ヒトが、なぜ、いつから二足歩行をしているのかを知る由はありませんが、二足歩行はヒトに大きな武器をもたらしました。「投擲能力」です。
チンパンジーは、人間を遥かに凌駕する筋力を持っていますが、ボールを投げさせてみると意外にも時速30キロしか出せません。
しかし筋力で劣るはずの人間はチンパンジーよりも遠くへ、速く、正確に物を投げることができます。
これは骨格の違いによるものです。
二足歩行を常態化させた人間は、更なる進化と適応を経て「肩の可動域の広さ」を手に入れました。
「物を投げる」という動作は、人類が手に入れた特権なのです。
石を投げる行為は攻撃となり、人類は「飛び道具」の概念を発展させていきました。
「飛び道具」は戦争において非常に重要な役割を果たす事になります。
戦争のあり方は「飛び道具」の進化に伴い変化していくのでした。
そして「投げ槍」「弓矢」などを経て、15世紀には「銃」が登場します。
驚くことに日本人はそれからわずか4ヶ月で国内生産に成功します。
この圧倒的な武力を以って、江戸幕府は鎖国を敢行することができました。
しかしその後日本に訪れた戦争のない時代「ミラクル・ピース」は、銃の進歩を必要とするものではありませんでした。
これは1777年にオランダで採用された洋式小銃でしたが、「火縄」が「火打ち石」に変わっただけで、当時の鉄砲の性能としては、ゲベール銃も火縄銃も大差はありませんでした。
弾丸のサイズはバラバラ、銃身の中はツルツルで、発射した銃弾に全く回転がかからず、野球でいうなら「ナックルボール」のように予測不可能な動きを見せるのです。
火縄銃やゲベール銃では狙い撃ちなど到底できませんし、弾込めにも時間がかかるため、連射もできませんでした。
そのため、戦場において銃を持った一人の人間は「弱点」として扱われるほど脆い存在でした。
なので、戦場で銃がその威力を発揮するためには、密集するか、他の部隊に守られながら戦うかしかありませんでした。
そんな「銃」の戦い方が一変する進化を遂げたのが、「ライフル」です。
銃身内部に螺旋状の溝を刻むことによって、進行方向を軸とした回転を銃弾に与え、弾道を安定させる事に成功したのです。
しかし、銃身に手作業で溝を掘らなければならないため、大量生産が不可能でした。
さらに銃弾を装填するのに時間がかかるため戦争には不向きで、ライフルを持っていたのは猟師くらいでした。
しかし、「アメリカ独立戦争」で練度の高いイギリス軍にアメリカの民兵が勝てたのは、バッファロー狩りをするためにライフルを持っていた民兵が多かったからだとも言われています。
これをきっかけにライフルは戦場でも活躍できる武器として見直されていきました。
ライフルを持った民兵・ミニットマン |
産業革命によってライフルの大量生産が可能になると1849年には、装填作業も簡単な「ミニエー銃」が登場します。
弾丸の形状も球型ではなく椎の実型で、破壊力もそれまでの銃とは段違いでした。
さて、ここで話を明治維新に戻します。前回お話ししたように、武器の購入を禁じられていたはずの長州藩は、亀山社中の仲介で、薩摩藩からどんどん武器を仕入れていきました。
「恭順したはずの長州藩が武器を手に入れている」事を察知した幕府は、再び長州征伐に動きます。(第二次長州征伐)
薩摩藩は幕府からの要請に応じず、派兵しませんでした。
迎え撃つ長州藩の兵力はたったの4千です。
どう考えても勝ち目はありません。
しかし、長州藩はグラバーから「ミニエー銃」を4300丁も購入していました。
対する幕府軍の主力武器は「ゲベール銃」です。
幕府軍の射撃は届かず当たらないのに、長州藩の射撃によって幕府軍はバタバタと倒れていきました。
幕府軍の戦況が不利になっていく中、将軍家茂が病に倒れ、二十歳の若さで亡くなります。
あとを継ぐ徳川慶喜は休戦協定を結んで幕府軍を撤退させました。
事実上の幕府軍の大敗でした。
この戦いで、幕府の求心力は地に堕ちることになります。
4千対15万という兵力差をひっくり返すことのできた要因の一つとして、「銃の性能の違い」は大きかったのではないでしょうか。