2019年5月14日火曜日

明治維新8 薩長同盟の裏の顔

過激な尊皇攘夷思想によって、「尊皇」でありながら御所に大砲をブッ放すという矛盾した行動を取っていた長州藩ですが、馬関戦争の敗北で「攘夷は無理だわ」という事を身をもって理解しました。
馬関戦争
しかし、「禁門の変」で朝敵認定されていた長州藩は各藩を敵に回しており、武器を手に入れる事が出来ませんでした。
一方で、政治的理由で頓挫する「公武合体」に限界を感じ、イギリスとのパイプを持っていた薩摩藩は、琉球貿易で石高に反映されない財源があり、イギリスから武器を購入することができていました。
「幕府と戦いたいけど武器がない」長州藩と、「武器はあるけど、倒幕の矢面に立ちたくない」薩摩藩。
この両藩の利害関係は一致するのですが、いかんせん「禁門の変」で争いあった者同士あり、非常に仲が悪かったのです。
ーーーーーーここで両者を結びつけるために尽力したのが坂本龍馬です。いがみ合う両者を説得し、会談の場を設けて「薩長同盟」を結ばせる事に成功しましたーーーーーーーーー
薩長同盟
なんて話になるのが一般的なのでしょうが、実は薩摩、長州両藩の接近はもっと以前に行われていたようです。
第一次長州征伐の際、西郷は長州藩を殲滅するのではなく、軽い処罰だけですませようとしました。
禁門の変の責任者の処罰や謝罪など「幕府への恭順」を確認することで撤兵したのです。
ここで一つ、謎が浮かび上がります。高杉晋作が功山寺で挙兵したのが12月15日。
これは「幕府への恭順」を示した長州藩を倒すための「藩内クーデター」です。
高杉晋作挙兵像
そして長州征伐軍(征長軍)が解兵したのは、その「藩内クーデター」が起きている最中の12月27日です。
「幕府へ恭順」を示した長州藩を転覆させるための内乱が起きているのに、なぜ征長軍は動かなかったのでしょうか?
実は功山寺で高杉晋作が決起する4日前、12月11日に、西郷隆盛と高杉晋作は下関の料亭、対帆楼で会談していたと言われています。(対帆楼会談)
ここでどんな話が交わされたのかはわかりません。
・西郷が、征長軍を撤兵させる
・高杉が、クーデターを成功させ、長州藩を「倒幕」に転換させる
このような密約が交わされたのかもしれません。
高杉は、この密約があったからこそ、「無謀」「バクチ」と揶揄される功山寺挙兵を決意することができたのではないでしょうか。
そして高杉と西郷の関係はそのまま「薩長同盟」に繋がっていったのではないでしょうか。
ちなみに、この「薩長同盟」を最初に言い出したのは坂本龍馬ではなく、福岡藩士の「月形洗蔵」です。
彼は薩長の争いを避けるために奔走し、志半ばで弾圧を受け処刑されてしまいますが、その遺志は坂本龍馬へと受け継がれていたのでした。
さて、日本を開国させたアメリカは対日外交の主導権を握っていたのに、南北戦争が始まったことにより姿を消しました。
代わりに主導権を握ったのがクリミア戦争を終えてアジアに目を向けたイギリスです。
薩英戦争の後、親英路線をとった薩摩藩は、特定の開港地と幕府との間で行われる「独占貿易」に不満を持ち始めました。
イギリス公使「オールコック」は、この薩摩藩の意見に「貿易拡大の可能性」を見出し、薩摩藩に肩入れしていきます。
後任のイギリス公使「ハリー・パークス」もこの方針を継続して行きます。
ハリー・パークス
薩摩とイギリスの急接近を警戒した幕府が頼みにしたのはフランスです。
フランス公使「レオン・ロッシュ」は、幕府が行う独占貿易を支持することで、利益をあげようと考えました。
レオン・ロッシュ
薩摩VS幕府の裏で、イギリスVSフランスという構図ができていたのです。
1865年、アメリカの南北戦争が終わり、使用された大量の武器が上海市場に出回ることになります。
イギリスやフランスはこの中古の武器を買いあさり、日本に売りつけました。
アヘン戦争を引き起こしたマセソン商会の社員で、長崎にその代理店「グラバー商会」を設立した「トーマス・グラバー」は、上海で中古の武器を大量に購入しました。
トーマス・グラバー
その武器を薩摩藩が買い込み、それを長州に運びます。
冒頭でも申し上げたように、朝敵となった長州藩は武器を買うことを禁じられていたのです。
薩摩から長州へ武器を運ぶのは、坂本龍馬が作った海運会社「亀山社中」の仕事でした。
亀山社中は薩摩から長州へ武器を運び、長州から薩摩へは米を運んだりと、薩長両藩を行き来したのです。
こうして、薩摩、長州は結びつき、幕府に対抗できる一大勢力が出来上がったのでした。
いよいよ「倒幕」に向けて歴史が動き出します。