2019年6月19日水曜日

満州事変6 いい国つくろう満州事変

1931年9月18日午後10時ごろ、満州の都市・奉天近郊の「柳条湖」付近にて、何者かによって満鉄の線路が爆破されました。(柳条湖事件)
事件直後の現場
この事故は「支那軍の仕業である」と発表され、関東軍は事故に驚いて兵営から出てきた支那兵を射殺し、軍事行動に移りました。

「支那軍によって満鉄本線が爆破された為、目下交戦中」

という前線からの電報を受けた関東軍司令官・本庄繁は「戦闘が終わった後は、国民革命軍の武装を解除するくらいだろな〜」などと呑気に考えていたのですが、幕僚達の強硬な意見に押されて関東軍の各部隊に攻撃命令を下し、戦火は拡大する事になります。

関東軍は国民革命軍の兵営「北大営」を制圧し、翌日には奉天、長春など各都市を制圧しました。

北大営
この事態に、日本政府は「事変不拡大」の方針を決定し、幣原外相は武力ではなく外交による解決を目指しますが、それをあざ笑うかのように「林銑十郎(はやし せんじゅうろう)」司令官が率いる朝鮮軍も満州へ進出しはじめました。

25万の張学良軍に対し関東軍は1万5千程度しかなかったので、増援を要請していたのです。

しかし国境を越えて出兵する事は天皇の許可が必要である為、林銑十郎は「天皇大権」を犯したことになり、死刑になっても不思議ではありません。

陸軍は、林司令官の行動が閣議で追求された場合には、陸軍大臣の辞職を検討しており、さらに後任の陸軍大臣の任命を徹底的に妨害するつもりでした。

さらに満州事変は抑圧されていた日本にとって久しぶりの痛快なニュースとして国民を熱狂させ、林銑十郎は「越境将軍」の異名をつけられて新聞などでもてはやされていました。

内閣総辞職にも繋がりかねない陸軍の無言の圧力と、世論の盛り上がりに負けた若槻禮次郎(わかつき れいじろう)首相は、林銑十郎の無断越境を「出兵してしまったものは仕方がない」と容認し、朝鮮軍の満州出兵に対する予算を決定しました。

若槻首相はこの時の事を
「こういう情勢になってみると自分の力で軍部を抑える事はできない」
と語っていたと言われています。

大日本帝国憲法における「統帥権」が陸軍によって踏みにじられ、内閣は軍部を抑える事ができない事が露呈した満州事変は、「立憲政治の終焉」とも言える出来事となってしまいました。
林銑十郎(はやし せんじゅうろう)
さて、関東軍によって奉天を追われた張学良は、錦州に兵力を集結させます。

代わりに奉天には関東軍の司令部が置かれることになり、関東軍は破竹の勢いで次々と各地を占領していきました。

1932年2月には犬養毅首相が錦州の張学良に撤兵を要請し、張学良がこれを受け入れた事によって関東軍は錦州へ入城し、満州全土の制圧に成功します。

この「満州事変」において、日本は関東軍を抑えることのできない「二重政府」だと列強から非難され、日本の信用は地に堕ちることになってしまいました。

実はこの満州事変のきっかけとなった柳条湖事件、当初は支那軍の仕業だと信じられていたのですが、実際は関東軍が事前に計画していた謀略だったという事がわかりました。

そしてその首謀者は「石原莞爾」という関東軍の作戦参謀だと言われています。
石原莞爾
石原莞爾は幼年期から乱暴な性格と優秀な成績を併せ持ち、現在ではしばしば「孤高の天才」と評される事もある人物です。

石原は、支那に居留する日本人を守るためには支那と満州を切り離すしかない、と言う「満州事変」の構想を1928年には既に持っていたようで、1929年には「関東軍満蒙領有構想」を軍に提出しています。

石原のこの考えを支持した高級参謀の「板垣征四郎」は、石原と組んで満州での軍事行動の計画を企画し、綿密に、着実に準備を進めていたのです。
板垣征四郎
「佐官クラス」、会社でいえば「課長クラス」の人間が計画し、1万5千の兵力で25万の敵を打ち破って満州地方を制圧した満州事変は、まさに規格外の事件と言えます。

課長クラスだからこそできたこの壮大な計画は、課長クラスだからこその弱さもありました。

大規模な軍事行動を起こすわけですから、イギリスなどに国際的な根回しをする必要があったはずですが、それをしなかった為に国際的な理解を得る事ができなかったのです。

しかし、そもそも「国際協調」などという言葉は石原莞爾の眼中にはありませんでした。

満州事変の鍵になったのは、石原が独断専行で実行した二つの作戦「柳条湖事件」と「錦州爆撃」です。

錦州爆撃では、奉天から退却した張学良の根拠地である錦州に、偵察の名目で11機の航空機を飛ばして25kg爆弾を75発も投下しました。

爆弾懸吊装置を装備していない偵察機を使用したので、紐で吊るした爆弾を上空で切断して投下するというお粗末な爆撃で、不発弾も相当数あった為に、張学良軍の兵舎にダメージを与えることはできず、むしろ民間人の犠牲者が出てしまいました。
錦州爆撃
この爆撃は軍事戦略的には全く意味のないものでしたが、満州事変における一つのターニングポイントとなりました。

幣原外相が発した事変不拡大方針や、日本の動きに対して妥協した姿勢を見せようとしていた国際連盟をあざ笑うかのような爆撃によって国際世論が悪化し、日本は「引くに引けない」状況に追い込まれたのです。

