ニューブリテン島における幾多の戦闘の末、日本軍はニューブリテン島東部に追いやられ、日本軍の一大拠点であったラバウルは孤立してしまいました。
さらい米豪連合軍はアドミラルティ諸島を攻略し、ラバウルを完全に遮断しようと考え、45000人の兵力を用意しました。
日本軍はラバウルが攻略されるものだと勘違いしていたため、アドミラルティ諸島に兵力を割くわけにはいかず、アドミラルティ諸島には3800名の守備隊と、わずかな歩兵砲、対空砲があるのみでした。
2月29日、連合国軍はロスネグロス島南東部のハイン湾から上陸を開始。
日本軍の反撃は艦砲射撃によって沈黙させられます。
橋頭堡を築いた連合国軍に対して夜襲をかけるも撃退され、その後も全軍をあげて抵抗をしましたが部隊はほぼ全滅となりました。
指揮官である江崎義雄大佐は、司令部の玉砕命令には従わず、ロスネグロス島を放棄しマヌス島へ集結、持久戦へ持ち込もうと考えます。
しかし3月15日、米軍はマヌス島へ上陸し火炎放射などで日本軍を撃退していきました。
江崎大佐率いる800名の守備隊が手作りの筏でマヌス島へたどり着いた時には、すでにマヌス島は米軍に占拠されており、各個撃破されていくのでした。
5月の末には日本軍は全員玉砕、戦死者は3280名にものぼりました。
アドミラルティ諸島を占拠した米軍の次の狙いが「ウェワク」であると判断した第二方面軍司令官阿南惟幾大将は、日本軍に対して、マダンを捨ててウェワクへと移動するように指示します。
マダンからウェワクまでは大湿地帯を移動せねばならず、日本兵たちは泥の中で直立したまま仮眠を取らざるを得ませんでした。
しかし米軍の作戦は、必要最小限の地点しか攻略しない「飛び石作戦」であり、4月22日に米軍はマダンもウェワクも通り越してホーランジアまで到達していました。
ホーランジアへ上陸してくる米軍に対し、日本軍の武器は銃剣や軍刀を頼みにせねばならないほど不足していました。
有効な反撃ができるはずもなく撤退を余儀なくされた日本軍ですが、西方のサルミへ退却した6600名の日本兵のうち、たどり着けたものはわずかに500名に過ぎませんでした。
ビアク島の守備兵力は12000を超えていましたが、その大半が飛行場設営隊、開拓任務、輸送部隊などで占められ、実質的な戦闘部隊は海軍陸戦隊を合わせて4500名に過ぎず、さらに小銃は1388丁しかありませんでした。
戦力の中心は、95式軽戦車9両を保持する歩兵二222連隊でした。
5月27日、艦砲射撃を終えた25000名の連合国軍がビアク島に上陸、海岸線を見下ろす位置にある洞窟に身を潜めていた日本軍は翌日、連合国軍に十字砲火を浴びせました。
この時の攻撃で米軍のM4中戦車3両を撃破、29日には日本軍の95式軽戦車と米軍のM4中戦車による戦車戦が展開され、95式軽戦車は7両が撃破されるも、M4中戦車も2両が大破するなど、日本軍は健闘します。
この戦いに日本軍将兵たちは奮起し、米軍はあわや包囲される寸前まで追い詰められ、撤退を余儀なくされました。
攻めあぐねる米軍は6月7日、モクメル第一飛行場に突入、飛行場を占領します。
しかし日本軍の砲撃や夜襲によって、飛行場の運用開始は予定より大幅に遅れてしまいました。
米軍は日本軍の立てこもる洞窟に昼夜を問わず砲撃を開始、そのためビアク島の日本軍司令部が置かれている「西洞窟」では、食料と飲料水が不足しはじめました。
日本兵たちはわずかな乾パンと、鍾乳石からしたたる水滴で飢えをしのぎますが、赤痢が蔓延し、洞窟内は死体の悪臭が充満するようになりました。
6月27日、軽戦車はすでに全滅し、抵抗する術のない日本兵たちは洞窟を捨てて後退、ジャングルの中に分散して自活しましたが、マラリアと飢餓に倒れていきました。
8月20日、米軍はビアク島での戦闘終結を宣言しました。
7月2日、米軍はビアク島西方のヌンホル島へも上陸、8月31日に制圧を宣言します。
日本軍守備隊1500名のうち、生き残ったのはわずかに12名でした。
7月30日、米軍はさらにサンサポールへも上陸を開始、日本軍の反撃も微弱で、8月末には戦闘は終結しました。
これらの戦いにより、米軍はニューギニア北岸の主要な飛行場を確保し、ニューギニア方面での制空権を確固たるものにしました。
東部ニューギニアへは16万人もの兵力を投入していた日本軍でしたが、1944年6月の時点では54000人にまで減少していました。
連合国軍がアイタペを占領することにより、ウェワクに集結していた日本軍残存兵力は孤立してしまいます。
日本軍は2万人を率いてアイタペへ進軍、7月10日にドリニュモール川に防衛線を張る米軍に攻撃を仕掛けました。
一時は米軍を包囲するほど奮戦するも、敵の増援部隊や空襲、艦砲射撃によって後退させられます。
8月4日には日本軍の食料、弾薬が尽き、戦死者は13000名にも達しました。
日本軍はウェワクに撤退し、散発的な戦闘を繰り返しながら、現地住民の協力を得て食料を手に入れて自活しました。
日本兵たちはトカゲや草の根、昆虫など口に入れられるものなら何でも食べて飢えをしのぎ、飢餓と感染症に倒れていきました。