日本海軍の総力を結集したレイテ沖海戦は、目的を何一つ果たせずに完敗しました。
しかし海軍は「敵空母8隻撃沈、7隻撃破、航空機500機撃墜」と誇大戦果を発表します。
これを信じた陸軍は、台湾沖航空戦の誇大戦果も相まって、米軍の戦力を大幅に過小評価することになりました。
陸軍は方針を「ルソン島決戦」から「レイテ島決戦」へと転換し、レイテ島に増援を送ってしまいます。(多号作戦)
しかし壊滅したと聞かされていた米軍機動部隊はいたって健在であり、陸軍の輸送舞台はことごとく撃沈され、多くの人と物資が海に沈む事になりました。
これによって、フィリピンでは「ガダルカナルの再来」とも呼ばれる飢餓地獄が始まる事になるのです。
しかしそんな無謀な輸送作戦の中でも、いくつかの師団はレイテ島上陸を成功させていました。
11月1日にレイテ島西岸オルモックへ上陸した第一師団は北上を開始します。
しかしカリガラ湾へ抜ける途中のリモン峠で米軍と遭遇し、戦闘になりました。
米軍は日本軍とは逆に、オルモックを目指していたのです。
防衛線を貼った第一師団に、米軍は殊の外、苦戦を強いられました。
米軍は11月25日にリモン峠北部の制圧を宣言しますが、南部では以前先頭が続いており、この時点で米軍の死傷者は1500名にも達していたのです。
米軍は、レイテ島南部東岸のアブヨグから、西岸のバイバイへ抜け、そこから北上してオルモックを目指す作戦を立てました。
それを察知した日本軍はオルモックから部隊を迎撃に向かわせましたが、待ち伏せにあい全滅してしまいます。
そこでさらなる増援を送った事により、11月23日にパラナス川で戦闘が起こりました。
日本軍の攻撃により米軍は一時後退を余儀なくされましたが、11月28日に形勢は逆転し、12月4日に米軍はバイバイへ到達しました。
制海権、制空権のない日本軍の輸送部隊は、米軍が築いた飛行場から発進する航空機の攻撃に晒されていました。
そこで、輸送を成功させるため、航空攻撃を一時的にでも沈黙させるべく、ブラウエン飛行場への攻撃「義号作戦」が画策されます。
この作戦に投入された部隊は「薫空挺隊」と呼ばれ、これは台湾第一遊撃部隊の一部であり、台湾の高砂族の出身者がかなりの割合を占めていました。
11月26日夜間、40数名が4機の輸送機に分乗し、敵航空基地への強行着陸作戦が実行されました。
1機はバレンシア飛行場に着陸、2機はドラッグ海岸に不時着、残りの一気に完全に消息不明となりました。
この作戦が成功したのか失敗したのかは不明で把握されていませんが、「ブラウエン飛行場に火柱が立つのを見た」「いつもは対空砲火を受ける偵察機が、この日だけ全く攻撃されなかった」などという証言もあります。
この10日後の12月6日には、高千穂空挺隊による強行着陸作戦「テ号作戦」も決行されましたが、義号作戦のような胴体着陸ではなく、落下傘降下によって実行されました。
空からの「義号作戦」「テ号作戦」に呼応すべく、第16師団、26師団の残存兵力によるブラウエン飛行場への地上からの攻撃「和号作戦」も決行されました。
12月6日の攻撃によって、一時的に飛行場を制圧する事ができましたが、米軍の援軍によって撃退されてしまいます。
結局この作戦は、米軍のオルモック上陸によって中止せざるを得なくなってしまいました。
オルモックは日本軍の揚陸拠点でした。
リモン峠で日本軍の反攻に手を焼いていた米軍は、オルモックに上陸してここを叩く必要があったのです。
12月7日に米軍はオルモック南部のイピルに上陸、つづく10日にオルモックへと上陸しました。
この奇襲に日本軍の上層部は対応しきれず、11日夜に救援部隊を米軍の制圧地帯に送り込んでしまい大損害を出してしまいます。
12月15日にオルモックは米軍の手に落ち、日本軍の補給線は絶たれてしまいました。
リモン峠で粘っていた日本軍は限界を越え、西海岸方面へと撤退します。
これ以降は、米軍による掃討戦の形になりました。
それでもレイテ島に固執する日本軍の上層部はさらなる上陸部隊を向かわせ、いたずらに損害を増やしていきました。
1945年1月2日、小磯国昭首相は、レイテ島だけでなくフィリピン全体での決戦に拡大すると発表します。これは事実上「レイテ島の陥落」を意味するものでした。
レイテ島の日本軍の残存兵力は2万人ほどであり、そのほとんどが西海岸に集結していました。
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