2021年3月3日水曜日

大東亜戦争31 ニューギニアの戦い③絶望への道

 


日本軍は、陸路によるポートモレスビー攻略「スタンレー作戦」が失敗に終わり、ブナの守備隊が玉砕した後も、将来再びポートモレスビーを攻略するときのためとして、「ラエ」「サラモア」「マダン」「ウェクワ」へ兵力の増強を計画しました。


これによって多くの多くの兵と物資がニューギニア東部へと送られる事になるのですが、その輸送作戦中に発生したのが「ビスマルク海海戦」であり、輸送船8隻と駆逐艦4隻が沈没、3600名が死亡したその悲劇は「ダンピール海峡の悲劇」として語り継がれています。


その後も日本軍は細々と小規模な輸送が繰り返し、サラモア、マダン、ウェワクへと戦力を増加させていきました。

しかしそこは、日本軍基地のあるラバウルを孤立化させるための「カートホイール作戦」を進行させていた米軍の攻略目標でもありました。

1943年の初頭には徐々に制海権・制空権を失いつつあり、戦局の悪化に伴い既に「ニューギニア放棄論」が出ていましたが、ポートモレスビー攻略に固執する日本軍がまともに検討する事はありませんでした。

一度決めた重要事項の変更がきかない融通のなさは今も昔も日本人の性なのでしょうか。

1943年6月30日、米軍はサラモアの南方30キロ地点に上陸します。

日本軍は猛烈な砲撃を浴びながらも地の利を生かした戦法でサラモアを9月まで死守する事に成功しました。

しかしサラモア上陸は米軍の陽動作戦であり、本当の狙いは「ラエ」でした。



サラモアが最前線となっていた為、後方部隊として位置付けられたラエの日本軍には傷病兵が多く、実働部隊が300名ほどしかいなかった為、9月4日から開始された米軍の上陸作戦に対応することができませんでした。

しかしそのような状況においても日本軍は果敢に戦い、米軍の侵攻を食い止めつつ撤退を開始。

米軍は9月11日にサラモアを、16日にはラエを陥落させました。

ラエからの撤退路は標高4100mを超える「サワラケット山」を越えるルートになってしまい、転進先のキアリへは1ヶ月も要しました。

その道中で、多くの将兵が飢え、寒さ、落石、転落などで犠牲になってしまいました。


さて、ラエを攻略した連合軍の次なる目標は、フォン半島の先端、フィンシュハーフェンです。

ここはダンピール海峡の要衝であり、日本軍の船舶基地がありました。

日本軍歩兵第80連隊は、南方の守りを重視していましたが、9月22日に5000名のオーストラリア軍が上陸したのはフィンシュハーフェン北方10キロのアント岬でした。

この予想外の事態に日軍は対応できず、激しい戦闘の末にフィンシュハーフェンを占領されてしまいます。

連合軍が築いた橋頭堡を奪取すべく日本軍も抵抗を試みるも、撤退時に兵器を失っており為す術はありませんでした。

連合軍はフィンシュハーフェンに飛行場を整備し制空権を手中におさめます。

補給路を断たれた日本軍は10月には既に現地住民の畑から食料を調達する有様で、1日にタロイモ一個しか口にする事ができなくなってしまいました。

そのような状況でも日本軍は抵抗を続けましたが、徐々に戦力、火力を充実させていく連合軍に太刀打ちできるはずもなく、12月19日にはフィンシュハーフェンから撤退する事になりました。


フィンシュハーフェンからダンピール海峡を挟んだ場所にある「ニューブリテン島」は「ラバウル基地」などがあり、ソロモン方面における日本軍の拠点でした。

連合軍は、ニューブリテン島東部にあるラバウル基地を孤立化させる為に、ニューブリテン島西部を占領しようと目論みます。



1943年12月15日、米軍はニューブリテン島西部のグロスター岬に攻撃を開始、26日に正式に上陸を開始しました。

日本軍は山中に籠って持久戦の構えを見せましたが、ラバウルへの転進命令が出たため撤退していきました。(最も、ラバウルまでの距離は数百キロもあり、転進中に多くの戦病死・餓死者を出す過酷な道中となりました)


ニューギニア島東端のフォン半島、ダンピール海峡、ニューブリテン島西端が連合国に占領された事によって、ビスマルク海の制海権は完全に連合国のものになり、日本軍のニューギニア方面への補給路は完全に断たれました。

これによって、ニューギニアは日本兵の死因の多くが戦死ではなく、「餓死・病死」であるという悲惨な戦場へと変わっていきます。

戦後、日本へ帰って来ることができた帰還兵達はこう言ったそうです

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」



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