首里防衛線の東端の「運玉森地区」、首里を目前とした最後の要衝「石嶺高地」などの戦闘も5月中旬には大勢を決し、日本軍はいよいよ第32軍司令部がある首里に迫られてしまいます。
幸いなことに20日から天候不順が続き、道路状況の悪い沖縄では自動車や戦車の移動、航空機の活動が制限され、米軍の第一線への補給が停滞する事になりました。
これによって日本軍は陣地の再構築や戦力の補充を行うことができ、司令部が首里から撤退するためのルートを確保することができたのです。
5月21日、第32軍高級参謀、八原大佐は参謀達を集めて今後の方針を協議します。
元々、首里陣地で最後の決戦を行う予定だったのですが、残存兵力を配備しても米軍の砲爆撃の餌食になるのは明らかでした。
首里よりさらに南方の喜屋武半島は、海方面は30〜40mの断崖に囲まれていて、豊富な洞窟が存在しており防御に優れていました。
さらに第24師団の軍需品も集積されていることから、日本軍は首里を撤退して南下し、さらなる持久戦に持ち込むことを決定しました。
5月28日、首里地区の空はようやく快晴になります。
5月29日、米軍は西側から首里城へ侵入します。
日本軍の配備の隙を縫っての攻撃となりましたが、首里陣地の日本軍はわずかな残置部隊を残すのみで撤退していたため、ついに首里城は米軍の手に堕ちました。
5月30日、牛島長官らは摩文仁に新しい司令部を置きます。
この日米軍はようやく「日本軍の残地部隊は戦線を固守し外郭を維持しているが、部隊の主力は別の場所にいる」と気づくのでした。
日本軍南部防衛線へ米軍が全面攻撃を仕掛けてきたのは6月5日のことです。
日本軍は数こそ3万名いましたが、大半が整備・電信・設営などの支援部隊や現地召集の親衛隊であり、実質的な戦力は11000名に過ぎませんでした。
米軍の猛攻に対し、日本軍は戦力不足ながらもよく戦いますが戦線は徐々に崩壊していきます。
14日にもなると全滅する部隊も出始めて日本軍の戦線は破綻、17日には主要戦線を突破されてしまいます。
18日、米軍の沖縄方面最高指揮官であるサイモン・B・バックナー中将はこの日、前線を視察します。
日本兵たちはバックナー中将を識別しており、彼が来ると砲撃が激しくなるため現地の米兵達からは歓迎されなかったそうです。
結局、この砲撃によってバックナー中将は戦死してしまい、第二次世界大戦の米軍における最高位の戦死者となってしまいました。
※写真の右側に立っているのがバックナー中将、この直後にこの場所で砲撃を受けて亡くなります。
敵の司令官を戦死させたものの、後任にはジョセフ・スティルウェルが着任し戦況にはなんら影響を与えません。
19日、日本軍は摩文仁周辺のわずかな地域に閉じ込められて、組織的な戦闘は遂に終了、その後は掃討戦になっていきます。
6月23日、沖縄守備軍最高指揮官の牛島満と参謀長の長勇が摩文仁司令部で自決しました。
牛島中将は腹を搔き切る前に辞世の句を二首読み上げています。
「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り魂還りつつ 皇国守らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」
米軍は7月2日に沖縄作戦の終了を宣告しました。
これまで、地上での沖縄戦について書いてきましたが、「空の戦い」についても書かないわけにはいきません。
陸海軍の全機体を用いた「全軍特攻」を決定していた日本軍は、沖縄に襲来する米軍に対して特攻攻撃を仕掛ける「菊水作戦」を展開します。
この作戦は第一号から第十号まで行われ、戦艦大和の水上特攻も、この菊水一号作戦に呼応したものでした。
沖縄の海を埋め尽くした1500隻の米軍艦隊は、40日間に渡り特攻攻撃に晒され続ける事になります。
艦上の誰もが寝不足になり、「夜、ぐっすり眠る事」が皆の夢になりました。
ヒステリーを起こしたり錯乱状態に陥る兵士もいたほどで、常に警戒を解く事のできない緊張状態で上官は常にピリピリしていたと言います。
菊水作戦によって、5月17日の時点で米海軍には4702名の死傷者が出ていました。
太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は「もう持ちこたえられない」と弱気な報告を打電します。
日本海軍はすでに壊滅しているのに、なぜ自分達はこれだけの被害を受けているのか、海軍が未知の恐怖と戦っている割に陸軍の進行速度はあまりにも遅く、アメリカの陸軍と海軍との間で対立が起こり、米軍内部に厭戦の気配が漂い始めたのです。
結局、菊水作戦には陸軍機887機、海軍機940機と3067名の命が投入され、その戦果として133機が命中、艦艇36隻を撃沈、主力艦を多数大破させる事ができました。
