「禁門の変」で長州藩は御所に弓を引きました。
1864年7月24日、朝廷は幕府に対し、「長州征討」の勅命を下しました。
これを受けて幕府は「征長軍」を編成、35の藩から15万人を動員します。
禁門の変で薩摩藩士を率い、長州藩を撃退した「西郷隆盛」は、長州征伐の参謀に任ぜられます。
西郷は長州藩を殲滅する予定でしたが、幕府の対応がいまいちはっきりしないので、長州征伐に先立って大阪で「勝海舟」と会談する事になります。
西郷隆盛 |
勝海舟 |
勝海舟は、遣米使節団として渡米した経験から、広い視野を持った有能な人物でしたが、幕末の政治状況に左右され、その政治力を発揮できずにいましたが、彼の考えは多くの人に影響を与えていました。
勝海舟は幕府の内情を西郷に語り聞かせます。
幕府はもはや政権を担う能力など持っておらず、今大きな内戦になればそれこそ欧米列強の思う壺なのだと。
この時から西郷は「幕府を倒すためにも長州を温存せなばならない」と考えるようになっていきました。西郷自身、「公武合体」に限界を感じていたのです。
安藤信正が坂下門外の変で失脚し、幕府の力が弱まる中で、「公武合体」は単なる政治闘争の場になってしまい、頓挫していたのです。
西郷隆盛は幕府に見切りをつけ、「倒幕」へ舵を切り始めました。
西郷は国内で同士討ちの戦いをする事こそが愚策と考え、長州に対し軽い処罰で済ませる事により、戦わずして長州征伐を終わらせようとします。
諸藩もこれに同意し、長州もまた、これを受け入れました。
禁門の変、馬関戦争と敗戦が続いており、抵抗する余力がなかったのです。
長州藩は幕府への恭順を示し、藩主が謝罪し、禁門の変の責任者を処刑し、これを見届けた征長軍は全軍を撤退させます。
しかしあれほど血気盛んであった長州藩。
藩内にはもちろん幕府に恭順する事に反対する者もいました。
幕府恭順派になった長州藩政府を倒すべく、高杉晋作は奇兵隊などを率いて戦い、勝利しました。
この時共に戦った者の中には、伊藤博文や山縣有朋などもいました。
高杉晋作によってひっくり返された長州藩は、明確に「倒幕」へと動き出します。
かつて過激な「攘夷運動」を行なっていたエネルギーが、見事に「倒幕」へと転換されたのです。
こうして、「公武合体」から「倒幕」へと転換した薩摩藩と共に、両藩は明治維新の歯車を動かし始めるのでした。
ところで、長州藩はなぜあんなにも過激な攘夷運動を行い、「尊皇」を掲げておきながらも御所に弓を引くような許されない行為をしてしまったのでしょうか?
その「暴走」にはいくつかの背景があったように思えます。
長州藩を治める毛利氏は、先祖代々から朝廷と太いつながりがありました。
幕府は諸藩に対して、朝廷と直接関わることを禁じていましたが、毛利氏だけには認めていたほどでした。
そのような朝廷との関わりの中で、長州藩における「勤王の精神」は長い年月をかけて培われ、朝廷からも厚い信頼を得ていました。
そしてさらに毛利氏は「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将を任されていた事から、領国を減らされ、徳川家との関係を修復するのが精一杯でした。
江戸幕府と深い関係を築けなかった事ことから、ますます朝廷に深入りしていく事になります。
長州藩士は、若い公家たちに尊王攘夷思想を吹き込んで朝廷での影響力を強めていきます。
この「航海遠略策」は、朝廷は国の大方針を決定し、幕府はそれに従って各大名に号令を出すという、れっきとした「公武合体」に基づく「開国論」でした。
しかし、薩摩藩の島津久光が兵を従えて上京した時、「いよいよ挙兵討幕か?それとも攘夷か??」と勘違いした過激な藩士や浪人が京に集結し、京都では尊王攘夷の機運が高まりました。
京での求心力を取り戻さないといけない長州藩は、航海遠略策を頓挫させ方針転換し、より一層過激な攘夷運動を唱えました。
長州藩に尊王攘夷思想を叩き込まれていた若い公家たちは、政庁で過激で達者な議論を展開するようになり、穏健派の公家たちを抑え込んでいきました。
こうして長州藩士は政治的、精神的に公家と深いつながりができ、過激な攘夷運動を自己正当化する事ができたのではないでしょうか?
御所を攻撃する時も、「帝は会津や薩摩に操られているから救わねばならない」と考えていたようです。
ところで、攘夷思想といえば、一つ気になる事があります。
それは「水戸藩は何をしているのか」という事です。
「桜田門外の変」「坂下門外の変」など、水戸は開国当初の尊王攘夷の急先鋒でした。
それが、明治維新の話が進むにつれて主役を薩摩と長州に取って代わられ、「水戸藩」という名前を聞かなくなってしまいます。
「徳川御三家」と呼ばれ、幕府に近い立ち位置であったにも関わらず、「尊王攘夷」を掲げて朝廷側に立った理由も気になるところです。
歴代天皇の歴史をまとめたこの本の編纂作業の中で、水戸藩の中に天皇への忠誠心、尊王思想が培われていったのです。
江戸幕府は、「朱子学」を重視し取り入れていました。
朱子学には「上下定分の理」が唱えられおり、上下関係、君臣関係をハッキリさせるこの考え方は、徳川家康が「下克上の時代」を終わらせるのには都合がよかったのです。
しかし朱子学には「王道」「覇道」という考え方がありました。
徳を以て国を治める「王道」と、武力で国を治める「覇道」。
日本に当てはめると、天皇は王道で、徳川幕府は覇道に当たります。
「徳を以て国を治めるべきだ」という考えのもと、朱子学を突き詰めると自然に「尊王」になって行くのです。
そして、水戸藩で大日本史を編纂していたのは、主に朱子学者でした。
こうして、朱子学と大日本史の編纂が結びつき、水戸藩は必然的に筋金入りの「尊王攘夷思想」に染まる事になったのです。
時代の流れは彼らの抗争が終わるのを待ってはくれません。
水戸藩は完全に明治維新に乗り遅れました。
多くの人材を失い、水戸藩士の全国的な発言力は低下し、歴史の表舞台から姿を消してしまう事になりました。
明治新政府が樹立した時、水戸藩出身の高官は一人もいなかったそうです。