大東亜戦争末期に行われた沖縄戦は、「両軍が同じ兵器を持っていたのなら、日本が勝っていた」と評されるほどの激戦でした。
制海権、制空権を喪失し、海や空からの攻撃に晒された日本軍は、そのような状態でも米軍に損耗率「35%」という驚異的な打撃を与えています。
空からは戦闘機や爆撃機、海からは戦艦からの砲撃など、多大な支援攻撃を受け、最新の武器と強力な戦車を伴って戦っていた米軍ですが、それでも35%の人間は戦闘不能にさせられていたわけです。
この結果にアメリカの首脳は怖気付き、「無条件降伏」を諦めて戦争を早期終結させなければならないと考えるようになっていきました。
沖縄戦は「悲惨さ」ばかりが語り継がれてきましたが、「日本人がどのように戦って死んでいったのか?」を書いて行きたいと思います。
大東亜戦争終盤、沖縄を守るために「第32軍」が編成されました。
【なぜ沖縄戦が起きたのか】
大本営は沖縄に18万もの兵力の増派を行い、沖縄にて米軍を叩き潰し決着をつけるべく「沖縄決戦」の準備が進められます。
しかしここで問題になるのが、沖縄の民間人です。
かなり早い段階から沖縄県民を九州などに疎開させるように進めていましたが、県外での生活に不安を感じていた沖縄県民の疎開は一向に進みませんでした。
そんな中、沖縄への増援部隊を乗せた「富山丸」が航行中に撃沈され4000名が死亡するという、沖縄県民たちの不安を一層高めるような事件が起こり、県民の疎開はさらに停滞しました。
しかし沖縄は自給だけでは食料が賄えない為、海上封鎖をされたら島民は餓死に追い込まれてしまいます。
その必死の努力により、1944年7月21日、疎開船第一号「天草丸」が出港します。
その航路途中、敵艦から魚雷が放たれ、船底をかすめるような近距離で間一髪命中しなかったりと、乗船していた大人たちが青ざめるような出来事もありましたが、子供たちは魚雷をみて「大きな魚だ!」とはしゃいでいたと言います。
天草丸は潜水艦の攻撃を避ける為、ジクザグに航海し、二週間かけて無事に鹿児島までたどり着きました。
それほどの危険を乗り越えて疎開を決行しなければ、島民の安全など守れなかったのです。
ちなみに、この疎開にかかったお金は全て国費でまかなわれました。
「日本が沖縄を見捨てた」などとんでもない、必死で県民を戦火から救おうとしていたのです。
県民疎開に尽力していた荒井警察部長でしたが、実は彼の活動を妨害していたのは他ならぬ「沖縄県知事」でした。
「泉守紀(いずみ しゅき)」という知事は、1943年に赴任して以来、沖縄の風習の違いに苛立ち、「沖縄はダメだ」と当たり散らし、孤立していました。
その為、出張を繰り返し、在任期間の三分の一を県外で過ごすほどでした。
軍は沖縄本島北部を、残された県民の「県内疎開地」にして非武装化しようとしましたが、泉知事はそれすら反対し、軍と対立しました。
また、疎開活動を進める荒井警察部長を議会で追求したりして、足を引っ張りました。
この知事の振る舞いに第32軍の軍令部は怒り、戒厳令を発令させて沖縄を軍政下に置こうとしましたが、そんなことをされては面子が潰れてしまう内務省は慌てて泉知事を更迭、香川県知事に赴任させました。
しかしそうなると、後任の沖縄県知事を探すのが大変です。
何しろもうすぐ米軍がやってきて戦場になるのですから、わざわざ沖縄に死にに行こうとする人間はいませんでした。
周囲の者は皆、彼を止めようとしましたが、「自分の代わりに誰か死んでくれ、とは言えん」と、懐に自決用の青酸カリを忍ばせて沖縄へ向かいました。
島田知事は早速、県民疎開の推進や、食料の確保などに努め、島民の信頼を得ました。
島田知事は、日本軍の勝利を信じて軍に協力してくれる農民たちを不憫に思い、禁止されていた「芝居」などの娯楽を解禁し、少しでも県民を喜ばせようとします。
そんな島田知事も最期は戦火に巻き込まれ、遺体は未だに見つかっていませんが、「島守」として現在でも讃えられています。
沖縄のために尽力し、命を投げ打った人間がいることを忘れてはなりません。
さて、こうして「沖縄決戦」の準備を進めていた第32軍ですが、大東亜戦争の戦況の悪化に伴い、沖縄の最精鋭部隊を「台湾」に抽出される事になってしまいます。
当時の日本軍は「フィリピン」と「硫黄島」を攻め落とされており、次なる米軍の目標を予想できないでいました。
陸軍は「フィリピンの次は台湾に来る」海軍は「硫黄島の次は小笠原諸島に来る」と的外れな見解を示し、「沖縄の戦力の3分の1」を奪ってしまったのです。
同時に、大本営では「本土決戦構想」が立案されていました。
米軍が日本本土に上陸した時の最終徹底抗戦のために、沖縄へ増派されるはずだった部隊も、派遣を中止される事になりました。
これらの変更によって第32軍の計画は大いに狂い、「決戦」ではなく「持久戦」に持ち込む事を余儀なくされます。
この言葉が未だに延々と語り継がれ、「沖縄戦は捨て石作戦だった」「沖縄は本土決戦の時間稼ぎだった」「沖縄は見捨てられた」と現在のマスコミは言いふらしているのです。
しかし、「敵が南方から攻めてきたら、そこでなんとか食い止めて中央で決戦態勢を整える」というのは、当たり前の作戦ではないでしょうか?
