フーコン河谷は、ビルマからインド国境に達する南北200キロの大ジャングル地帯です。
1943年10月30日、国民党軍の新編第一軍はフーコン河谷のニンビンを攻撃、日本軍の第18師団との戦闘を開始しました。
国民党軍の狙いは、インドのアッサム州から支那雲南省昆明を結ぶ援蒋ルート「レド公路」を開通する事でした。
スティツウェルの構想により米軍式の訓練と武器を施された新編第一軍は、連合国軍の最新戦術「リング・ディフェンス・システム」を採用します。
これは防衛戦を円陣に組み、補給は空輸により円陣内に投下してもらうというもので、この戦いでも大いに効果を発揮しました。
新編第一軍は日本軍の抵抗により大きな損害を受けるものの、12月24日、初めて国民党軍は日本の精鋭部隊に対して勝利をあげます。
その後もフーコンでの戦闘は持久戦となり続きますが、この戦いを皮切りに、ビルマでの戦況はこれまでとはガラリと一変してしまいます。
1942年初頭にイギリス軍で編成されてビルマ戦線に投入されていた、ゲリラ戦に特化した小部隊「チンディット」は増強され、「第三インド師団」と改名されていました。
1944年2月、持久戦に陥っていたフーコン河谷での戦いの戦況を打開するため、第3インド師団による空挺作戦「サーズデイ作戦」が決行されます。
大量のグライダーを用いて9000名の第三師団がマンダレー、ミイトキーナに降下し、日本軍第18師団の補給路を遮断しました。
日本軍第53師団4000名はこのチンディット部隊と戦闘し、18、53両師団は大損害を受けるも、なんとか補給路を回復することに成功します。
18師団は一時は壊滅の危機に陥るも、なんとか退路を切り開いてフーコン河谷から撤退しました。
ビルマ西岸の都市「アキャブ(現シットウェー)」には飛行場、港がありビルマ防衛の要衝となっていました。
1944年に入って国境を越えてビルマ国内に連合国軍が侵入してくると、日本の勢力圏とアキャブへの補給路確保が困難になってきます。
日本軍はアキャブ付近のイギリス軍を殲滅する事を目的とした「第二次アキャブ作戦」を決行しました。
作戦開始早々、日本軍は各地のイギリス軍を包囲しましたが、これはイギリス軍の罠でした。
イギリス軍は「円筒陣地(アドミン・ボックス)」と呼ばれる陣地を構築していたのです。
これは円形陣地の外側に戦車や機関銃、迫撃砲などの重火器を配備し、補給は空輸による物資投下で賄う戦術で、火力に乏しい日本軍にはこの陣地を突破する術がなかったのです。
円陣内に次々と物資が投下されるイギリス軍に対し、日本軍の物資は4日分しかなく、日本軍は為す術もなく2月26日に作戦を中止、3106人の戦死者を出す大惨敗を喫しました。
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