自らも参加していた錦州爆撃から帰ってきた石原莞爾は、
「爆撃したのは張学良なんかじゃない、国際連盟だ」
と語ったと言われています。

石原莞爾が見据えていたのは、白人至上主義に基づく国際秩序の打倒だったのかも知れません。

話は変わりますが、清の滅亡によて支那王朝最後の皇帝となり、「ラストエンペラー」と呼ばれたのは「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)」です。
愛新覚羅溥儀
溥儀は、皇帝を退位した後も中華民国政府によって優遇され、軟禁状態ではあるものの王宮「紫禁城」で暮らす事を許されていました。

溥儀は関東大震災の時に紫禁城の宝石を義捐金がわりに日本に送った事がきっかけで、日本との親交を持つようになりました。

1924年に政変が起こると皇族は紫禁城から追い出されてしまいます。

皇室の廃止を望む勢力によって死刑に処せられる可能性もあった為、逃げなければ溥儀の命の保証はありませんでした。

溥儀の家庭教師をしていたスコットランド人のジョンストンは、母国イギリスの公使館やオランダの公使館へ助けを求めますが、内政干渉になることを恐れた各国は保護の申し出を断ってしまいます。

そこでジョンストンが頼ったのは、関東大震災で義援金を送ったときに顔見知りになっていた日本の特命全権公使、「芳澤謙吉」でした。
芳澤謙吉
日本は溥儀の受け入れを表明し、天津の日本租界へ移住させます。

天津はイギリスやフランスなど列強国の租界もあった為、中華民国の内戦に巻き込まれることもなく、溥儀は僅かな側近と共に静かに暮らすことができました。

しかし1928年、国民党の軍閥が「清東陵(しんとうりょう)」を荒らす事件が起こります。

清東陵は清朝の歴代皇帝・皇后の墓所であり、特に清朝末期に権力をふるった「西太后」の墓はことごとく荒らされてしまいました。
溥儀は激怒して中華民国政府に抗議しますが聞き入れてもらえず、漢民族に嫌気がさすと同時に、かねてより抱いていた「清朝の復活」という想いを強くしていく事になりました。

その一方で、満州全土を制圧した関東軍は、満州を直接領有したり植民地化するのではなく、日本の影響力を残した新国家の建設を画策していました。

そもそも満州は「清朝」を作った女真族の故郷であり、清朝最後の皇帝だった溥儀は、関東軍の構想する新国家の元首に迎え入れるのにもってこいだったのです。

1931年11月、関東軍の特務機関長「土肥原賢二」は溥儀のもとを訪れました。

「関東軍は満州人が祖国に国家を建設する事を支援するので、溥儀には新国家の指導をお願いしたい」と申し出ると、溥儀の胸は高鳴ります。
土肥原賢二
溥儀は関東軍に連れられて天津を脱出し、翌年の3月1日には国家元首に就任し、満州国の建国が宣言されました。

関東軍は、柳条湖事件からわずか半年で国を作ったのです。
満州国国旗


2019年6月15日土曜日

満州事変5 関東軍の決断

1927年、北伐を進める蒋介石の国民革命軍は上海、南京を占領しましたが、南京に入場した国民革命軍は在留外国人(日本人も含む)に対して暴行・掠奪を働きました。

この「南京事件」の時の外務大臣は「幣原喜重郎」です。

彼は「協調外交」を重んじ、英米の砲艦が南京に報復攻撃を加えている中で「不干渉」を支持し、日本海軍は日本人居留民が襲われているのをただ見ている事しかできませんでした。

「協調外交」とは言うものの、周囲からは国際的な衝突を恐れるあまりに下手に出る「弱腰外交」として捉えられ、それが逆に英米の不信を買ったばかりか、支那人達は日本を甘く見て「侮日感情」が芽生え、連鎖反応的に「漢口事件」などの悲劇を引き起こす結果となりました。
幣原喜重郎
こうした幣原の外交姿勢は「軟弱外交」だと批判されて倒閣の一因となってしまいます。

代わりに1927年4月に発足した田中内閣では、田中義一が首相と外相を兼任し、方針転換がなされる事になりました。

そして6月には支那に対する制作方針を決める「東方会議」が行われます。

支那に住んでいる日本人や、支那における日本の権益を守るためには出兵も辞さない、
という「対支政策綱領」が発表され、諸外国に通知しました。

外国に住む自国民を国が守るのは当然の事であり、通知された国から抗議されることはありませんでした。

このようにして、日本政府は幣原の「協調外交」から、いわゆる「積極外交」へと転換して行く事になるのですが、田中首相は張作霖爆殺事件の事後処理でつまづいてしまい、1929年には総理大臣を辞職してしまいます。
田中義一
田中内閣の後を継いだのは浜口雄幸(はまぐち おさち)を首相とする浜口内閣ですが、浜口首相は大学時代の同級生である幣原喜重郎を再び外相に据えました。
幣原外相の復活
「山東出兵」「張作霖爆殺事件」などによって悪化した支那との関係を、協調外交によって取り戻そうとしたのです。

そんな中、「田中上奏文」という英語で書かれた謎のパンフレットが世界中にばらまかれます。

「上奏文」とは、天皇に渡す文書の事なのですが、これは漢文と英語で書かれた物だけで日本語で書かれたものが存在しない、明らかにインチキな文書でした。
田中上奏文
その内容には「日本が世界征服するためには満州・支那を占領しなければならない」という事が書かれていました。

この文書は支那では大いにプロパガンダとして利用され、アメリカではフランクリン・ルーズベルトがすっかりこれを信じ込んでしまい、日本を潰す決意をしたと言われています。

