2021年7月26日月曜日

大東亜戦争43 ニューギニアの戦い④飢餓戦線拡大中

 


ニューブリテン島における幾多の戦闘の末、日本軍はニューブリテン島東部に追いやられ、日本軍の一大拠点であったラバウルは孤立してしまいました。

さらい米豪連合軍はアドミラルティ諸島を攻略し、ラバウルを完全に遮断しようと考え、45000人の兵力を用意しました。

日本軍はラバウルが攻略されるものだと勘違いしていたため、アドミラルティ諸島に兵力を割くわけにはいかず、アドミラルティ諸島には3800名の守備隊と、わずかな歩兵砲、対空砲があるのみでした。


2月29日、連合国軍はロスネグロス島南東部のハイン湾から上陸を開始。

日本軍の反撃は艦砲射撃によって沈黙させられます。

橋頭堡を築いた連合国軍に対して夜襲をかけるも撃退され、その後も全軍をあげて抵抗をしましたが部隊はほぼ全滅となりました。

指揮官である江崎義雄大佐は、司令部の玉砕命令には従わず、ロスネグロス島を放棄しマヌス島へ集結、持久戦へ持ち込もうと考えます。

しかし3月15日、米軍はマヌス島へ上陸し火炎放射などで日本軍を撃退していきました。

江崎大佐率いる800名の守備隊が手作りの筏でマヌス島へたどり着いた時には、すでにマヌス島は米軍に占拠されており、各個撃破されていくのでした。

5月の末には日本軍は全員玉砕、戦死者は3280名にものぼりました。


アドミラルティ諸島を占拠した米軍の次の狙いが「ウェワク」であると判断した第二方面軍司令官阿南惟幾大将は、日本軍に対して、マダンを捨ててウェワクへと移動するように指示します。

マダンからウェワクまでは大湿地帯を移動せねばならず、日本兵たちは泥の中で直立したまま仮眠を取らざるを得ませんでした。

しかし米軍の作戦は、必要最小限の地点しか攻略しない「飛び石作戦」であり、4月22日に米軍はマダンもウェワクも通り越してホーランジアまで到達していました。


ホーランジアへ上陸してくる米軍に対し、日本軍の武器は銃剣や軍刀を頼みにせねばならないほど不足していました。

有効な反撃ができるはずもなく撤退を余儀なくされた日本軍ですが、西方のサルミへ退却した6600名の日本兵のうち、たどり着けたものはわずかに500名に過ぎませんでした。


サイパン島への攻撃も予定されていた米軍は、サルミ、ワクデ島、ビアク島の飛行場を占領しようと考えます。

サルミ・ワクデ方面には14000人の日本軍守備隊が配備されていましたが、5月17日にサルミ、翌日にワクデ島へ米軍が上陸すると、26日にはワクデ島の守備隊が全滅してしまいます。

サルミの部隊は、持久戦を展開し米軍に打撃を与えつつ、小規模な戦闘を繰り返しながら終戦まで持ちこたえました。

生き残った日本兵はわずかに2000名でした。


ビアク島の守備兵力は12000を超えていましたが、その大半が飛行場設営隊、開拓任務、輸送部隊などで占められ、実質的な戦闘部隊は海軍陸戦隊を合わせて4500名に過ぎず、さらに小銃は1388丁しかありませんでした。

戦力の中心は、95式軽戦車9両を保持する歩兵二222連隊でした。

5月27日、艦砲射撃を終えた25000名の連合国軍がビアク島に上陸、海岸線を見下ろす位置にある洞窟に身を潜めていた日本軍は翌日、連合国軍に十字砲火を浴びせました。

この時の攻撃で米軍のM4中戦車3両を撃破、29日には日本軍の95式軽戦車と米軍のM4中戦車による戦車戦が展開され、95式軽戦車は7両が撃破されるも、M4中戦車も2両が大破するなど、日本軍は健闘します。

この戦いに日本軍将兵たちは奮起し、米軍はあわや包囲される寸前まで追い詰められ、撤退を余儀なくされました。



攻めあぐねる米軍は6月7日、モクメル第一飛行場に突入、飛行場を占領します。

しかし日本軍の砲撃や夜襲によって、飛行場の運用開始は予定より大幅に遅れてしまいました。

米軍は日本軍の立てこもる洞窟に昼夜を問わず砲撃を開始、そのためビアク島の日本軍司令部が置かれている「西洞窟」では、食料と飲料水が不足しはじめました。

日本兵たちはわずかな乾パンと、鍾乳石からしたたる水滴で飢えをしのぎますが、赤痢が蔓延し、洞窟内は死体の悪臭が充満するようになりました。

6月27日、軽戦車はすでに全滅し、抵抗する術のない日本兵たちは洞窟を捨てて後退、ジャングルの中に分散して自活しましたが、マラリアと飢餓に倒れていきました。

8月20日、米軍はビアク島での戦闘終結を宣言しました。


7月2日、米軍はビアク島西方のヌンホル島へも上陸、8月31日に制圧を宣言します。

日本軍守備隊1500名のうち、生き残ったのはわずかに12名でした。

7月30日、米軍はさらにサンサポールへも上陸を開始、日本軍の反撃も微弱で、8月末には戦闘は終結しました。

これらの戦いにより、米軍はニューギニア北岸の主要な飛行場を確保し、ニューギニア方面での制空権を確固たるものにしました。


東部ニューギニアへは16万人もの兵力を投入していた日本軍でしたが、1944年6月の時点では54000人にまで減少していました。

連合国軍がアイタペを占領することにより、ウェワクに集結していた日本軍残存兵力は孤立してしまいます。

日本軍は2万人を率いてアイタペへ進軍、7月10日にドリニュモール川に防衛線を張る米軍に攻撃を仕掛けました。

一時は米軍を包囲するほど奮戦するも、敵の増援部隊や空襲、艦砲射撃によって後退させられます。

8月4日には日本軍の食料、弾薬が尽き、戦死者は13000名にも達しました。

日本軍はウェワクに撤退し、散発的な戦闘を繰り返しながら、現地住民の協力を得て食料を手に入れて自活しました。

日本兵たちはトカゲや草の根、昆虫など口に入れられるものなら何でも食べて飢えをしのぎ、飢餓と感染症に倒れていきました。




2021年7月18日日曜日

大東亜戦争42 フィリピンの戦い④レイテ島陥落

 



