1944年10月から始まったレイテ島の戦いによってレイテ島を奪還したアメリカ軍は、続いてルソン島を攻略するための支援基地として、まずはミンドロ島攻略を計画しました。
レイテ島の飛行場は条件が悪く、ミンドロ島には飛行場建設に適した土地があったのです。
1944年12月13日、米軍の上陸船団と支援艦隊がミンドロ島へ向けて航行していました。
そこへ26機の神風特攻隊が来襲し、米軍の軽巡洋艦ナッシュビルが大破、133人が戦死します。
しかし日本軍はこの艦隊をミンドロ島上陸部隊とは認識しておらず、その隙をついて米軍は15日にミンドロ島上陸を開始しました。
日本軍は直ちに12機の特攻隊を送り込み、2隻の戦車揚陸艦を撃沈させますが、ミンドロ島の主要地域は48時間で占領され、米軍は早速飛行場の建設に取り掛かります。
日本軍は圧倒的な戦力差の前に、戦闘を回避する事しかできませんでした。
ミンドロ島に上陸した米軍を攻撃するため、日本海軍の木村昌福少将は、機動性を重視した駆逐艦を主体とした艦隊を組み、12月24日に全艦をインドシナのカムラン湾から出撃させます。(礼号作戦)
26日20時45分、月の明るい夜だったためこの艦隊は上空から丸見えで、120機の米軍機の攻撃にさらされる事になりました。
爆弾が直撃して沈みいく駆逐艦「清霜」を残したまま、駆逐艦隊はマンガリン湾へ突入し、砲撃を開始します。
マンガリン湾へ停泊する米軍の輸送船を撃沈させ、物資集積所を破壊した後にすぐさま撤退し、沈没した清霜の救助活動を行い、乗員342名中258名を救出し、無事にカムラン湾へ帰投しました。
この礼号作戦は、「日本海軍最後の勝利」となったのです。
ミンドロ島に米軍の飛行場が完成してしまうと、フィリピン周辺空域の制空権は完全に米軍のものになってしまいます。
これを阻止すべく、なんとか戦力を抽出した第8師団17連隊の113名が斬り込み隊としてルソン島を出発、1945年1月5日にミンドロ島へ上陸しましたが、米軍との交戦になり撤収、15日に再上陸を行い、サンホセ飛行場付近にまで迫りましたが、最終的には壊滅してしまいました。
その後、ミンドロ島の飛行場は運用が開始され、フィリピンの制空権は米軍の手に渡りました。
1945年1月9日、米軍の6個師団など17万5千人がルソン島リンガエン湾への上陸を開始します。
日本軍は夜襲をかけて抵抗し戦果を挙げます。
95式軽戦車、97式中戦車から編成された60両あまりの戦車第二師団は、米軍のM3軽戦車、M4中戦車と激しい戦車戦を繰り広げました。
双方合わせて100両を超える大規模な戦いは米軍の圧勝に終わります。
日本軍の戦車は、米軍の戦車の装甲を打ち抜くことができず、待ち伏せして至近距離から側方を狙い、3両を撃破する事が精一杯でした。
2月なかばに戦車が全滅した日本軍は、物資を山中に運び込んで持久戦の構えをとりました。
米軍は首都・マニラ奪還を最優先しており、2月3日にはマニラへの突入を行い激しい市街戦を展開しました。
日本軍の総攻撃は撃退され、3月3日にはマニラは陥落します。
日本軍の死者は1万2千人、米軍は千人でした。
マニラ市民も10万人が犠牲となり、マニラは廃墟と化してしまいました。
マニラ市街からマニラ湾をはさんだコレヒドール島やバターン半島でも戦闘が起こり、コレヒドール島守備隊は特攻艇「震洋」を36隻出撃させますが、その戦果は敵の上陸支援艇を3隻撃破するにとどまりました。
バターン地区の日本軍は制圧され、マニラ港は連合軍の兵站拠点として使用されることになります。
日本軍の総大将、山下奉文将軍はマニラ市をオープンシティ(非武装都市)にし、20万の軍隊を市街地から退去させてルソン島の内陸部に立てこもらせていました。
米軍との戦闘が間近に迫る中、マニラ市民を避難させる時間がなかったため、マニラ市民を犠牲にしないための配慮でした。
しかし大本営や、海軍陸戦隊「マニラ海軍防衛(マ海防)」はマニラ市に固執し、海軍一万人、陸軍4千人が山下の命令に背いて市街戦の体制を整えてしまいます。