いつ、誰が作ったのかわからないこの文書を、コミンテルンはロシア語、英語、フランス語、ドイツ語に翻訳して欧米にばら撒き、日本は悪役に仕立て上げられて行きます。

明らかなデマであったため、日本政府は大した対策を取りませんでしたが、後に実際に満州事変が起こった事によって信憑性が高まってしまいました。

1944年に公開されたアメリカの映画「バトル・オブ・チャイナ」では、しっかりと田中上奏文の事が紹介されており、しっかりと日米戦争の戦意高揚に利用されていました。
反日プロパガンダ映画「バトル・オブ・チャイナ」
このように国際的に「悪の侵略国家」に仕立てあげられてしまった日本は、経済面でも窮地に立たされる事になります。

第一次世界大戦が終わった後の1920年代、本土が戦場にならなかったアメリカは世界経済の中心となっており、「永遠の繁栄」と呼ばれる好景気を迎えていました。

交通手段の発達に伴い、住宅産業や自動車工業が活発化し、世界中の人がアメリカの株を買い、アメリカ経済に依存するようになります。

しかし世界大戦から復興したヨーロッパ経済が徐々に持ち直してくると、アメリカで過剰に生産された商品や農作物が売れ残り始めると、工業指標が下がり始めてきます。

そんな中、1929年10月24日、ニューヨークの証券取引で株価が大暴落します。(暗黒の木曜日)

その事を週末に全米の新聞社が大々的に報じると、29日にはさらに株価は大暴落しました。(悲劇の火曜日)

不安になった人々が続々と銀行からお金を引き出した事により銀行が倒産、銀行から融資を得ていた企業・工業も倒産し、連鎖的に悪影響は広がり、自殺者も出ました。

この経済破綻は世界中に広がり、「世界恐慌」の始まりにつながって行きました。

アメリカ史上最悪の悪法と呼ばれる「スムート・ホーリー関税法」というものがあります。

これは世界恐慌真っ只中の1930年に制定されたもので、2万品目もの輸入品に記録的な関税をかけるという滅茶苦茶な法律でした。

この法律に対する報復として諸外国がアメリカからの輸入品にも高関税をかけた為に、世界恐慌がより深刻化してしまう結果を招いてしまいました。

この法律の目的は、自国内の産業を安定化させる為の措置だと言われていますが、実はこの法律が議論されていたのは世界恐慌が始まる前の事ですので、世界恐慌対策などではなかったのです。

1920年代の華やかな経済成長の中で、農業の平均所得は下がり続けており、あらゆる産業が発展して行く中で取り残されていました。

当時、大統領選挙を戦っていたハーバート・フーバー大統領は、農家を守るために輸入農作物に高関税をかけると公約します。

1929年3月に大統領に就任したフーバーは、公約実現の為に議会を開きますが、これに乗じて、農作物以外の自分の利権に関係する企業分野の製品にことごとく関税をかけようと目論む議員がいました。

リード・スムート上院議員(共和党)と、ウィリス・カーリー下院議員(共和党)です。

彼らの提案が通れば世界経済が麻痺するのは必至であり、この法案が下院を通過し、上院で可決されるかどうかの議論の瀬戸際が、10月の大暴落を招いたと言われています。
リード・スムート
フーバー大統領
戦後恐慌や関東大震災のダメージが大きかった日本に追い打ちをかけるように世界恐慌が始まり、日本の経済は危機的状況に追い込まれました。

とりわけ打撃を受けたのが農村です。

アメリカへの生糸の輸出が激減し、朝鮮や台湾からの米の流入によって米が余ってしまった事によって、日本の産業を成り立たせていた「米」と「養蚕」の二本柱が潰れてしまったのです。

東北や長野では女子の身売りが横行し、餓死者が続出し、都市部でも失業者が溢れかえり、人々の所得は激減しました。

株価暴落率50%
失業者数300万人
倒産銀行件数1300件

日本経済は、このままでは軍備維持もままならない状態にまで陥りましたが、排日移民法の為、職を求めてアメリカへ行くことも許されませんでした。

満州の権益を死守する事は、国の死活問題だったのです。


日本を追い込むのは経済状況だけではありませんでした。

1929年、ソ連と奉天軍閥が共同管理していた中東鉄道の利権を奉天派が実力行使で奪回しようとしたため、軍事衝突が起こりました。(中東路事件)

ソ連の指導者スターリンは戦車や航空機を揃えた最新鋭の部隊を満ソ国境に送り込み、張学良率いる10万人の奉天軍を蹴散らし、全ての利権を手にしました。

ソ連軍に捕らえられた数千人の捕虜は川へ流されたと言われています。

この戦いで明らかになった事は、ソ連の満州への領土的野心と、「支那の軍ではソ連を止める事はできない」という事です。

もし満州から日本の影響力が退けば、ソ連は容易に南下することが出来、支那利権を有するイギリスやフランスと必ず衝突する事になるでしょう。

そしてそれは、支那を主戦場とした世界大戦の勃発にも繋がりかねません。
ソ連軍の侵攻経路
塹壕線を挑む張学良軍
さて、元はと言えば満州は、漢民族の立ち入らない不毛の荒野でした。

