2021年9月27日月曜日

大東亜戦争48 ビルマの戦い⑦ 拉孟・騰越 阿修羅も目を背ける

 



1942年にビルマに侵攻した日本軍はビルマ・支那国境を超えて雲南省にまで到達していました。

第56師団坂口支隊は拉孟・騰越を占領、以後は怒江をはさんで日支両軍のにらみ合いが続いていました。


連合国の東南アジア方面副最高司令官ジョセフ・スティルウェル中将は、アメリカ式に鍛え直した国民党軍「新編第一軍」を編成し、日本への反撃の機会を伺うのでした。


拉孟は海抜2000mの山上にあり、四季の豊かな日本に似た気候だったそうです。

第56師団はここに強固な防衛陣地を築きますが、1943年以降は徐々に連合国の反攻の機運が高まり、度々攻撃を受けるようになりました。

ここを日本軍が占領している限り、陸路でのビルマ・ルートを再開する事ができないのです。

第56師団は反撃を行いながらも、100日分の弾薬・食糧を収集し、長期戦に備えました。

1300名の守備隊を指揮するのは、部下からの信頼の厚い金光少佐でした。

金光少佐は現場叩き上げで、その誠実さを以って現在の地位にのし上がってきた人物でした。
「厳格だが驕らず、部下を愛し、よく面倒をみた」と同期から評されるほどで
「隊長のためならいつでも死ねる」と口にする者もいたほどですが、49歳の金光少佐はいたって謙虚で「自分は全く至らない人間だよ」とはにかむのでした。


1944年6月2日、ビルマ西部ではインパール作戦が破綻していた頃の時期になります。

アメリカ式の最新兵器を装備した支那国民党軍の精鋭、蒋介石直属の「直系栄誉第一師団」を中心とする大軍が拉孟を包囲しました。

その総戦力差は「45倍」という絶望的なものでした。

敵の一斉砲撃が始まると、その圧力は24時間緩むことはありません。

金光少佐を筆頭に、守備隊みんなで築き上げた防御陣地で耐え凌ぎました。

6月4日、敵軍の歩兵が押し寄せてくると、日本軍はこれに猛射を加えて反撃を開始しました。

激しい戦闘が繰り返され、守備隊は徐々に損耗していきますが、金光少佐は一度も撤退や増援を願いませんでした。

彼が友軍に要求したのはただ一つ「手榴弾」でした。

金光少佐の電信の一文です。

「片目、片足、片腕ある者は全て陣頭に立ちて戦いつつあり。手榴弾の不足を補うため、一部の者は夜陰に抜け出し、敵のしたいからこれを奪いきたれり。情景凄惨、阿修羅も目を背けるばかりなり。」


度々、友軍機による手榴弾など弾薬の物資投下が行われたようですが、撃墜される機も多く、物資も半分ほどは敵に奪われていました。

7月に入ると国民党軍は火炎放射器やロケット砲も導入し、攻撃の手をさらに厳しくしてきましたが、日本軍はこれにも耐え凌ぎます。

7月中旬、第33軍参謀・辻政信が「断作戦」を発令、拉孟・騰越の救援が期待されましたが、ビルマ方面の日本軍には既にそんな余力はなく、結局はただの口約束に過ぎませんでした。

