第12代将軍、徳川家慶の嫡男・家定は病弱で、脳性麻痺とも言われていました。
そして1853年、黒船来航の直後に、徳川家慶は亡くなりました。
この難局において家定は病状が悪化し政務を行えるような状態ではなかったと言われています。
子もおらず、当然のように後継者問題が浮上しました。
島津斉彬や松平慶永などの有力大名らは、能力のある将軍を擁立すべきとして一橋慶喜を推し、(一橋派)
保守派の譜代大名や大奥は、家定に血脈の近い紀伊藩主の徳川家茂を推しました。(南紀派)
1858年、将軍に即位して5年たった家定ですが、病状が悪化しあまり表舞台に出ることがなくなっていました。
しかし、6月25日に諸大名を集めると、後継者を従兄弟の「家茂」にする事を決め、反対派の一橋派を処分し、翌日に35歳の若さでこの世を去りました。
後を継いだ家茂は、13歳という若さではありましたが、前将軍である家定の最近親という事で選ばれました。
徳川慶喜は、血縁を「徳川家康」にまで遡らないといけないほどの遠縁だったのです。
幕府の公武合体政策により、家茂は孝明天皇の妹、「和宮親子親王」を正室に迎えました。
この政略結婚は、朝廷と結びついて幕府の権威を取り戻そうとするものでしたが、将軍の義兄となった孝明天皇は、京へ将軍を呼び出し、攘夷の実行を約束させました。
将軍が天皇の家来であるかのようなこの扱いに、幕府の求心力は急速に低下していきます。
「幕府凋落の象徴」であるかのようなこの家茂ですが、彼の人徳は特筆すべきものがありました。
政略結婚の為に他の男性との婚約を破棄させてまで家茂と結婚せねばならなかった和宮ですが、家茂は和宮の為に側室を取らず、他の女性を近寄らせませんでした。
多くの歴史家は、夫婦仲は歴代将軍の中でも最も円満だったと認識しています。
また、「将軍吉宗の再来」と呼ばれるほどの聡明さと度量の持ち主で、勝海舟の進言を素直に受け入れる懐の広さを見せていました。
しかし1866年の第二次長州征伐の際、大坂城で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
家茂の後を継いで将軍に就任したのは徳川慶喜でした。
御所の守衛総督をも務めたことのある慶喜は、会津藩、桑名藩の支持を受け朝廷とのつながりが密接でした。
「朝廷と密接な関係にある将軍」の誕生は、ある意味幕府が目指していた「公武合体」の完成形ではないでしょうか。
とにかく徳川慶喜は「孝明天皇」という強力な後ろ盾を得ていました。
慶喜は京を離れず、在任中に一度も江戸入城しなかった将軍となります。
幕臣たちを京へ呼び寄せ、政治の中心は江戸から京都へ移りました。
死因は天然痘とのことでしたが、暗殺説もあり、現在も議論されています。
慶喜は孝明天皇という後ろ盾を失いながらも、政治手腕を発揮していきます。
慶喜はフランスの援助を受け、「慶応の改革」を進めていました。
この「慶応の改革」は、「徳川家の主権回復」を狙ったものでしたが、同時にこれまでの江戸幕府の政治システムを崩壊させるものでもありました。
その改革の内容は、まさに「明治維新」を先取りするかのような革新的な内容だったのです。
しかし一説によると、慶喜はフランスの援助を受ける際に九州と蝦夷の租借を約束したと言われています。
経済政策もフランスの独占的な介入を許すものであり、フランスによる日本の植民化を招きかねないものでありました。
慶応の改革の一環として「神戸港の開港」がありましたが、これは朝廷の反対意見を無視した慶喜の強硬策でした。
これに驚いた薩摩藩の志士たちは、島津久光・山内容堂・伊達宗城・松平慶永による「四侯会議」を結成し、慶喜の責任を追及しましたが、逆に説得されて押し切られてしまい、さらにはその勢いで神戸港の開港を朝廷に認めさせてしまいました。
慶喜の力量は、幕府の権威を取り戻すに十分なものであり、その政治手腕は倒幕派にとって脅威となりました。
西郷隆盛ら倒幕派の志士たちは、武力で幕府を倒すしかないと判断したのです。
孝明天皇の崩御、明治天皇の即位によって、朝廷内の派閥勢力にも変化が訪れました。
禁門の変で長州を支持して処罰されていた「中山忠能」が復帰し、まだ若い明治天皇の補佐役として影響力を強めていたのです。
このときに赦された倒幕派の公家「岩倉具視」は、薩長と手を組んで倒幕工作「倒幕の密勅」を企てます。
一方で、土佐藩の坂本龍馬は、京都に出向いていた山内容堂に「大政奉還」を進言する為に夕顔丸号で長崎を出港しました。
その内容は
・大政奉還
・上下両院の設置による議会政治
・有能な人材の政治への登用
・不平等条約の改定
・憲法制定
・海軍力の増強
・御親兵の設置
・金銀の交換レートの変更
となっており、これは後の「五箇条の御誓文」に繋がるものでした。
新政府綱領八策の最後には、「〇〇自らが盟主となり、これを以って朝廷に奉り〜」とあります。
この〇〇が誰を指すのかは不明ですが、おそらくは徳川慶喜をNo.2に据えた、「平和的な政権交代」を望んだのではないでしょうか。
武力倒幕が実行されて内戦が起これば日本は無政府状態になります。
その隙をついて、それぞれの後ろ盾であるイギリス、フランスが介入してくれば、日本は傀儡国家、もしくは植民地化される恐れすらあったのです。
「大政奉還」はそれを回避する為に考え出されたものでした。
この「新政府綱領八策」を妙案と捉えた山内容堂は、徳川慶喜に大政奉還を建白しました。
朝廷で「倒幕の密勅」がくだされようとする不穏な動きを察知していた慶喜はこれを受け入れたのです。
しかし、朝廷には政権運営能力がない為、最大勢力の徳川家が新政府に参画すれば実質的に政権を握ることができるのです。徳川慶喜の狙いはここにありました。
薩長は倒幕の仕切り直しを迫られます。
このままで丸く収まるわけはありませんでした。