しかし日露戦争後、日本の手によって産業が起こされて発展し、関東軍が治安を保つと、1904年に1000万人だった人口は1931年には3000万人にも増えました。

内戦続きの中華民国と違って、強い関東軍のいる満州地方は大きな戦闘が起きなかったため、多くの人達が移住してきた結果でした。

見違えるように繁栄した満州は、各国から狙われることになり、日本を排除しようと言う動きも活発になります。

満州王と呼ばれた奉天軍閥の「張作霖」やその跡を継いだ息子の「張学良」は、日本人に土地を貸した者を死刑にし、日本製品には不当な税を掛けました。

満州から日本人を排除しようとする動きは活発になって行き、登校中の児童にも石が投げつけられつ始末で、日本人に対する暴行、異物破損の件数は膨大な数となり、日本人がまともに暮らせるような状況ではなくなってしまいます。

さらに張学良は、日本が権益を保有する満州鉄道に対抗するため、条約を違反して満鉄を包囲するように並行線を敷設し、満鉄に大打撃を与えました。

もちろん奉天軍閥には鉄道を建設する資金があったようには思えません。この「満鉄包囲線」の裏には、アメリカの支援があったと言われています。
満鉄包囲線

そのような状況の中、外交問題に発展する事件が立て続けに起こります。「万宝山事件」と「中村大尉殺害事件」です。

満州と朝鮮の国境には、「間島」という、満州と朝鮮両方が領有を主張する土地があり、そこには多くの朝鮮人が暮らしていました。
間島(かんとう)

1910年の韓国併合以降は多くの朝鮮人が満州へ移住したため、間島の人口は60万人にも膨れ上がります。

しかし、中華思想の名残からか何なのかはわかりませんが、朝鮮人は支那人・満州人から差別される存在で、国境を巡る紛争が絶えず、1928年からの2年間で100件にものぼる紛争がおきていました。

さらに間島には朝鮮人社会主義者たちが共産党パルチザンを組織しており、日本の朝鮮統治に対してしばしば暴動を起こしていました。

この暴動によって一般の朝鮮人は日本が権益を持つ満州の「万宝山」への移住を余儀なくされます。
万宝山に移住した朝鮮人の村落
万宝山に移住した朝鮮人は地主の許可なく用水路を作り始め、これに対し工事中止の要請をした現地支那人が銃を持ち出して実力行使に出ようとした為、支那と日本の両警官隊が出動してその場を納めました。(万宝山事件)

1931年7月に起きたこの「万宝山事件」で、朝鮮人の死者が出たという朝鮮日報の誤報を信じてしまった朝鮮人達は憤慨し、朝鮮半島や日本に住んでいた支那人を襲撃し、100名以上の死者を出す事になりました。
支那人が作った、朝鮮人による支那人襲撃のポスター
これ以降、報復として満州に住む朝鮮人は支那人からの襲撃を受ける事になり、タダでさえ悪化していた満州の治安はさらに不安定になってしまいます。

明らかに朝鮮人による暴挙であった一連の事件なのですが、ご存知の通り、日本による併合下にあった当時の朝鮮人は紛れもなく「日本人」でした。

朝鮮人が巻き起こした火種でも、万宝山事件は日本の責任として捉えられ、日本政府は国家として責任を持って朝鮮人を保護し、問題解決の糸口を探さねばならなかったのです。

話は変わりまして、万宝山事件と同年の1931年の5月、中村震太郎大尉と他3名がソ連に対抗する為の軍用地を調査する為に農業技師と身分を偽り北満州へ向かいました。
中村震太郎
しかしそこは支那が立ち入り禁止を主張していた場所であったため、6月には張学良の軍に逮捕され、所持品を略奪された上で銃殺、遺体は燃やされて山中に埋められました。

関東軍の現役将校が、支那の正規軍によって殺害された事は外交上の重要な事案であるとして日本は抗議しますが、張学良軍は「日本の捏造である」と否定しました。(後に認める事になりますが)

幣原喜重郎外相は、ここでも穏便に事を進めようとしますが、国内世論の怒りは既に頂点に達しており、幣原外相の姿勢を「弱腰」と非難し始めました。

日本政府の姿勢に不満を感じていたのは満州の治安維持を担当する関東軍も同じで、参謀の「石原莞爾」は日本政府の陸軍軍事課長に以下のような内容の書簡を送っています。

・厳重抗議で事が迅速に解決できるという考えは空想に過ぎない
・そんなことが可能なら、数百もの未解決事件が積み重なっている現状もあるはずがない
・中村大尉殺害事件の根本は、日本人が不当に圧迫されている現状にある
・外交交渉が無力だからこんな事になっている
・日本人の居住や営業の妨害、鉄道の乗車禁止などの条約違反が行われている
・軍隊を動員して、支那軍に謝罪をさせ、排日勢力を一掃するしかない
・日本政府の「1年間は穏忍自重して待て」という意向には同意し難い
関東軍参謀・石原莞爾

石原莞爾は、満州に在留する日本人の命、日本の有する正当な権益を守るためには、軍事行動によって満州と支那を切り離すしかないと考えました。

日本国内では失業者が溢れて餓死者も続出、人身売買も横行し、海外へ働き口を求めてもアメリカへの移民は禁止されています。

満州では在留日本人がまともに生活する事もできない程に迫害された状況で、支那は条約を破って日本の権益を侵害し続けていました。

さらに北方では領土的野心をむき出しにしたソ連軍が集結していましたが、関東軍の兵力はわずか1万人しかありません。

そんな中で、日本政府は何も積極的な対策を講じてくれないのです。

日本の進むべき道はそう多くありませんでした。

座して国力を衰退させて死を待つか、大陸を制圧して安全な生活圏を確保するか。

関東軍は決断を迫られました。

2019年6月10日月曜日

満州事変4 張作霖よ何処へ往く

張作霖と息子の張学良
張作霖は遼東半島の海城市の貧しい家に生まれますが、14歳の時に実父を亡くしてからは継父とそりが合わず、家を出て満州地方へ行き、馬賊に身を投じました。