拉孟守備隊の兵力は500名を切っていました。

8月には次々と陣地が陥落、9月6日、最後の陣地を包囲されて金光少佐は迫撃砲弾を大腿部と腹部に受けて壮絶な最期を遂げました。

兵たちに寄り添い続けた慰安婦たちも、最後は兵の手によって処置され、9月7日、日本軍は伝令の木下昌己中尉を除いて全滅します。

木下中尉は、金光少佐の命によって、皆の死に様を伝えるために、兵たちが家族にあてた手紙を何通か持って拉孟を脱出していました。

木下中尉は途中、国民党軍と遭遇しますが、咄嗟に馬糞を食してみじめな姿をさらす事によって敵の戦意をそらしました。

敵に鼻で笑われながらも命広いした木下中尉は18日、第56師団にたどり着きました。

木下中尉の話を聞いた者は皆、その壮絶な戦いぶりに涙を禁じ得なかったと言います。



結局、支那国民党軍は、1300名の拉孟守備隊の45倍の戦力を持ちながら、4000名もの戦死者を出しました。

これだけの戦力差でありながらも100日間持ちこたえた戦いは、世界史上に例がなく、日本軍と戦った李密少将は

「私は軍人としてこのような勇敢な相手と戦えて幸せだった。おそらく世界のどこにもこれだけ雄々しく、美しく散った軍隊はないだろう」

と語り、さらに蒋介石は

「日本の軍人精神は東洋民族の誇りである。模範とせよ」

と訓示しました。


騰越は拉孟から北東60キロの地点にあります。

ここは高さ5m、幅2m、周囲4kmにもわたる城壁に囲まれた人口4万人の城郭都市で、周囲を高地に囲まれていました。

北に高良山、北東に飛鳳山、南方に来鳳山、西方に宝鳳山があり、これらの高地からは騰越の城内が丸見えになってしまうため、周囲の高地も含めて防衛をしなければなりませんでした。

少なく見積もっても7000名の兵力が必要とされましたが、実際の兵力は2000名しかいません。

騰越守備隊は、第56師団歩兵第148連隊であり、連隊長は倉重康美(くらしげやすよし)大佐です。

6月27日、5万の兵力と率いて支那国民党の雲南遠征軍が来鳳山へ攻撃を開始、29日には高良山の攻防戦も開始されました。

雲南遠征軍は完全に騰越を包囲、守備隊の退路は遮断されました。


7月20日には騰越城への総攻撃が開始され、猛烈な砲撃が加えらます。

しかし守備隊は壮絶な白兵戦を繰り広げ、その度に敵を撃退していきました。

しかし敵機の爆撃などにより陣地は徐々に崩壊、戦線を縮小させていきながら日本軍は持久戦を展開します。

8月9日には雲南遠征軍は5000名の兵力で突撃を行いますが守備隊はこれを退けます。

この時点で騰越守備隊は820名を失っていました。

8月12日に雲南遠征軍は遂に城壁を登りきり、一角を占領しますが、日本軍は夜襲を行い再び撃退に成功します。

8月14日、19日と繰り返し総攻撃が行われますが、騰越守備隊はいずれも耐え凌ぎました。

しかし21日にもなると、騰越城内の三分の一は占拠され、守備隊の残存兵力も640名となりました。

雲南遠征軍の攻撃は日増しに激しくなっていき、9月5日に最後の総攻撃が行われます。

9月7日、守備隊はわずか70名となり追い詰められます。

そして13日、重傷者3名を除いて全員が敵陣地に突撃を行い、全員が戦死しました。

雲南遠征軍の戦死者は9000名を越えていました。



拉孟・騰越の戦いの結果、国民党軍は怒江対岸に進出する事になりますが、ビルマの連合国軍と合流するのは1945年の事になります。

日本軍は「断作戦」を決行し、拉孟・騰越を失った後も龍陵などで会戦を行い、国民党軍の南下を防いでいたのです。

しかしそれも1945年の1月末に力尽きたのでした。



2021年9月26日日曜日

大東亜戦争47 ビルマの戦い⑥死地への行進

 


1944年3月5日、日本軍第15軍の三個師団(15、31、33)はインパール作戦を開始します。

この作戦には祖国の独立を目指す6000名のインド国民軍も参加しています。

第31師団はコヒマを、15、33師団はインパールを目指しました。


序盤の進軍は順調でしたが、これは連合軍の作戦であり、兵站の伸びきった日本軍をインパールで一気に叩こうというものでした。

第15軍司令官・牟田口中将が考えた牛、ヤギ、ヒツジなどに荷物を運ばせ、必要な時は食べてしまおうという「ジンギスカン作戦」も虚しく、半数の家畜がチンドウィン川で流され、さらに険しい地形やジャングルに耐えきれずに家畜は次々と脱落していきました。

また、家畜を引き連れてぞろぞろ歩く日本軍は空襲の格好の標的となり、牛たちは物資を乗せたまま散り散りに逃げ去ってしまうのでした。

こうして日本軍は本格的な戦いが始まる前に食料・弾薬の大半を失ってしまい、各師団ともに補給を求めますが第15軍司令部は「補給は送るから進撃せよ」「食料は敵から奪え」と指示する有様でした。



連合軍の円筒陣地は、日本軍得意の夜襲も寄せ付けない堅牢さで、軽装備の日本軍には為す術もありませんでしたが、イギリス軍輸送機が円筒陣地に投下した物資が時々逸れて落下したものを拾うことができたため、「チャーチル給与」とよばれたこの物資で日本兵たちは飢えをしのぎました。