米軍の損害は死者4907名、戦傷者4824名にものぼりました。
しかし巡洋艦以上の大型艦を撃沈させる事ができず、さらにその命中率の低さから「無駄死にだった」と現在では評価される事が多いようです。
ですが、特攻機による損害が大きいと感じた米軍は、予定していた日本の大都市への無差別爆撃を中止し、九州南部の特攻基地への戦略爆撃へ切り替えなければならなかったのも事実です。
都市部への空襲が延期になれば、その分一人でも多くの女子供が疎開する事ができるのです。
神風特攻隊はその戦果以上に日本国民を生かしたのだとは言えないでしょうか。
命を軽視したこの攻撃方法を賞賛するつもりはありません。
ですが命を投げ打って大切なものを守ろうとした彼らを「愚か」だとか「可哀想」だとはとても思えないのです。
彼らにかける言葉があるのならばただ一つ「ありがとう」です。
「義烈空挺隊」は、いわば「特攻を支援するための特攻」でした。
「空挺」とは「空中挺進」のことであり、空中輸送された陸上部隊、要するに「パラシュート部隊」の事です。
「挺進第一連隊」は、最初に創設された落下傘部隊として大きな期待を寄せられていましたが、輸送船の海難事故や戦況の悪化などにより出番に恵まれる事がなく、エリート部隊として日の目を浴びることがありませんでした。
「空の神兵」として後世に語り継がれ持て囃されたパレンバン降下作戦は「挺進第二連隊」にお株を奪われた結果であり、挺進第一連隊としては心中穏やかならぬものであった事でしょう。
昭和19年、サイパン島が占領されて米軍による日本本土への爆撃が開始されると、日本軍はそれを阻止するために敵基地を攻撃してB-29爆撃機を破壊する必要に迫られます。
しかし空襲を行っても搭乗員を失うばかりでその戦果に見合わず、ならば空挺部隊を降下させて地上で破壊活動を行わさせて敵基地を壊滅させようという案が生まれました。
しかし降下した後の兵員を回収し帰投する事が困難な為、輸送機丸ごと強行着陸させてしまおうという計画に行き着きます。
これが「義烈空挺隊」であり、挺進第一連隊第4中隊によって編成される事になったのです。
義烈空挺隊は遂に沖縄戦で死に場所を与えられる事になります。
米軍に占拠された沖縄の各飛行場を使用不能にし、第32軍の首里から南方への撤退や、菊水七号作戦を援護する事を目的とした強襲着陸作戦が決行されました。
5月24日、義烈空挺隊168名を乗せた12機の97式重爆撃機が陸軍熊本県軍飛行場から出撃しました。
12機の97式重爆撃機のうち、4機が機体の不調で引き返し、沖縄へ向かう事ができたのは8機となりました。
そのうちの6機は沖縄の北飛行場(現在の読谷飛行場)、2機が中飛行場(現在の嘉手納飛行場)へ向かいます。
飛行場にいた米兵達は驚愕しました。
自分たちが占領している飛行場に、日本軍の爆撃機が着陸しようとしているのです。
米軍は直ちに猛烈な対空砲火を浴びせました。
22時11分「ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」の電信が司令部に届き沸き立ちますが、その後次々と撃墜されていきます。
しかし唯一、北飛行場へ最後に突入した1機が砲火をかい潜り、胴体着陸に成功しました。
着陸機からは少なくとも8名の日本兵が飛び出し、闇に紛れて手榴弾、焼夷弾により飛行機7機を破壊炎上、26機に損害を与え、ドラム缶600本7万ガロンのガソリンを炎上させました。
この混乱の中で米兵達はパニックに陥り、四方八方おかまいなにし重火器を乱射する者もあらわれ、数名の米兵が重傷を負います。
義烈空挺隊員達の戦いは2時間超にも及び、翌1時に最後の一人が射殺されて全滅しました。
これによって飛行場は二日間に渡り使用不能に陥ったのですが、天候不良によって日本軍は特攻機を飛ばすことができず、好機を生かす事はできませんでした。
沖縄戦における戦死者は米軍が1万人以上、日本側は実に18万人にも達しました。
県外出身の日本兵は6万5千人、沖縄出身者は11万5千人で、そのうち9万4千人が民間人でした。
当時の沖縄県の人口は49万人だったので「沖縄県の四人に一人」がこの戦いで亡くなった事になります。
民間人死亡者のうち千人は集団自決、千人はスパイ容疑をかけられて日本軍に殺害されたと言われています。
しかしそれを差し引いた9万2千人は米軍による民間人の殺害です。
米軍が作った民間人収容所では飢えと負傷とマラリアで次々と人が死んでいきました。
収容所や占領地域では米兵による暴行・強盗・強姦が多発し、無抵抗の住人を射殺するなどの事件も起こりました。
戦争が終わった後も米兵による強姦は昼夜を問わず行われ続け、その被害にあった女性は1万人を超えると言われています。
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