現代において、日本という国をどうやって守ろうかと考えたときによく論じられるのが「日本の国防ラインは北緯38度線」という考え方です。
これにはおそらく1950年に提唱された「アチソンライン」によって朝鮮戦争が引き起こされたという考え方による影響が強いのではないかと思いますが、私は全く賛成できません。
国防ラインを国外に設定するという事は、隣国を緩衝国として認識しているわけですが、日本の場合、それは韓国になります。
過去に日本は朝鮮半島国家に緩衝国としての役割を期待して積極的に政治的・軍事的介入を起こしましたが、その結果としては、本来の思惑とは全く裏腹に「日露戦争」を誘発してしまっただけのように思えます。
つまり、朝鮮半島に防衛ラインを設定する考えは一度大失敗していると言えるのです。
はっきり申し上げますと、日本を守ろうと考えた時、朝鮮半島に何かを期待するのは無駄だと考えております。
明治維新以降に日本が経験した日清戦争、日露戦争の目的は共通しており、ともに「ロシアの南下を防ぐため」でした。
日清戦争の結果、朝鮮は清の属国状態から抜け出し「大韓帝国」を名乗りますが、結局はロシアに擦り寄り、自立した近代国家と呼ぶには程遠い有様でした。
ロシアの力を借りて日本の影響力を排除し、近代化を頑なに拒む大韓帝国の皇帝・高宗に対し、1904年、日露戦争で朝鮮半島からロシア軍を排除した日本は「第一次日韓協約」を突きつけます。
この協約によって、大韓帝国の財政・外交の顧問に日本の推薦者を任命しなければならなくなり、日本の影響力は大きくなりました。
こうして徐々に日本は朝鮮半島へと深入りして行く事になり、日本には侵略的な意図があったかのように強調されがちです。
しかし、日清戦争で血を流してまで独立させた朝鮮がロシアに擦り寄る事は、日本にとっても、国際秩序にとっても許される事ではありません。
さらに当時の大韓帝国の財政は破綻し、国家運営ができるような状況ではありませんでした。
どのくらい破綻していたかというと、凄まじいインフレによって50円の買い物をするためには当時の大韓帝国の通貨「葉銭(ようせん)」が100kgも必要なほどで、1ドルを葉銭に両替するためには力持ちの大男を連れて来なければならないというような状況でした。※葉銭の他にも「白銅貨」がありましたが、同じようにインフレ状態でした。
朝鮮の通貨の山 |
あまりにも貨幣の信用がなかったため、農民たちは農作物を物々交換して生活をする有様だったのです。
言ってしまえば、朝鮮半島の経済観は「原始時代に毛の生えた程度」でした。
このままでは自主的な近代化など到底できそうにない、という事で日本が送り込んだ財務顧問は「目賀田種太郎(めがた たねたろう)」です。
東大の前身である大学南校出身で、ハーバート大学へ留学した事もある大日本帝国の超エリートであり、専修大学の創始者の一人です。
貧困にあえぐ農民たちを救うために朝鮮半島へいざ乗り込んで目の当たりにしたのは、想像以上の悲惨な現状であり、その重責の重さに自殺してしまう役人もいたほどでしたが、目賀田種太郎は必死の努力で金融システムを築き上げて行きました。
目賀田種太郎 |
しかしこうした変革をよく思わないのが大韓帝国の皇帝・高宗です。
高宗は日露戦争の最中、ロシアをはじめとする各国へ密使を送り、第一次日韓協約の不満を告げ口をしました。
この事がバレると、日本は大韓帝国への信頼を失いました。(もともとなかったけど・・・)国家規模での裏切り行為が許されるはずがありません。
日本は「第二次日韓協約」を結び、大韓帝国は外交権を失うことになります。
それでも高宗の悪あがきは終わりませんでした。
しかし各国が大韓帝国の参加を拒絶した為、失敗に終わりました。
当然、このような暴挙が許されるはずもなく、大韓帝国は外交権のみならず、内政権までも日本に接収されてしまい、高宗は皇位を息子の純宗に譲りました。(第三次日韓協約)
こうなって来るといよいよ日本の軍部からは「大韓帝国を直轄すべし」の声が高まります。
そもそも、ロシアを引き込んで日露戦争の勃発を早めてしまったのは大韓帝国なのです。
「この国を放っておいたら、次は何が起こるかわからない」これは日本のみならず、当時の列強国共通の認識でした。
第二次日韓協約が結ばれた時点で、事実上日本の保護国となった大韓帝国には「韓国統監府」が設置され、初代統監に任命されたのは「伊藤博文」でした。
伊藤は韓国併合については否定的であったと言われていますが、実はその根拠となる資料はつい最近まで発見されていなかったり、晩年は賛成派に回っていたりと、彼の本心を探るのは少々困難である為、ここではあまり触れないでおきます。
韓国初代統監としての伊藤博文は日本から膨大な資金を持ち出して韓国に道路・学校・病院・鉄道・などを作りました。
なんと4年間で100校以上の学校を建設したと言われています。
伊藤博文は大韓帝国の民に可能性を感じ、大韓帝国は併合せずに保護国としておき、近代化が達成された暁には保護も解除しようと考えていたようです。
また、一説によると、「大日本帝国憲法」の作成に大きく関わった伊藤博文は、大日本帝国憲法の持つ欠点に気づいており、憲法改正を模索していたとも言われています。※事実、その「欠点」は、後に日本を迷走させる要因になります。
そして伊藤は、大韓帝国の統治を「文民統制」のモデルケースにする事で、憲法改正への足がかりを作ろうとしたのではないかと言われています。
しかし1909年、ハルビンにて「安重根」に暗殺されてしまいます。
この安重根は現在、韓国で英雄扱いされていますが、その暗殺行為が大勢に何ら影響を与える事もなく、その数ヶ月後に韓国併合が実現してしました。
高宗は伊藤博文の死を「東洋の父がいなくなった」「暴徒が韓国人である事は恥の極みである」と嘆いたと言われています。
ところで、このような日本と韓国の併合の動きは、大韓帝国内ではどのように捉えられていたのでしょうか?
