2019年5月16日木曜日

明治維新11 王政復古の大号令

これまでお話しした通り、薩摩藩と長州藩は敵同士であったにも関わらず、「武力倒幕」のために手を組みました。
しかし将軍・徳川慶喜は「大政奉還」を行い、260年間徳川家が維持していた政権を朝廷に返上します。

とはいえ慶喜は、政権運営能力のない朝廷の新体制に自らが一大勢力として入り込み、実権を握ろうと目論んでいました。
実際、朝廷は新体制が出来上がるまでの間、国内統治を幕府に委任し、慶喜は内政・外交業務をこなしていたのです。
これに対して「倒幕」の大義を失い、肩透かしを食らってしまった薩摩・長州が黙っているわけがありませんでした。
政権運営能力のない朝廷は、新体制を模索するために諸藩に上洛するように命じ、諸侯会議を開くことにします。
この諸侯会議で徳川慶喜を支持する声が大きければ、まさに慶喜の目論見通りに事が運ぶことになるのです。
しかし諸侯会議とは言ったものの、諸大名は静観の構えを見せ、実際に上洛する藩は少なかったようです。
岩倉具視は、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩に「王政復古」の実行を宣言し、協力を求めました。
岩倉具視

これによって、5藩の軍事力による政変が実行される事になります。
大政奉還から2ヶ月後に行われた朝議の後、待機していた5藩の兵が御所の門を閉鎖し、親幕府派を締め出しました。
そして岩倉具視が明治天皇の前に進み出て、「王政復古の大号令」を読み上げ、明治天皇はこれを了承されました。

その内容は、徳川慶喜を新政権から排除し、天皇親政のもと、5藩に長州藩を加えた勢力が主導する新政府の樹立を宣言したものでした。
この「王政復古の大号令」の承認を受けて、早速最初の会議が明治天皇臨席のもと行われることになりました。
「小御所会議」です。
この会議は徳川家の権力・財産を剥奪する事を決めるものでありましたが、これに対して土佐藩の山内容堂は「この会議に、今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と指摘します。
山内容堂

これは実に的を得た発言でもありました。
慶喜を処罰するのか、許容するのか。
譲ることのない議論が交わされ、会議は紛糾しました。
その中で西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(短刀)あるのみ」と言葉を発します。
この西郷の「暗殺」「武力行使」を意図した発言は、今まさに一万の薩摩兵が御所を取り囲んでいる事を皆に自覚させるものでした。
「西郷や岩倉の意見に反対すれば、このまま殺されるかもしれない」
そう思った者もいたかもしれません。
西郷の発言以降、徳川慶喜の処分に反対するものはいなくなり、幕府の領地(天領)の半分、200万石を朝廷に返上させる事が決定しました。
この小御所会議の結果を知った徳川慶喜は、兵を引き連れて二条城から大阪城へ移ります。
京都で戦闘が起き、朝敵になるのを恐れての事でした。
これで江戸幕府も完全に潰えたかと思いきや、徳川慶喜はここでしぶとさを見せます。
慶喜は、領地の返納の猶予を求め、先延ばしを図りました。
そして大阪城で6カ国の公使と会談し、外交権が自らにあることをアピールします。
また、小御所会議は、所詮「たった数藩の代表」によるものであった為、慶喜への同情論が諸大名から起き始めました。
さらに慶喜は朝廷に対し「王政復古の大号令」の撤回を求め、その要求はほぼ認められる事になります。
幕府を倒す目前でありながら、ここにきて非難を浴び窮地に立たされたのは薩摩藩と長州藩の方だったのです。
しかし、西郷隆盛は「大政奉還」以降、江戸の志士「相良総三」に撹乱工作を依頼していました。
相良総三は尊王攘夷・倒幕派の志士をかき集め、江戸市中で放火・強盗・暴行など犯罪を繰り返します。
薩摩藩は、最後は武力で旧幕府を倒すしかないと考えており、旧幕府を挑発し続けていたのです。
「江戸での騒動の黒幕は薩摩藩である」との疑いが強まって行く中、庄内藩の屯所までもが襲撃されてしまいました。
庄内藩は報復として江戸薩摩藩邸に焼き討ちをかけ、薩摩藩浪士64人が死亡します。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件

この「抜き差しならない状況」が大坂城へ伝えられると、沸き起こる「薩摩討つべし」の声を慶喜は抑える事ができなくなりました。
慶喜は「討薩の表」を朝廷に示すべく、一万五千の兵を率いて京へ向かいます。
もちろんこれは西郷隆盛の思う壺でした。こうして戊辰戦争の前哨戦とも言える「鳥羽・伏見の戦い」が勃発することになったのでした。