第15師団は4月7日インパール北方15kmのカングラトンビに、第33師団はインパール南方15kmのレッドヒルに到達します。

しかし雨季が始まり補給線が途絶え、イギリス軍の激しい反撃が始まると、戦死者・餓死者が大量に発生して日本軍は著しく損耗していきました。

武器弾薬も尽き果て、石を投げて戦う兵士も出て来る状態にも関わらず、牟田口中将は4月29日の天長節までにインパールを攻略することにこだわり、作戦続行を命令しました。

第31師団を待ち構えていたイギリス軍は、「一個連隊程度しか山を越えて来るのは不可能」と甘く見ていたため、一個師団まるごとやってきた第31師団の急襲を防ぎきれず、4月5日、日本軍にインパール北方コヒマの占領を許していました。

しかしコヒマの占領はインパールの孤立を意味するため、連合軍は一旦後退して反撃を加えてきます。

これが大激戦となり、イギリス総督の別荘地があった場所では特に激しい戦闘が繰り広げられたため、この戦いは「テニスコートの戦い」と呼ばれる事になりました。


コヒマは奪回され、作戦継続困難と判断した第31師団長・佐藤幸徳中将は、6月1日、牟田口の命令に背いて撤退を開始します。

これは日本陸軍初の抗命事件となり、後に佐藤中将は師団長を更迭される事になりました。
しかしこの「死刑も覚悟した」判断により、結果として多くの将兵の命が救われたのです。

また、第33師団長、第15師団長も、インパール作戦中止の進言を行ったことにより牟田口中将の逆鱗に触れ、共に師団長を更迭されてしまいました。

牟田口中将はインパール作戦中に配下の師団長三人を全員クビにしたのです。
佐藤師団長


インパールを目指す日本軍が苦戦をしていた頃、ビルマ北部のミイトキーナでは、日本軍はアメリカ・支那国民党連合軍の強襲を受けていました。

日本軍はビルマ戦線において既に防戦一方の劣勢であり、大兵力を割いてインパールを攻略する暇などなかったのです。

ミイトキーナを守備する700名の部隊は坑道を利用したゲリラ戦を展開しますが、物量差に押されて徐々に劣勢になり、8月には2100名の戦死者を出してミイトキーナは制圧されてしまいました。





6月に入ると、ビルマと支那雲南省の国境付近にある拉孟・騰越でも戦闘が始まり、ビルマ戦線は混沌としてきます。

そんな中、6月5日にはビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が牟田口中将を訪問し対談を行いした。

二人とも、心の中ではインパール作戦は失敗だったと4月中に気づいていたのですが、それを言い出したら自分が責任を負わないといけなくなるので、互いに作戦中止を言い出せずに対談は終わってしまうのでした。

牟田口は後に「顔色を察してもらいたかった」と語っています。

上層部がグダグダやっている間にも、食料と弾薬の尽きた前線の日本兵たちはマラリアや飢餓でバタバタ斃れていくのでした。

インパールへ投入した8万6千の兵たちが1万2千にも減っていた7月3日、ようやく正式に作戦中止が決定されました。

退却戦はまさに「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨で、飯盒を片手に杖をついて歩く日本兵たちに戦う力は残されておらず、イギリス軍の掃討にあい次々と脱落していきます。

イギリス軍は生死を問わず、動けなくなった日本兵たちを並べてガソリンをかけて焼却しました。

歩兵第58連隊を率いる宮崎繁三郎少将は、この退却戦の最後方を引き受け、巧みな戦術でイギリス軍の追撃を抑え込み、日本兵たちに退却する時間を与えると同時に、負傷者たちを収容し多くの命を救いました。