朝鮮半島で500年続いた国家「李氏朝鮮」の時代は、「両班(ヤンバン)」と呼ばれる支配階級を頂点とする身分社会でした。
両班の下には「中人」という専門職の知識者階級があり、その下は奴隷階級でした。
恐ろしい事に、人口の半分が奴隷だったと言われています。
両班は不労所得で生活し、あらゆる肉体労働は奴隷にやらせ、タバコすら自分で持つ事はなかったと言われてます。
国の実務を担っていたの中人ですら両班から差別され、出世にも制限がある始末でした。
そんな中人階級の中から、下級武士によって成し遂げられた「明治維新」に倣って自分たちも変革を起こそうという勢力が出てくるのは至極当然の事です。
日本の力を借りて、朝鮮を近代化しようとした人々は「一進会」という政治団体を設立します。
この団体は朝鮮最大の政治団体となり、日露戦争の時には27万人を動員して物資の運搬や鉄道工事など、日本軍に協力をしたとも言われています。
1909年に伊藤博文が暗殺されると、その一ヶ月後には一進会の中心人物、「李容九」が「韓日合邦を要求する声明書」を皇帝・純宗に上奏します。
これは大韓帝国と日本の「対等な合邦」または「連邦」を望んだものであり、日本人と同じような待遇を享受し、社会を発展させようというものでした。
大韓帝国内には日本との併合を望む者が多く存在していたのです。
しかし両国の国力差を考えれば、この要求は現実的なものではありませんでした。
当時の大韓帝国の国家収入は800万円にも満たず、赤字分は日本が立て替えていたほどだったのです。
結局、一進会の要求は受け入れられる事なく、日本による大韓帝国の併合は、既に「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」という閣議決定された内容の素で進められて行きました。
1910年、8月22日に韓国併合条約が調印され、大韓帝国は消滅しました。
日本は国民の血税を投入して朝鮮半島の発展に貢献する事になります。
日本は朝鮮古来の身分制度を廃し、奴隷階級だった身分の者にも姓を名乗らせて戸籍に登録しました。
これに強く反発したのは支配階級だった両班です。
両班は激しい抗議デモを繰り広げましたが、即座に鎮圧されました。
また、日本が土地調査を行い、治水工事などを行った為、これまで搾取され続けていた農民たちの中には多大な利益を得るものも出てきました。
教育面においては、列島文字として軽視されていたハングル文字を必修科目とし、1910年に6%だった識字率は1943年には23%に上昇しています。
にも関わらず、日本語による学校教育が行われた事によって、「言語が奪われた」という評価が現在では蔓延っているようです。
朝鮮半島は日本からの多大な投資によって急速に近代化して行きますが、朝鮮半島からの安価な米が日本へ流入した事によって、東北の農家が困窮する事になりました。
そしてそれは、確実に日本を破滅的な戦争へと導いて行く事になったのです。
今もなお禍根を残す「韓国併合」は、現在の視点からの個人的な見解で言わせてもらえれば、やはり「日本史上最大の失政」だと言わざるを得ません。
こうなって来るといよいよ日本の軍部からは「大韓帝国を直轄すべし」の声が高まります。
そもそも、ロシアを引き込んで日露戦争の勃発を早めてしまったのは大韓帝国なのです。
「この国を放っておいたら、次は何が起こるかわからない」これは日本のみならず、当時の列強国共通の認識でした。
第二次日韓協約が結ばれた時点で、事実上日本の保護国となった大韓帝国には「韓国統監府」が設置され、初代統監に任命されたのは「伊藤博文」でした。
伊藤は韓国併合については否定的であったと言われていますが、実はその根拠となる資料はつい最近まで発見されていなかったり、晩年は賛成派に回っていたりと、彼の本心を探るのは少々困難である為、ここではあまり触れないでおきます。
真ん中が伊藤博文 |
韓国初代統監としての伊藤博文は日本から膨大な資金を持ち出して韓国に道路・学校・病院・鉄道・などを作りました。
なんと4年間で100校以上の学校を建設したと言われています。
