タイに駐留していた日本軍は、海上輸送を避けて陸路でのビルマ戦線への輸送ルートを確保すべく、1942年から鉄道の建設を開始していました。
「泰緬鉄道」です。
山脈を越える400キロの壮大な工事には、日本兵1万2千人、募集で集まったタイ人数万人、ミャンマー人18万人、マレーシア人8万人、インドネシア人4万5千人の他にも、連合国の捕虜6万人が使役にあたりました。
募集を募ったとはいえ、その過酷な労働環境が広まり人員が集まらなかったため、日本軍は現地の住民の役人を通じて間接的な圧力をかけて労働力を調達せねばならず、その悲惨な事実は「ロームシャ(労務者)」というインドネシア語となって刻まれてしまいました。
この鉄道工事において、補給困難による栄養失調や、マラリヤなどにより数万人の死者が出ました。
日本軍は1943年に現地に病院を建設するなどして対策を講じますが、死亡率を下げることはできなかったようです。
ですが、映画「戦場にかける橋」で描かれているような橋の建設作業は、実際には捕虜がやらされていた訳ではなく、運搬や掘削などの単純作業が主だったと言われています。
また、日本人のみが楽をしていたわけでは決してなく、日本兵も一千人の死者を出しており、死亡率だけでいえば日本兵は捕虜の10倍でした。
1943年にはいると1日10時間もの過酷な労働作業をこなし、「5年はかかるだろう」と言われていた工事を10月に終わらせることができました。
鉄道完成後、日本軍は、日本兵を除く作業での犠牲者を追悼するために慰霊塔を建設し、捕虜は元の収容所にもどされました。
泰緬鉄道 |
カンチャナブリー慰霊塔 |
1942年に始まったビルマ侵攻の結果、日本軍はビルマのほぼ全土を制圧しました。
しかしミッドウェー海戦の敗北など、徐々に日本の快進撃が息をひそめて劣勢に立たされ始めると、ビルマ方面においても反攻の機運が高まってきます。
1942年の末には、ビルマ西端の「アキャブ地方」に配属された日本軍に対してイギリス軍が攻撃を仕掛けました。(第一次アキャブ作戦)
日本軍は611名の戦死者を出しながらもイギリス軍を撃退する事に成功します。
イギリス軍は次なる作戦として、小部隊を敵地深くまで侵入させる長期のゲリラ作戦「ロングクロス作戦」を行いました。
この作戦のために編成された第77インド旅団は「チンディット」と名付けられ、1943年2月8日、7部隊3200名がビルマ北部へ進出を開始します。
山を越えて川を渡り、情報収集を行いながら鉄道や橋梁を破壊するなどの工作を続けて損害を与えましたが、日本軍の掃討戦によってチンディットは1000名程の戦死者を出し、後退を余儀なくされました。
しかしこの作戦によって、日本軍は「アラカン山脈とチンドウィン川が防御壁になる」という考えを改めなければならず、イギリスの拠点「インパール」を攻略せねばならないという認識を持つようになったのです。
さて一方で、支那・ビルマなどのアジア戦線におけるアメリカの方針は、アジア方面陸軍司令官のスティルウェルと、フライングタイガース指揮官のシェンノートによって対立が生まれていました。
支那戦線へ戦力を集中して制空権を確保することを主張し、蒋介石の支持を得ていたシェンノートでしたが、日本軍航空隊の強さは彼の構想を打ち砕きました。
次第に支那国民党軍を再建してビルマ北部を奪回しビルマルートを回復する、というスティルウェルの構想が支持されるようになります。
蒋介石夫妻とスティルウェル |
支那から空輸(ハンプ越え)で移動してきた国民党軍の部隊にアメリカ式の装備を与えて訓練を施し、「新編第一軍」を結成したのです。
後に日本軍はこの新編成された国民党軍によって地獄をみる事になります。
新編第一軍 |