「中華」とは、世界の中心を意味する言葉です。
古来より支那では、支那王朝の君主、すなわち「天子」が世界の中心であるという「中華思想」が根付いていました。
そして支那王朝周辺の異民族は「夷狄(いてき)」という蔑称で呼ばれ、格下であるとみなされていました。
支那王朝の「冊封」を受けた国の君主は、「王」とみなされ自立を認められ、支那王朝の「皇帝」と君臣関係を結ぶのです。
冊封国には朝貢が義務付けられますが、冊封国が外国から攻撃を受けた際には支那王朝からの軍事支援を受ける事ができました。
かつて日本が朝鮮に出兵した際、明が援軍に駆けつけたのもそういった背景があるのです。
ちなみに日本は、この冊封を受けてはいませんでした。
日本は「天皇」を「皇帝」と同格の存在としていたためです。
さて、1840年代頃、フランスの帝国主義の触手が東南アジアへ伸びてきていました。
そしてベトナムにフランスが侵攻し、ベトナム王朝の「阮朝」が宗主国である清に助けを求めてきたのです。
これにより1883年、清はフランスと戦争を始めます。
清は、朝鮮に駐留させていた軍隊の半分をベトナムへ派遣しました。
朝鮮独立党の「金玉均」は、この「清仏戦争」を好機と見てクーデターを起こします。
金玉均は日本公使館守備隊の協力のもと、王宮に火を放ち、駆けつけた高官たちを殺害し、新政権を樹立させます。
フランスとの戦争に手一杯だった清軍は朝鮮で動くことはないだろうという算段でしたが、予想以上に早く清仏戦争の大勢は決しており、敗北した清は残った唯一の冊封国である朝鮮への介入を強めようとしていました。
金玉均は・今後朝鮮は、冊封国としての「国王」ではなく「皇帝」を名乗り、独立国として朝貢もやめる事・宦官の廃止・王室の透明性の向上などを掲げました。
しかし、閔妃の要請を受けた袁世凱が1500名の清軍を率いて軍事介入してきたため、クーデターは三日天下で終わります。
日本の守備隊は150名という少ない戦力でしたが、戦死者は立ったの1名、清軍の戦死者は53名という奮戦を見せつつ撤退しました。
そして朝鮮独立党の主導者達も共に日本へ亡命します。
壬午事変で焼かれ、再建されたばかりの日本公使館は再び火を放たれ、日本人居留民は惨殺されました。
クーデターの首謀者たちの家族、親戚なども数多く処刑され、甲申事変は悲惨な結果となってしまいました。
金玉均の遺体は5つに切り刻まれ、腐敗するまで晒されました。
さて、甲申事変において日本と清の軍隊が一戦交える事になってしまったため、日清関係は悪化し、緊張感が高まっていました。
日本は伊藤博文、清は李鴻章をそれぞれ全権大使として交渉にあたり、天津条約を結びます。
・日清両国とも、朝鮮から軍隊を撤退させる事
・朝鮮に派兵するときは事前に通告する事
などが取り決められました。
日本と清の軍隊がいなくなった朝鮮半島には、再び国際問題が起こります。
当時、世界の4分の1を支配していた覇権国家イギリスは、アジアでの植民地利権を揺るがす「ロシアの南下」を警戒していました。
朝鮮半島での一連の動乱によって、「李氏朝鮮はロシアの南下を防ぐことができない無力な国家だ」と、イギリスも気づいたのです。
清も日本もロシアの南下に対抗するには国力が乏しく、イギリス自身の手によって先手が打たれる事になりました。
ロシアが狙っていた「巨文島」を占拠し、兵舎や防御設備を築いたのです。
イギリスによる巨文島の占領は2年にも渡り、結局イギリス、ロシア、清の話し合いによってイギリス軍は巨文島から撤退する事になりました。
朝鮮の領土での出来事なのに、解決するための話し合いにすら参加できていない李氏朝鮮という国家がいかに無力であったかという事が理解できる事件です。
さて、天津条約において一旦は日清両国の関係悪化は沈静化しますが、朝鮮を巡っていずれ戦うことになるであろう事は両国ともわかっていました。
壬午事変の際、300名の陸軍を動員した日本に対し、清軍は即座に三千の軍隊を派兵し、軍事力の差を歴然とさせました。
当時の日本の常備軍は1万8600人。
西南戦争での出費が重たくのしかかり、とにかくお金がなかった明治政府でしたが、酒やタバコなどの嗜好品に増税することによってなんとか財源を確保します。
東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に配備されていた軍隊、「鎮台」を「師団」に改め、天皇の直属軍「近衛師団」も加えて7個師団体制にし、戦時動員兵力を20万人にまで増員しました。
「松島、厳島」はフランスに発注し3年で完成しましたが、「橋立」は日本で建造されたため6年もかかり、日本の造船技術の遅れを痛感させられました。
増税で財源を確保し、軍拡を進めた日本に対し、清もまた、独自の方法で軍拡を進めていました。
アヘン戦争、アロー戦争で賠償金を払わされていた清にはもうお金がありませんでした。
そこで、地方の有力者に「私設軍隊」を作らせ、それを清朝政府が承認するという方法をとったのです。
軍の維持費は有力者が負担しますが、その規模に応じて大臣などの高い地位を授けられるのです。
これによって、清の各地では権力を持った有力者達の軍隊が割拠し、後に「軍閥」と呼ばれるようになります。
こうして日清両国とも、朝鮮とは距離を保ちつつも戦争準備を進めて行きました。「嵐の前の静けさ」と言うべきでしょうか。
そんな中、再び朝鮮の国状が乱れ始めるのでした。