※馬賊とは、盗賊から村人を守る為に組織された騎馬隊の自衛団ですが、しばしば馬賊自身が盗賊として荒らし回る事もありました。
馬賊のイメージ
海城はこの辺り
成長した張作霖はその中で頭目となり、アヘンの密売などを行っていましたが、日露戦争が勃発し満州が戦場になると、張作霖はロシア側のスパイとして活動します。

しかし日本軍に捕らえられてからは、二重スパイとしてロシアの情報を日本へ送るようになりました。

日露戦争は終わりますが、戦場の混乱に巻き込まれた満州地方の行政は混乱状態に陥っていました。

そこで清朝は超爾巽(ちょう じそん)を送り込み、満州統治の安定化を図ります。
超爾巽

超爾巽は馬賊に対し「清朝に帰順すれば政府軍にしてあげるよ」と触れ込み、張作霖はこれに乗りました。

張作霖の下には多くの馬賊が集まり、勢力を伸ばして行きました。

そして満州の治安維持に努め、張作霖は清朝の信頼を勝ち取る事になります。

その頃、日本企業が進出して開発が進められていた満州は急速に発展して行きました。

清朝最大の北洋軍を率いる袁世凱はこれに目をつけ、満州を勢力下におく為に北洋軍の一部を派遣します。
袁世凱「満州ええやん」

これをきっかけに、張作霖と北洋軍の関係は深まっていきました

1911年に武昌起義が起こり、辛亥革命が始まると、各省が蜂起し清朝からの独立を宣言します。

しかし満州地方では張作霖が革命勢力を鎮圧したため、蜂起は成功しませんでした。

つまり、満州では清朝の旧勢力が温存されており、中華民国に帰属していないという事です
清から独立した地域に満州は含まれない
。

張作霖はこの功績によって陸軍師団長にまで出世し、強い影響力を持つようになっていきます。

1916年に袁世凱が死去すると、北洋軍閥は5つの軍閥に分裂する事になりました。

その中で満州の奉天を根拠地にしたのが「奉天派」です。

張作霖は策略によって奉天派を乗っ取り、満州全土を勢力圏に置き、「満州王」と呼ばれるまでになりました。

軍閥割拠
当時、支那では共産主義が浸潤しつつあり、正当な中華民国政府を主張する国民党の背後には、ソ連のコミンテルンの暗躍が見え隠れしていました。

共産主義の蔓延を警戒する日本は、それに対抗しうる奉天派を支援する事になります。

そして清朝時代の権益を維持するため、北洋軍閥の中の一つ「直隷派」をアメリカ・イギリスなどの欧米が支援しました。

「中華民国」と言ってみたはいいものの、他国の介入を許した軍閥割拠の内戦状態であり、近代的な「統一国家」ではない事がおわかりいただけるかと思います。

ここで一つ注釈を加えさせていただくならば、「張作霖を支援していた日本」とは、具体的に「関東軍」の事です。

関東軍とは、日露戦争以降、ポーツマス条約によって日本が租借権を引き継いだ「関東州」に置かれた軍隊の事で、南満州鉄道の附属地域の警備を担っていました。
関東州
張作霖はこの関東軍の支援を受けて、満州から中華民国領内に侵攻、1924年に北京に入り、その後は中華民国北京政府を掌握する事になりました。
そして、自分こそが中華民国の正当な政府だと宣言をするのです。
満州の安定を第一に考えていた関東軍からしてみれば、北京まで進出した張作霖はもはや扱いづらい存在になっていきます。
その頃、ソ連の軍事支援を受けていた蒋介石の国民革命軍は強く、中華民國統一を目指して順調に北伐を進めていました。


国民革命軍が北上するに伴い、1927年には南京事件や漢口事件が起こります。

共産主義の残虐性を恐れた欧米諸国は、もはや弱体化した直隷派よりも張作霖の奉天派を支持するようになり、張作霖も欧米の資本力に魅力を感じ、それに応じました。

奉天派に対する日本の影響力は徐々に薄れていくことになったのです。

共産主義勢力が北京にまで波及する事を恐れた列強国の圧力によって、張作霖は北京にあるソ連公使館の官舎を家宅捜索します。

支那人、ロシア人など80名以上が検挙され、武器や資料が押収されました。

これによって中華民国北京政府とソ連は国交断絶状態となり、ソ連はモンゴルに大兵力を集結させて張作霖に軍事的圧力をかけるようになります。

公使館から押収された資料には、4120名にも及ぶ工作員の名簿や、イギリス・フランス・日本を共産化させる計画も示されており、イギリスはソ連と国交を断絶するに至りました。

ソ連公使館捜索と同時期、国民党の蒋介石は「上海クーデター」を起こして、党内部の共産主義勢力を一掃します。
上海クーデター
共産主義色を一掃した国民党は好意的に受け入れられ、欧米列強は蒋介石を支持するようになり、張作霖から離れて行きました。

さらに日本の田中義一首相は蒋介石と会談し「国民革命軍は満州に攻め込まない」という確約を得ていたので、日本にとって張作霖はあまり利用価値がなくなってしまいました。

これまでソ連、日本、清、欧米列強など次々と支援先を乗り換えてきた張作霖でしたが、ここにきて遂に孤立化してしまったのです。

そして北伐を進める蒋介石の国民革命軍に張作霖は敗北し、北京を去る事になります。

満州へ帰ってくる張作霖に対する日本の評価は、政府と関東軍とで食い違いがありました。

田中義一首相は「張作霖にはまだ利用価値があるので、満州で再起させる」と考えていましたが、関東軍は「軍閥を通して治安を維持するのは困難なのでインフラ整備を施して傀儡政権(満洲国)を立ててから間接統治をすべきであり、そのためには張作霖は邪魔」だと考えていたのです。

