1942年、ビルマ攻略が予想以上の速さで完了した日本軍は、インド北東部のインパールを攻略する作戦を立てます。
インパルにはイギリス軍の前線基地があるため、ここを叩けば支那への補給も断ち切れ、国民党軍を弱体化できると考えたのです。
しかしこの「二十一号作戦」に反対したのは、後にインパール作戦の指揮官を務める「牟田口廉也」中将でした。
インパールへの道は2000m級のアラカン山脈を越えねばならず、雨季になると泥水で山の斜面は身動きが取れなくなり、河川が氾濫するのです。
さらに、人口希薄地域ということもあって、現地住民からの徴発により食料を賄うことも困難であると予想されました。
11月下旬、大本営は二十一号作戦の保留を命じます。
1943年に入って連合軍の反攻作戦が進むと、太平洋方面での戦況悪化に伴いビルマ方面から航空戦力が転出され、ビルマでの防衛能力が低下してしまいます。
日本軍は防衛体制を一新すべくビルマ方面軍を創設し、その隷下の第15軍司令官に牟田口中将を任命します。
この人事異動に伴い、ビルマの現地情報に詳しい要因が司令官の牟田口と参謀の橋本中佐だけになってしまい、皆が司令官のビルマ現地での経験に頼らざるを得なくなってしまいました。
牟田口中将はかつては二十一号作戦などの積極的な攻勢には反対していたのですが、活発化する連合国軍の反撃を目の当たりにして防衛線が突破されることを恐れはじめます。
そこで、広範囲な防衛線築くよりはインパールを攻略しインドへ侵攻することでインドの独立運動を促し、早期の戦争終結につなるのではないかと考えました。
二十一号作戦に反対して第15軍の士気を下げたことや盧溝橋事件に関与していた事などの個人的な責任感が、牟田口中将の方針を積極攻勢へ一変させた要因と言われています。
牟田口中将は、敵の反撃を防ぐために雨季入り直前に奇襲をかける「弐号作戦」を提唱しましたが、小畑参謀長の反対にあい、この作戦案は消滅してしまいます。
1943年5月、南方軍司令部の軍司令官会合で、牟田口中将はインパール攻略、アッサム地方への侵攻を力説し、ビルマ方面軍司令官であり、牟田口の上官となる河辺正三中将もこれに同意します。
結局この意見が認可され、1944年1月にはインパール侵攻への実施が発令されました。
戦況を打開したいという焦りが南方軍総司令官「寺内寿一」元帥の頭にあったのかもしれません。
日本軍はこうして「白骨街道」へと突き進んでいくことになりました。
ここで少し話を戻します。
1897年、イギリス領インドに生まれた「スバス・チャンドラ・ボース」は、父親が弁護士という環境もあってか「インド人の人権」を意識しながら成長していきました。
カルカッタ大学に在学中、イギリス人教師の人種差別に対し学生ストライキが起きたため、ボースはその首謀者として停学処分を受けることもあったようです。
1921年にはマハトマ・ガンディーと共に反英運動に取り組みますが、「インド独立は武力によって生まれる」というボースの考えはガンディーの「非暴力」の考え方と相入れることはありませんでした。
しかしボースとガンディーの相反する考えはインド独立の「両輪」として、それぞれの役割を果たすことになります。
1939年に入ってイギリスとドイツが戦争を始めると、ボースはドイツへ亡命し「枢軸国によるインドへの攻撃」を訴えますが、ドイツもイタリアも相手にしませんでした。
しかし1941年に日本が英米と戦争を始め、マレー半島でイギリス軍を打ち破るとボースは日本軍との接触を試みます。
日本軍占領下のシンガポールではインド独立連盟が設置され、インド国民軍ラース・ビハーリー・ボースが指揮していました。
しかしビハーリー・ボースの体調が悪化していたため、日本軍は後継者を探していたのです。
国内外で知られる独立運動家のチャンドラ・ボースはまさにうってつけの人材であり、双方の熱望によりチャンドラ・ボースはドイツ海軍の協力により潜水艦移動により来日します。
東條英機をはじめ陸軍の上層部はチャンドラ・ボースのインド独立への信念に魅了され、大東亜共栄圏実現に欠かせない人物であると考えるようになり、1943年の大東亜会議にも出席させるほどでした。
ビルマ方面軍司令官河辺中将は、「チャンドラ・ボースを見殺しにしてはいけないという情が、戦略的判断を混濁させた」「チャンドラ・ボースと心中するのだ」と語っており、「インパール作戦」の背景には日本軍の戦略的意図の他に、チャンドラ・ボースの強い要請があった事も忘れてはなりません。
インパール作戦の本質は、「インド独立戦争」だったのです。
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