日本海軍の総力を結集したレイテ沖海戦は、目的を何一つ果たせずに完敗しました。

しかし海軍は「敵空母8隻撃沈、7隻撃破、航空機500機撃墜」と誇大戦果を発表します。

これを信じた陸軍は、台湾沖航空戦の誇大戦果も相まって、米軍の戦力を大幅に過小評価することになりました。

陸軍は方針を「ルソン島決戦」から「レイテ島決戦」へと転換し、レイテ島に増援を送ってしまいます。(多号作戦)

しかし壊滅したと聞かされていた米軍機動部隊はいたって健在であり、陸軍の輸送舞台はことごとく撃沈され、多くの人と物資が海に沈む事になりました。

これによって、フィリピンでは「ガダルカナルの再来」とも呼ばれる飢餓地獄が始まる事になるのです。


しかしそんな無謀な輸送作戦の中でも、いくつかの師団はレイテ島上陸を成功させていました。

11月1日にレイテ島西岸オルモックへ上陸した第一師団は北上を開始します。

しかしカリガラ湾へ抜ける途中のリモン峠で米軍と遭遇し、戦闘になりました。

米軍は日本軍とは逆に、オルモックを目指していたのです。

防衛線を貼った第一師団に、米軍は殊の外、苦戦を強いられました。

米軍は11月25日にリモン峠北部の制圧を宣言しますが、南部では以前先頭が続いており、この時点で米軍の死傷者は1500名にも達していたのです。



米軍は、レイテ島南部東岸のアブヨグから、西岸のバイバイへ抜け、そこから北上してオルモックを目指す作戦を立てました。

それを察知した日本軍はオルモックから部隊を迎撃に向かわせましたが、待ち伏せにあい全滅してしまいます。

そこでさらなる増援を送った事により、11月23日にパラナス川で戦闘が起こりました。

日本軍の攻撃により米軍は一時後退を余儀なくされましたが、11月28日に形勢は逆転し、12月4日に米軍はバイバイへ到達しました。


制海権、制空権のない日本軍の輸送部隊は、米軍が築いた飛行場から発進する航空機の攻撃に晒されていました。

そこで、輸送を成功させるため、航空攻撃を一時的にでも沈黙させるべく、ブラウエン飛行場への攻撃「義号作戦」が画策されます。

この作戦に投入された部隊は「薫空挺隊」と呼ばれ、これは台湾第一遊撃部隊の一部であり、台湾の高砂族の出身者がかなりの割合を占めていました。


11月26日夜間、40数名が4機の輸送機に分乗し、敵航空基地への強行着陸作戦が実行されました。

1機はバレンシア飛行場に着陸、2機はドラッグ海岸に不時着、残りの一気に完全に消息不明となりました。

この作戦が成功したのか失敗したのかは不明で把握されていませんが、「ブラウエン飛行場に火柱が立つのを見た」「いつもは対空砲火を受ける偵察機が、この日だけ全く攻撃されなかった」などという証言もあります。

この10日後の12月6日には、高千穂空挺隊による強行着陸作戦「テ号作戦」も決行されましたが、義号作戦のような胴体着陸ではなく、落下傘降下によって実行されました。


空からの「義号作戦」「テ号作戦」に呼応すべく、第16師団、26師団の残存兵力によるブラウエン飛行場への地上からの攻撃「和号作戦」も決行されました。

12月6日の攻撃によって、一時的に飛行場を制圧する事ができましたが、米軍の援軍によって撃退されてしまいます。

結局この作戦は、米軍のオルモック上陸によって中止せざるを得なくなってしまいました。


オルモックは日本軍の揚陸拠点でした。

リモン峠で日本軍の反攻に手を焼いていた米軍は、オルモックに上陸してここを叩く必要があったのです。

12月7日に米軍はオルモック南部のイピルに上陸、つづく10日にオルモックへと上陸しました。

この奇襲に日本軍の上層部は対応しきれず、11日夜に救援部隊を米軍の制圧地帯に送り込んでしまい大損害を出してしまいます。

12月15日にオルモックは米軍の手に落ち、日本軍の補給線は絶たれてしまいました。

リモン峠で粘っていた日本軍は限界を越え、西海岸方面へと撤退します。

これ以降は、米軍による掃討戦の形になりました。

それでもレイテ島に固執する日本軍の上層部はさらなる上陸部隊を向かわせ、いたずらに損害を増やしていきました。

1945年1月2日、小磯国昭首相は、レイテ島だけでなくフィリピン全体での決戦に拡大すると発表します。これは事実上「レイテ島の陥落」を意味するものでした。

レイテ島の日本軍の残存兵力は2万人ほどであり、そのほとんどが西海岸に集結していました。

一月中旬には小型船艇による撤退作戦「地号作戦」が展開され、800名ほどがセブ島へ脱出できましたが、1月20日に船艇が全滅し中止となってしまいます。

その後、残された日本兵は米軍の掃討戦に対応しつつ自活し、多くの人が飢餓に倒れることになりました。

日本軍はこの「レイテ島の戦い」において、総兵力84000名のうちの97%を失うことになりました。