それぞれの思惑が渦巻く中で、大きな事件が起こります。

1928年6月4日、満州へ列車で引き返していた張作霖は、奉天郊外で列車が爆発し、両手両足を失って重体となり、その後死亡します。

警察や側近らが17名も死亡する大事故となってしまいました。
当時の満州には数百万人の「匪賊」と呼ばれるテロリストがおり、数年間で100件以上の鉄道爆破事故が起きていたので、今回もそのうちの一つかと思われていました。

しかし爆破に使用されていた電線が日本の監視所まで引き込まれていた事が判明したり、現場で発見され、犯人とみられていた二人の支那人の遺体が、関東軍の参謀・河本大作大佐による偽装工作であった事が判明すると、「事件の主犯は日本側にある」との見解が有力になります。

これを知った張作霖の後を継いだ息子の「張学良」は激怒し、敵対していた蒋介石と和解、中華明国の「青天白日旗」を掲げて服属を示す事で、奉天派は独立を維持する事になりました。

青天白日旗
そして張学良は日本を敵視し、満州における日本の影響力は絶対的に薄まってしまったのです。
張学良
さて、現在において「日本の仕業」として断定されているこの「張作霖爆殺事件」ですが、色々と不審な点があります。

「日本がやった」と思える点としては

・爆破現場から日本の監視所まで点火の為の導線が残されていた
・以前より関東軍参謀の河本大作大佐が「張作霖排除」を主張していた(後に、「自分がやった」という口述記事が文藝春秋に掲載される)
・河本大作は、線路脇の土嚢の土を黄色火薬にすり替えたと証言している。黄色火薬はこの地域では日本しか使っていない
・現地残されていた遺体が関東軍の工作によるもの

などですが、日本単独犯行説に懐疑的な指摘もあります。

・張作霖の位置を把握して爆殺する事は、線路に仕掛けられた爆薬では困難
・線路に仕掛けられた爆薬によるものなら、地面に大穴が開くはずが、列車上部の陸橋のレールが落ちてきて車両上部が大破している。
・つまり、実際に爆発したのは陸橋の脚部か、もしくは列車の天井である可能性が高い
・列車の整備は日本軍の担当では無い
・首謀者とされる河本大作の「線路脇の土嚢に黄色火薬をつめた」という主張と、爆破が起こったと思われる部位が異なる
・陸橋の脚に黄色粉末は見られず、黒煙が立ち上っており、使用火薬は黒色では無いかという指摘もある
・日本と奉天軍閥の共同調査によれば、集められた爆弾の破片がロシア製のものだと判明している

などです。


列車上部が大破
満州に対して領土的野心を抱き、張作霖個人に恨みを抱く存在を考えれば、最も強い動機を持つのはソ連です。

1992年にソ連からイギリスへ亡命したKGB幹部の「ミトロヒン」が持ち出したソ連の極秘資料には、張作霖を爆殺する為の計画と、その実行部隊についての記述がありました。
ワシリー・ミトロヒン
関東軍の張作霖暗殺計画を、内通者を通じて知ったソ連が、それを利用して張作霖を確実に始末し、日本軍単独の事件に見せかけたという解釈はできないでしょうか?

張作霖が死亡した時、息子の張学良は戦闘の前線におり、父親の死を知りませんでした。

しかしなぜか彼は日本軍に気づかれないように変装して奉天へ戻り、そこで部下から張作霖の死を知らされるのです。

その「部下」とは一体誰なのでしょうか?
張学良といえば、後に「西安事件」を起こして共産主義者と内通していた事が明るみになる人物です。

「ソ連公使館捜索事件によって国益を損ねたソ連は、河本大作の計画に乗っかって張作霖に報復し、張作霖不在の間に日本が満州に傀儡政権を作る間を与えない為に張学良に変装させて奉天に戻し、張学良を利用して満州から日本の影響力を排除しようとした。」

そんな筋書きが裏に隠れているのではないかと、私個人の意見として思うのであります。

張作霖爆殺事件の首謀者であったはずの河本大作は、南京軍事裁判や東京裁判などにおいて、なぜか尋問されたことも証人として呼ばれた事もありません。

後に満州事変を調査したリットン調査団は、
「事件の責任は未だ判明しておらず神秘的である」
と結論づけています。

これが当時の正式な国際的な見解だったのです。

さて、張作霖爆殺事件の犯人や責任が誰であれ、その影響は大きいものになりました。

事件についてうやむやにしか上奏できない田中義一首相に対し、昭和天皇に「田中の言う事はちっとも理解できぬ」と言われてしまい、その事を気に病んだ田中首相は内閣を総辞職することになりました。

もともと心臓の悪かった田中義一は、その二ヶ月後に狭心症で死亡しています。

この件は「天皇の発言が政治に影響を及ぼした数少ない案件」の一つであり、昭和天皇はこれ以降、あまり強く意見を言うことがなくなってしまいました。
なりふり構わず支援先を乗り換え、支配地域では重税を課す一方で豪華な私邸に住み、最後は結局「誰から殺されてもおかしくない」状態となってしまった張作霖でしたが、ちょっと憎めない一面も持っていました。
張作霖の官邸兼私邸

