2021年8月27日金曜日

大東亜戦争45 ビルマの戦い④国民党軍の逆襲

 


フーコン河谷は、ビルマからインド国境に達する南北200キロの大ジャングル地帯です。
1943年10月30日、国民党軍の新編第一軍はフーコン河谷のニンビンを攻撃、日本軍の第18師団との戦闘を開始しました。

国民党軍の狙いは、インドのアッサム州から支那雲南省昆明を結ぶ援蒋ルート「レド公路」を開通する事でした。

スティツウェルの構想により米軍式の訓練と武器を施された新編第一軍は、連合国軍の最新戦術「リング・ディフェンス・システム」を採用します。

これは防衛戦を円陣に組み、補給は空輸により円陣内に投下してもらうというもので、この戦いでも大いに効果を発揮しました。

新編第一軍は日本軍の抵抗により大きな損害を受けるものの、12月24日、初めて国民党軍は日本の精鋭部隊に対して勝利をあげます。

その後もフーコンでの戦闘は持久戦となり続きますが、この戦いを皮切りに、ビルマでの戦況はこれまでとはガラリと一変してしまいます。


1942年初頭にイギリス軍で編成されてビルマ戦線に投入されていた、ゲリラ戦に特化した小部隊「チンディット」は増強され、「第三インド師団」と改名されていました。

1944年2月、持久戦に陥っていたフーコン河谷での戦いの戦況を打開するため、第3インド師団による空挺作戦「サーズデイ作戦」が決行されます。

大量のグライダーを用いて9000名の第三師団がマンダレー、ミイトキーナに降下し、日本軍第18師団の補給路を遮断しました。

日本軍第53師団4000名はこのチンディット部隊と戦闘し、18、53両師団は大損害を受けるも、なんとか補給路を回復することに成功します。

18師団は一時は壊滅の危機に陥るも、なんとか退路を切り開いてフーコン河谷から撤退しました。


ビルマ西岸の都市「アキャブ(現シットウェー)」には飛行場、港がありビルマ防衛の要衝となっていました。

1944年に入って国境を越えてビルマ国内に連合国軍が侵入してくると、日本の勢力圏とアキャブへの補給路確保が困難になってきます。

日本軍はアキャブ付近のイギリス軍を殲滅する事を目的とした「第二次アキャブ作戦」を決行しました。

作戦開始早々、日本軍は各地のイギリス軍を包囲しましたが、これはイギリス軍の罠でした。

イギリス軍は「円筒陣地(アドミン・ボックス)」と呼ばれる陣地を構築していたのです。

これは円形陣地の外側に戦車や機関銃、迫撃砲などの重火器を配備し、補給は空輸による物資投下で賄う戦術で、火力に乏しい日本軍にはこの陣地を突破する術がなかったのです。

円陣内に次々と物資が投下されるイギリス軍に対し、日本軍の物資は4日分しかなく、日本軍は為す術もなく2月26日に作戦を中止、3106人の戦死者を出す大惨敗を喫しました。


2021年8月8日日曜日

大東亜戦争44 大陸打通作戦

 


1937年に始まった支那事変は長く続き、日米開戦時には派兵数は90万を超えていました。

しかし太平洋方面での防衛体制を強化するために次々と兵力は抽出され、62万人にまで減少してしまいました。

それに伴う兵力不足によって大規模な作戦は行われないでいましたが、支那に散財する米軍基地からの空襲で日本の艦船や本土が被害を受けており、1943年11月に台湾の日本軍基地に損害が出たりすると、膠着する支那戦線の中でも日本軍に危機感が出てきます。

これによって「華北と華南を結ぶ鉄道を直結し、日本軍が駐屯するフランス領インドシナと陸路で交通させる事」「B-29の基地として使用されそうな拠点基地を潰して本土空襲を防ぐ事」「支那国民党軍を撃破し、継戦意欲を削ぐ事」「日本軍の勝利による国民の士気高揚」などを目的とした「大陸打通作戦」が計画される事になりました。