8月12日、大本営はコヒマ、インパールからの撤退を発表し、8月30日には牟田口中将、河辺中将はともに司令官を解任されました。

日本軍の戦死者は26000名、戦病者は30000人以上にものぼりました。

この作戦の失敗により、ビルマ戦線は崩壊し、日本軍はなし崩し的にビルマにおける支配力を失陥していく事になるのでした。







2021年9月2日木曜日

大東亜戦争46 ビルマの戦い⑤白骨街道の果てに


 1942年、ビルマ攻略が予想以上の速さで完了した日本軍は、インド北東部のインパールを攻略する作戦を立てます。

インパルにはイギリス軍の前線基地があるため、ここを叩けば支那への補給も断ち切れ、国民党軍を弱体化できると考えたのです。

しかしこの「二十一号作戦」に反対したのは、後にインパール作戦の指揮官を務める「牟田口廉也」中将でした。

インパールへの道は2000m級のアラカン山脈を越えねばならず、雨季になると泥水で山の斜面は身動きが取れなくなり、河川が氾濫するのです。

さらに、人口希薄地域ということもあって、現地住民からの徴発により食料を賄うことも困難であると予想されました。

11月下旬、大本営は二十一号作戦の保留を命じます。

1943年に入って連合軍の反攻作戦が進むと、太平洋方面での戦況悪化に伴いビルマ方面から航空戦力が転出され、ビルマでの防衛能力が低下してしまいます。

日本軍は防衛体制を一新すべくビルマ方面軍を創設し、その隷下の第15軍司令官に牟田口中将を任命します。

この人事異動に伴い、ビルマの現地情報に詳しい要因が司令官の牟田口と参謀の橋本中佐だけになってしまい、皆が司令官のビルマ現地での経験に頼らざるを得なくなってしまいました。

牟田口中将はかつては二十一号作戦などの積極的な攻勢には反対していたのですが、活発化する連合国軍の反撃を目の当たりにして防衛線が突破されることを恐れはじめます。

そこで、広範囲な防衛線築くよりはインパールを攻略しインドへ侵攻することでインドの独立運動を促し、早期の戦争終結につなるのではないかと考えました。

二十一号作戦に反対して第15軍の士気を下げたことや盧溝橋事件に関与していた事などの個人的な責任感が、牟田口中将の方針を積極攻勢へ一変させた要因と言われています。

牟田口中将は、敵の反撃を防ぐために雨季入り直前に奇襲をかける「弐号作戦」を提唱しましたが、小畑参謀長の反対にあい、この作戦案は消滅してしまいます。

1943年5月、南方軍司令部の軍司令官会合で、牟田口中将はインパール攻略、アッサム地方への侵攻を力説し、ビルマ方面軍司令官であり、牟田口の上官となる河辺正三中将もこれに同意します。

結局この意見が認可され、1944年1月にはインパール侵攻への実施が発令されました。

戦況を打開したいという焦りが南方軍総司令官「寺内寿一」元帥の頭にあったのかもしれません。

日本軍はこうして「白骨街道」へと突き進んでいくことになりました。



ここで少し話を戻します。

1897年、イギリス領インドに生まれた「スバス・チャンドラ・ボース」は、父親が弁護士という環境もあってか「インド人の人権」を意識しながら成長していきました。

カルカッタ大学に在学中、イギリス人教師の人種差別に対し学生ストライキが起きたため、ボースはその首謀者として停学処分を受けることもあったようです。

1921年にはマハトマ・ガンディーと共に反英運動に取り組みますが、「インド独立は武力によって生まれる」というボースの考えはガンディーの「非暴力」の考え方と相入れることはありませんでした。

しかしボースとガンディーの相反する考えはインド独立の「両輪」として、それぞれの役割を果たすことになります。

1939年に入ってイギリスとドイツが戦争を始めると、ボースはドイツへ亡命し「枢軸国によるインドへの攻撃」を訴えますが、ドイツもイタリアも相手にしませんでした。



しかし1941年に日本が英米と戦争を始め、マレー半島でイギリス軍を打ち破るとボースは日本軍との接触を試みます。

日本軍占領下のシンガポールではインド独立連盟が設置され、インド国民軍ラース・ビハーリー・ボースが指揮していました。

しかしビハーリー・ボースの体調が悪化していたため、日本軍は後継者を探していたのです。

国内外で知られる独立運動家のチャンドラ・ボースはまさにうってつけの人材であり、双方の熱望によりチャンドラ・ボースはドイツ海軍の協力により潜水艦移動により来日します。

東條英機をはじめ陸軍の上層部はチャンドラ・ボースのインド独立への信念に魅了され、大東亜共栄圏実現に欠かせない人物であると考えるようになり、1943年の大東亜会議にも出席させるほどでした。

ビルマ方面軍司令官河辺中将は、「チャンドラ・ボースを見殺しにしてはいけないという情が、戦略的判断を混濁させた」「チャンドラ・ボースと心中するのだ」と語っており、「インパール作戦」の背景には日本軍の戦略的意図の他に、チャンドラ・ボースの強い要請があった事も忘れてはなりません。

インパール作戦の本質は、「インド独立戦争」だったのです。