伊藤博文は大韓帝国の民に可能性を感じ、大韓帝国は併合せずに保護国としておき、近代化が達成された暁には保護も解除しようと考えていたようです。
また、一説によると、「大日本帝国憲法」の作成に大きく関わった伊藤博文は、大日本帝国憲法の持つ欠点に気づいており、憲法改正を模索していたとも言われています。※事実、その「欠点」は、後に日本を迷走させる要因になります。
そして伊藤は、大韓帝国の統治を「文民統制」のモデルケースにする事で、憲法改正への足がかりを作ろうとしたのではないかと言われています。
しかし1909年、ハルビンにて「安重根」に暗殺されてしまいます。
この安重根は現在、韓国で英雄扱いされていますが、その暗殺行為が大勢に何ら影響を与える事もなく、その数ヶ月後に韓国併合が実現してしました。
高宗は伊藤博文の死を「東洋の父がいなくなった」「暴徒が韓国人である事は恥の極みである」と嘆いたと言われています。
伊藤博文暗殺 |
ところで、このような日本と韓国の併合の動きは、大韓帝国内ではどのように捉えられていたのでしょうか?
朝鮮半島で500年続いた国家「李氏朝鮮」の時代は、「両班(ヤンバン)」と呼ばれる支配階級を頂点とする身分社会でした。
両班の下には「中人」という専門職の知識者階級があり、その下は奴隷階級でした。
恐ろしい事に、人口の半分が奴隷だったと言われています。
両班は不労所得で生活し、あらゆる肉体労働は奴隷にやらせ、タバコすら自分で持つ事はなかったと言われてます。
国の実務を担っていたの中人ですら両班から差別され、出世にも制限がある始末でした。
そんな中人階級の中から、下級武士によって成し遂げられた「明治維新」に倣って自分たちも変革を起こそうという勢力が出てくるのは至極当然の事です。
日本の力を借りて、朝鮮を近代化しようとした人々は「一進会」という政治団体を設立します。
この団体は朝鮮最大の政治団体となり、日露戦争の時には27万人を動員して物資の運搬や鉄道工事など、日本軍に協力をしたとも言われています。
1909年に伊藤博文が暗殺されると、その一ヶ月後には一進会の中心人物、「李容九」が「韓日合邦を要求する声明書」を皇帝・純宗に上奏します。
李容九 |
これは大韓帝国と日本の「対等な合邦」または「連邦」を望んだものであり、日本人と同じような待遇を享受し、社会を発展させようというものでした。
大韓帝国内には日本との併合を望む者が多く存在していたのです。
しかし両国の国力差を考えれば、この要求は現実的なものではありませんでした。
当時の大韓帝国の国家収入は800万円にも満たず、赤字分は日本が立て替えていたほどだったのです。
結局、一進会の要求は受け入れられる事なく、日本による大韓帝国の併合は、既に「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」という閣議決定された内容の素で進められて行きました。
1910年、8月22日に韓国併合条約が調印され、大韓帝国は消滅しました。
日本は国民の血税を投入して朝鮮半島の発展に貢献する事になります。
日本は朝鮮古来の身分制度を廃し、奴隷階級だった身分の者にも姓を名乗らせて戸籍に登録しました。
これに強く反発したのは支配階級だった両班です。
両班は激しい抗議デモを繰り広げましたが、即座に鎮圧されました。
また、日本が土地調査を行い、治水工事などを行った為、これまで搾取され続けていた農民たちの中には多大な利益を得るものも出てきました。
教育面においては、列島文字として軽視されていたハングル文字を必修科目とし、1910年に6%だった識字率は1943年には23%に上昇しています。
にも関わらず、日本語による学校教育が行われた事によって、「言語が奪われた」という評価が現在では蔓延っているようです。
朝鮮半島は日本からの多大な投資によって急速に近代化して行きますが、朝鮮半島からの安価な米が日本へ流入した事によって、東北の農家が困窮する事になりました。
そしてそれは、確実に日本を破滅的な戦争へと導いて行く事になったのです。
今もなお禍根を残す「韓国併合」は、現在の視点からの個人的な見解で言わせてもらえれば、やはり「日本史上最大の失政」だと言わざるを得ません。