張作霖が爆殺される三ヶ月前、福岡の志賀島で、元寇で死んだ蒙古兵の為の塚が作られる事を知った張作霖は、敵の為に供養塔を建てるその精神に感動し、除幕式に祝辞を送っていたのです。

今でも福岡市の志賀島には蒙古塚があり、張作霖が送った言葉が刻まれています。

2019年6月7日金曜日

満州事変3 中華民国という名の「まぼろし」

蒋介石と孫文
1914年、孫文は袁世凱の軍事力の前に歯が立たず、日本へ亡命しました。
抵抗勢力を蹴散らした「袁世凱」が大統領に就任し、「辛亥革命」は結局「清」の代わりに袁世凱の独裁政権が誕生しただけ、という結果に終わってしまったのです。
袁世凱は「中華民国をまとめ上げるには強権を振るうことが必要」と考えていたようですが、当時の国内世論は「議院内閣制」のような分権制を支持していました。
そして1915年、日本からの「21ヶ条の要求」を受け入れると、この姿勢は「弱腰」と受け止められ、袁世凱の威信は地に堕ち、政情はより一層不安定になります。
袁世凱はこの状況を打破するために、中華民国を「共和制」ではなく皇帝が存在する「立憲君主制」にし、これまでのように皇帝を中心に国を一つにまとめ上げる必要があると考えました。
そこで袁世凱は、1916年、自ら皇帝に即位し国号を「中華帝国」に変更します。
これに対する国内外の反発は非常に大きく、各方面から非難を浴びた袁世凱は3カ月足らずで退位を余儀なくされ、失意のまま同年6月に病死しました。
袁世凱
独裁者・袁世凱が死去した後の中華民国に、政府を統一できる人物はいませんでした。
こうして、中華民国は各軍閥による政権争いが勃発し、長い内戦に入る事になります。
中華民国の実権を袁世凱に奪われて日本へ亡命していた「孫文」は、袁世凱が死去した事によって帰国しました。
孫文
「江西派」「雲南派」等の軍閥の支持を受けた孫文は「中華民国広東政府」を樹立し、袁世凱の作った「中華民国北京政府」に対抗します。
しかし軍事政権である広東政府の中において、軍事的基盤を持たない孫文は実権を握ることができなかった為、孫文は海軍に命令してクーデターを図りました。
ところが逆に江西派に追い出されてしまい、孫文は上海へと逃亡する事になります。
孫文に再び活力を与えたのは、「五四運動」によって学生たちの間で広がる抗日愛国運動でした。
五四運動の中で、「帝国主義打倒」「民族自決」の仮面をかぶった共産主義は確実に支那の若者達に浸透していきます。
その中で孫文もまた、共産主義に影響を受けるようになっていきました。
孫文はロシアの「ボリシェビキ」をモデルとした革命政党を目指して「支那国民党」を結成します。
支那での共産主義拡大を狙うコミンテルンは孫文と接触し、支那国民党はコミンテルンから「ミハイル・ボロディン」を政治顧問として迎え入れました。
ボロディン
そして1921年には、コミンテルン主導のもとで「支那共産党」が設立されます。
国民党と共産党、実はこの二つの党はコミンテルンを母親とした「異母兄弟」のような関係なのです。
コミンテルンは、まずは支那での共産主義勢力の拡大を目論みます。
出来立てホヤホヤで党員もわずかしかいない共産党に対し、国民党は10万人以上の党員がいました。
支那共産党を指導していたソ連の外交官「アドリフ・ヨッフェ」は孫文に接触し、「孫文=ヨッフェ共同宣言」を発表します。
ヨッフェ
この共同宣言の内容は、「ソ連は中華民国の統一を応援するよ!!」「ソ連に侵略の意図はないよ!!」「別に共産主義にならなくてもいいよ!」という、孫文にとっては非常に都合の良いものでした。
ソ連からしてみれば、支那の共産主義化にはまだまだ時間がかかると見て、まずは孫文を支援して民族自決運動を推進させようとしたのでしょう。
何はともあれ、孫文はどんどんソ連に傾倒していき、1924年に「国共合作」を打ち出しました。
国共合作とは、「共産党に籍を置いたまま、国民党に入党できる」というものです。
国民党に入り込んだ共産党員は、じわじわと国民党を侵食していく事になります。
まさに「庇を貸して母屋を取られる」という諺がピッタリなこの国共合作ですが、これを孫文に進言したのは、コミンテルンの工作員、ボロディンでした。
1925年、癌に侵されていた孫文は「革命なお未だ成功せず」の言葉を残して死去してしまいました。
国民党内では孫文の死後、権力争いが起こります。
幹部の暗殺や、国民党内部の「容共派」と「反共派」による対立もありました。
同年、上海にある日系企業の工場で、支那人労働者が待遇の改善を求めて暴動を起こします。
工場側がこれを鎮圧した際、共産党員であった労働者が射殺されて他にも重軽傷者が多数出てしまいます。
この事件をきっかけとして5月30日には大規模なデモが発生しましたが、日本やイギリスなど各国は、租界を守るために強硬に対処し、多数の逮捕者と死傷者が出ました。(5・30事件)
五・三◯事件
この事件により、帝国主義に反発する民族主義の意識は支那全土で高揚し、国民党を後押ししました。
国民党は「汪兆銘」を主席に据えて「広東国民政府」を樹立します。汪兆銘は容共派であり、広東国民政府には「毛沢東」など共産党のメンバーも参加していました。
汪兆銘
そんな中、国民党を揺るがす事件が起こります。
「中山艦事件」です。
