教の解釈は歪曲され、上下関係を厳しくし支配を強めるためのものとして利用されました。
偉い人は儒学を学ぶのみで、働いたり何かを作ったりすることは卑しい身分の行為とされました。
その結果、当然のように物資の輸送も困難となるので、韓国料理には発酵食品が多いのです。
物資の輸送が困難という事は、宗主国への貢物も一苦労なので、「人」を貢ぐようになりました。
気を曲げる技術がないので「水車」を作る事も出来ないため、農業が発展するはずもなく、国の指導、援助で計画的に開墾する事もありませんでした。
李氏朝鮮で特筆すべきはその「身分制度」です。
国民は「良人」「賤人」に大別されました。
良人はさらに
「両班」支配層・官僚
「中人」医者などの専門職
「常人」農民、職人、商人
の三つに分けられます。
賤人は通常の民衆よりも下の身分に置かれる層で、「奴婢」と「白丁」に分けられます。
「奴婢」は奴隷のことです。
所有者は何をしても罪にならず、奴婢5人と牛一頭で交換できました。
「白丁」は奴隷ではありませんが、徹底的に迫害された身分です。
住居、職業、婚姻、学業、衣服、名前などあらゆる事に制限がかけられ、胸を張って歩くことや、墓を作ることさえ禁じられました。
豊臣秀吉による「朝鮮出兵」の際、陶工を中心に多くの朝鮮人が日本へ渡ってきました。
「強制連行された」という事になっておりますが、実はこのような身分制度から逃れるために「自ら進んでやってきた」者が多かったという説も納得が行きます。
「新羅と唐」「高麗と元」のように、朝鮮半島国家は宗主国の衰退と運命を共にしてきましたが、李氏朝鮮は一味違いました。
李氏朝鮮の宗主国である支那王朝「明」は、女真族国家「清」の台頭によって終わりを告げます。
朝鮮は明に味方をしていたので、当然、清王朝の態度は冷たいものでした。
李氏朝鮮は清の奴隷国家となることで、宗主国を乗り換える事に成功しました。
しかし黄金百両、白銀千両、美女、牛、馬、豚を毎年三千ずつ用意させるという無茶苦茶な朝貢を要求され、朝鮮の女性たちは清へ連行されていきました。
そのため若い女性が少なくなった李氏朝鮮では近親相姦が横行します。
清へ連れて行かれた女性は性奴隷として扱われ、幾多の努力の末に帰国できる者もいましたが、例え朝鮮に帰れても「帰郷女(ファンニャンニョン)」と呼ばれて家族親戚から見捨てられ、あらゆる差別を受けることになりました。
まだ半分ほどしか李氏朝鮮の実態を書いてませんがこれで十分だと思います。
このような国の状況において、朝鮮は支那の属国としての立ち位置にしがみつく事でしか国をまとめ上げる事ができなかったのです。
「大院君」とは、朝鮮国王の王位継承が直系でなかった時に、新国王の実父に与えられる称号です。
江戸時代の日本と朝鮮は、対馬の宗氏を通じて交易をしていましたが、明治維新によって日本の権力者は「将軍」から「天皇」に変わります。
日本の「天皇」という存在は、支那の「皇帝」と格差がないものとして、支那王朝の冊封体制に組み込まれていませんでした。
清の皇帝の属国である朝鮮からしてみれば、自分たちよりも東方に位置する日本は「東夷」と呼ばれ軽視されるべき存在なのです。
「天皇」の権威など認めるはずもありません。
朝鮮は天皇を元首に据えた日本の新政府との国交を頑なに拒み、国書も突き返しました。
日本は何度も使者を送りますが、朝鮮から帰ってきたもの全てが朝鮮に対する武力制圧を唱え始めるほど無礼な扱いを受ける始末でした。
※「征韓論」の真相に関しては、「明治維新20」にて前述した通りです。
閔妃は15歳の時に王宮に入りましたが、高宗と愛人の子供を大院君が後継者にしようとしたり、お互いの家に爆弾を仕掛けあったり放火したり、20年以上に渡ってみるに耐えない嫁舅抗争に明け暮れていました。
閔妃は高宗の成人とともに裏工作を図り大院君を失脚させ、政治の実権を握ることになります。
そして、閔妃と大院君の抗争に、日本は次第に巻き込まれて行くことになるのでした。