そんなことよりも首都・重慶を攻めるべきだという、もっともな意見もありましたが、この作戦は参謀本部に認可されることになります。

投入兵力50万、作戦距離2400km、敵兵力100万人という、陸軍史上最大の作戦となりました。


支那大陸を横断するこの壮大な作戦は、北京〜漢口を結ぶ京漢鉄道が不可欠なのですが、黄河鉄橋が敵の攻撃で破壊されていました。

まずは何よりこの鉄橋の修理が第一ですが、3km以上の長さのこの鉄橋の修理は容易ではありません。

鉄道第6連隊は尋常ならざる努力でこの任務にあたり、3月末には修理を終える事ができました。

こうして4月17日、黄河を渡る事ができた日本軍は南部京漢鉄道沿線を占領すべく大陸打通作戦を開始します。

4月20日、日本軍は覇王城を守る支那国民党軍に攻撃を開始、交代する国民党軍に対し追撃を加え、河南省密県を占領しました。

さらに許昌市も攻略し、蒋介石が送り込んだ迎撃部隊もろとも殲滅してしまいます。

続く5月20日には盧氏県市も占領、物資を集積する倉庫や飛行場は日本軍によって制圧されました。


勢いに乗る日本軍は5月23日、洛陽城を攻撃します。戦車部隊を投入し25日に洛陽城は陥落しました。

これにてまず、北京と漢口を結ぶ「京漢作戦」が完了し、これまでは揚子江による水路を頼っていた物資輸送も、鉄道による陸上輸送が可能となったのです。

北支方面軍司令官の岡村寧寺対象は「焼くな、殺すな、犯すな」の三戒を持って厳しく軍律を統制し、日本軍が占領した地域では夜間に民間人が安心して出歩けるほどにまで治安が向上しました。


京漢作戦が進行している間、漢口に駐留していた第11軍は攻勢準備を進めていました。

京漢作戦の部隊と第11軍が合流すればその数はなんと36万人にも達します。

5月27日に作戦は決行されましたが、日本軍の動きを察知していた国民党軍は早々と撤退していたため、日本軍の進出は容易でした。

第11軍の攻撃目標は、過去2度にわたり攻撃するも占領できなかった「長沙」です。

長沙郊外の丘陵に陣取る国民党軍を撃退した日本軍でしたが、この頃連日の豪雨により、第一線への兵站輸送が困難になっていました。

第11軍司令官、横山勇中将は、自軍による略奪の発生を警戒し、日本軍将兵に長沙市街への出入りを禁じました。

するとその夜、日本軍が市街を占拠していると予測したのか、米軍機がなんと長沙の街を空襲し、長沙市街は全焼してしまうのでした。


長沙攻略後、日本軍は6月26日、飛行場のある衝陽へ攻撃を開始します。
飛行場は占拠したものの、武器、食料の補給が追いつかない日本軍は城内の防御陣地を攻めあぐねていました。
その隙に国民党軍は日本軍の後方へ兵力を集め、日本軍を包囲します。
しかし増援を得た後の総攻撃によって日本軍は8月8日にようやく国民党軍を降伏させました。
この40日間の戦いによって、日本軍の死傷者は二万人近くにのぼりました。


桂林・柳州の米軍爆撃機によって、日本の輸送船団は被害を受けていました。

そこで日本軍は衝陽を占領した後、柳州へと兵を進めることになったのですが、衝陽での損害が大きかった日本軍は10万の兵力を補充します。

しかし7月の時点でサイパンが陥落したため、たとえ大陸打通作戦が成功したとしても太平洋側からの本土空襲が可能となってしまい、この作戦自体の意義が薄れてしまいます。

大本営では停戦か継続かで意見が分かれましたが、結局、この作戦は継続される事になりました。

11月3日、大陸打通作戦は再開され、1週間後には桂林・柳州の占領に成功します。

そして12月には日本軍がフランス領インドシナへ到達、大陸打通作戦は一応の成功を収めたのです。


この作戦による日本軍の戦死、病死者数は10万人、国民党軍は75万人と言われています。

ルーズヴェルト大統領は、国民党軍・共産党軍・在華米軍を統合し、スティルウェル将軍を最高司令官に任命するように蒋介石へ働きかけますが、蒋介石はこれを拒絶しました。

日本と戦ってはいるものの、蒋介石にとって真の敵は共産党軍だったのです。

日本軍との戦いを避けるように撤退する国民党軍を見て、スティルウェルは「蒋介石はいずれ起こる国共内戦のために戦力を温存している」ととらえました。

ルーズヴェルト大統領は蒋介石に対してこれまで信頼を置いてきましたが、抵抗もせずに在華米軍基地を明け渡したり、日本軍の進行を食い止める事ができない有様を見て、「蒋介石の軍隊は士気の低い腐敗した軍隊である」とみなし、アメリカでは蒋介石の暗殺計画も出てくるほどでした。

日本本本土への爆撃を防ぐこともできず、国民政府の戦意を削ぐこともできず、共産主義拡大の要因にもなってしまった大陸打通作戦ですが、その意義はただ一点、「蒋介石と国民党軍の評価を下げた」という事のみでした。

そしてルーズヴェルトが対日無条件降伏を要求することが困難で、戦争の早期終結には譲歩した案が必要であると考え始めるきっかけになったのです。


1944年12月17日、米軍の航空隊がB29による焼夷弾での絨毯爆撃を漢口に行いました。

漢口は当時日本の勢力下ではあったものの、市街地の半分は焼失してしまいます。

この爆撃の成果によって、アジアの市街地では焼夷弾による爆撃が効果的だと認識され、日本の本土空襲へと応用されることになりました。