マニラには70万人の市民が残っており、数千名がゲリラとして米軍側について戦ったため、日本軍はゲリラの疑いのある市民を殺さねばならなくなりました。
その他、戦闘の巻添えになったりして、結果的には10万人の市民が死亡してしまう事になったのです。
この事は「マニラ虐殺」と名付けられ、日本軍の戦争責任が問われました。
しかし市民の犠牲者の半数は、米軍の砲撃により死亡したものでした。
米軍はマニラ市街地を市民もろとも砲撃によって壊滅させていたのです。
ルソン島を守っていた日本軍は、部隊を三つに分けていました。
ルソン島北部を守る「尚武集団」、ルソン島南部のマニラ北東を守るのが「振武集団」マニラ北西が「建武集団」となっています。
米軍はルソン島南部の振武集団に対し、激しい砲撃と戦車によって徐々に包囲を狭めていきました。
日本軍も総攻撃をかけて反撃しますが、3月中旬には第一線陣地を放棄しなければならない程追い込まれてしまいます。
その後、第二線に退き抵抗を続けた日本軍でしたが、6月には組織的な戦闘も不可能になり、その後は高山地帯へ分散した小部隊による持久戦が展開され、そのまま終戦を迎えることになります。
振武集団10万5千人のうち、戦死者は6万人、マラリアによる病死や餓死は一万5千人にものぼりました。
ルソン島北部の「尚武集団」はフィリピン守備隊の主力で、15万の兵力を擁していました。
山岳地帯の日本軍は、米軍の侵攻を何度も食い止めましたが、最終的には突破されてしまい、山下奉文大将はホセ・ラウレル大統領を日本本土へ脱出させます。
4月26日、バギオが陥落し、日本軍司令部はカガヤン渓谷へ移りました。
その後も一進一退の激戦を繰り広げるも、6月1日にはカガヤン峠の日本軍も撤退を開始します。
尚武集団は南北から挟撃を受け、実働兵力は20%に低下し、事実上壊滅しました。
補給の途絶えた日本軍はジャングルを彷徨い、餓死者が続出、さらにマラリアや赤痢にかかったり、抗日ゲリラに襲われたりして死んでいきました。
日本軍はすでに戦争ができる状態ではなくなっていたのです。
フィリピン全島奪還はマッカーサーの悲願でした。
1942年に無様にフィリピンから脱出して逃げ去ったマッカーサーには、「I Shall Return」を実現させるストーリーが必要だったのです。
そのため、レイテ島、ルソン島以外の島でも激しい戦闘が行われました。
ミンダナオ島には4万3千人の日本兵が残されていましたが、米軍は地元の抗日ゲリラと手を組んで共同作戦を行い、日本軍を撃破していきました。日本兵は6月には山中に逃げ込み、自活態勢に入りましたが、やはりここでも飢えや感染症、ゲリラの手によって斃れていくのでした。
日本軍の戦死、戦病死者は2万5千人でした。
パラワン島、パナイ島、セブ島、ボホール島に配備されていた日本軍は米軍に対抗できるような戦力ではありませんでしたが、ビサヤ諸島の中心拠点となるセブ島には、整備員や病院職員、憲兵などから成る後方部隊や、レイテ島から逃げてきた傷病兵たちの部隊もありました。
セブ島では上陸してきた米軍に激しく抵抗し、米軍はわずかながらも損害を出します。
6月に主要拠点の制圧を終えた米軍は、以降は現地人によるゲリラ部隊を使って日本兵を掃討していきました。
米軍はスールー諸島やボルネオ島にも上陸し、日本軍守備隊を駆逐していきます。
生き残った兵たちは例外なく飢餓や感染症、ゲリラの襲撃などに悩まされました。
レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅し、フィリピン全島に50万人の日本兵が残された結果、43万人が死亡したことになります。
日本はインドネシアの油田を確保していたのですが、フィリピンの陥落によってシーレーンが断絶され、燃料の供給が絶たれてしまいました。
日本政府は「戦争の勝敗」よりも、「どうやって講和に持ち込むか」を模索し始めることになります。
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