1926年、共産党員が艦長を務める国民革命党の軍艦「中山」が、広州の軍官学校の沖合に現れ、戦闘態勢に入ったのです。
この軍官学校の校長は、「反共派」の「蒋介石」でした。
蒋介石は国民党内に蔓延していく共産主義に危機感を募らせており、容共派と対立していました。
蒋介石は、この中山艦の動きを、「共産党員たちが自分を拉致しようとしている」と解釈し、直ちに中山艦の艦長を捕え、党内の共産主義勢力を処罰しました。
この事件は国民党内部の容共派に圧力をかける事になり、共産主義勢力が支持基盤であった汪兆銘は激しく動揺し、フランスへ逃亡します。
蒋介石
こうして国民党は「反共」に傾き、軍の総監であった蒋介石が実権を握る事になりました。
総司令官に就任した蒋介石は、「北伐」を宣言します。
これは亡き孫文の悲願でもあり、敵対勢力を撃破しながら北上し、北京政府の打倒を果たして中華民国の統一を目指すものでした。
「国共合作」によってソ連の支援を受けていた国民革命軍は強く、急速に各地の軍閥を蹴散らして北上して行きます。
北伐
これに伴い、1927年に入ると国民党は、政府を広州から武漢へ移す事にしました。
党内の反共派は蒋介石と共に北伐に同行していた為、この隙を狙って容共派の党員達はボロディンと結託し、蒋介石の権力を剥奪しようと企みます。
彼らは予定されていた遷都よりも一足早く武漢へ入城し、容共派を中心とした「武漢国民政府」を宣言し、汪兆銘をフランスから呼び戻しました。
国民党を共産主義者達に乗っ取られた蒋介石は、共産主義に対して徹底抗戦することを表明します。
そんな中、支那に住む日本人居留民が犠牲になる事件が立て続けに起こってしまいます。
1927年3月、北伐中の国民革命軍は上海と南京を占領しました。
南京への国民革命軍の入城は、最初は平和的に行われていましたが、次第に兵士たちが外国領事館や外国人居留地を襲撃し始め、暴行、略奪、破壊行為を行うようになります。
その結果、日本、アメリカ、デンマーク、イタリア、イギリスなど各国の居留民に死傷者が出ます。
日本人婦女は子供に至るまで強姦されましたが、日本領事館には警備兵が10名しかおらず、助けを乞われても見捨てるしかありませんでした。
アメリカ軍とイギリス軍は報復として南京へ艦砲射撃を行いますが、日本の外務大臣「幣原喜重郎」は、事を荒立てれば共産主義者に利するのみだと考え、一貫して不干渉の姿勢を保ちアメリカやイギリスを説得しました。
しかしこのような日本の無抵抗姿勢は諸外国の信頼を失う事になり、嘲笑されてしまいます。
支那人は日本人を甘く見るようになり、「侮日感情」が高まる事になりました。
この「南京事件」から10日後、南京の西方にある都市「漢口」で、日本人水兵2人が歩いていると子供に石を投げつけられて口論になりました。
日本人は完全に舐められてしまったのです。
この口論がきっかけで支那人達は暴徒化し、日本人が経営する商店を破壊し、日本人居留民は暴行を受け、次々と殺されていきました。(漢口事件)
もはや漢口は日本人が住める街ではなくなってしまい、日本人居留民の大多数が帰国を余儀無くされてしまいました。
実は「南京事件」「漢口事件」の糸を引いていたのは、共産主義者達でした。
国民革命軍の内部に入り込んだ共産党分子が騒動を起こす事によって、蒋介石を失脚させようとしたのです。
共産主義者達の残虐性を目の当たりにした蒋介石は、北伐を中断して上海の共産主義者数千名を粛清しました。(上海クーデター)
上海クーデター
これに呼応して各地で共産主義者の粛清が始まり、共産主義勢力が薄まった武漢国民政府ではボロディンをはじめとするソ連顧問団が罷免され、国共合作は終了する事になります。
蒋介石は「南京国民政府」を立ち上げ、共産主義者達を排除した武漢国民政府と合流、蒋介石は再び国民党を一つにまとめ上げ、北伐を再開する事になります。
国民革命軍の北伐再開を知った日本は、自国民を守れなかった「南京事件」「漢口事件」の反省を踏まえ、居留民の保護、治安の維持を名目として、山東省の済南に3500名の日本兵を集結させます。
日本軍は守備区域を設定し居留民を保護し、その中に支那人兵を入れないようにして治安を維持しました。
1928年の5月1日、済南は国民革命軍によって陥落します。
すると翌日、蒋介石から「治安は我々が確保するので、日本軍は防御を解いてほしい」という要望があり、日本軍の警備司令官はこれを受け入れてしまいました。
5月3日、国民革命軍の兵士たちは日本人居留民を襲撃し始めます。
日本人居留民12名が死亡し、その遺体は異常な程、筆舌に尽くしがたい程、過度に損壊していました。
日本軍と国民革命軍は戦闘になり、日本軍は26名の死者を出しました。

日本軍は山東省への増派を行い、山東省を完全に占領しますが、中華民国の反日世論は増大し、翌年に日本軍は撤退する事になります。
国民革命軍はその後、日本軍との衝突を避けるように迂回して北伐を続行していきました。
さて、今回の話の中で、「政府」となのつく単語はいくつ出てきたでしょうか?
中華民国北京政府、中華民国広東政府、広東国民政府、武漢国民政府、南京国民政府・・・
「中華民国」とは、決して近代的な「統一国家」ではなかった事に気をつけなければいけません。