もし敵が西から攻めてきたら九州が戦場になりますし、北からなら北海道です。
沖縄戦は、沖縄を含む「日本」を守るための必死の戦いだったと言えます。
あの当時、沖縄県民は軍民一体となって戦おうとしました。
戦力が低下した第32軍の兵力を補うために、一般市民が動員される事になります。
15歳前後の少年を集めた「鉄血勤皇隊」は勇猛に戦い、半数が戦死します。
彼らは間違いなく日本人として、日本のために戦いました。
捕虜になった者は、皆どこかしら傷を負い、無傷で投降したものは一人もいなかったと言われています。
最も、民間人、ましてや子供まで動員せざるを得ない状況は、筆舌に尽くしがたい「地獄」であった事は言うまでもありません。
さて、アメリカはなぜ、フィリピンを陥落させた後、台湾を素通りして沖縄に攻め込んできたのでしょうか。
アメリカは、1945年11月に「ダウンフォール作戦」を決行する予定だったからです。
最大で原爆を18発使用し、さらに日本周囲の海を機雷封鎖し、枯葉剤などで農作物が作れないようにして餓死させ、さらにサリンなどの化学薬品なども使用が検討されていました。
この壮絶な作戦の拠点として、どうしても「沖縄」が必要だったのです。
だから沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」が決行されたのです。
【地上戦】
米軍はまず艦砲射撃で沖縄を焼け野原にした後、上陸を開始しました。
米軍は沖縄本島の中西部に上陸。
海兵隊は北部、陸軍が南部へ侵攻しました。
沖縄本島北部は、日本軍が島民の疎開地にしていたので大規模な戦闘は起きませんでした。
その代わり日本軍は沖縄本島南部に陣地を構築し、米軍を待ち構えていました。
日本軍の総兵力は11万人です。
兵数も火力も米軍に劣り、空からも海からも支援・補給はありません。
そんな日本軍の戦略は、地中深く坑道を掘り、それを利用して神出鬼没に攻撃を仕掛けて接近戦に持ち込む「寝技作戦」でした。
沖縄に上陸して南下を開始した米軍に対し、散発的な攻撃を仕掛けてきた部隊があります。
彼らの任務は、「時間稼ぎ」でした。
米軍に攻撃を仕掛けては後退し、また攻撃しては後退する、これを繰り返す事によって敵の侵攻を遅延させる「遅滞戦術」は見事に成功します。
賀谷支隊は、自分達の数十倍の兵力の米軍を相手に見事に戦い抜き、242名の戦死者を出しながらも、米軍を日本軍の待つ陣地に引き込むことに成功しました。
ここから米軍にとっての地獄が始まるのです。
寝技作戦は効果覿面でした。
「仲間がどんどん死んでいくのに日本兵がどこにいるのかわからない」という戦いは、米兵に衝撃を与え、沖縄戦に参加した将兵の43、9%がストレス障害に苦しみ、25、7%が精神障害を負っていたという追跡調査結果も出るほどでした。
沖縄戦では各地で激戦が繰り広げられます。
米軍のMー4中戦車30両が日本軍陣地に攻撃を仕掛けますが、日本兵は爆弾を抱えて戦車の懐に飛び込んで自爆し、キャタピラを破壊してから、対戦車砲を打ち込んだり、穴という穴に拳銃を突っ込んで乱射してMー4中戦車22両を破壊しました。
嘉数高地で撃破されたM4中戦車 |
戦車に付随するはずの歩兵も日本軍の壮絶な機関銃掃射で身動きができず、孤立した戦車隊は「HELP」の文字を電信するしかなかったそうです。
ちなみに、この嘉数で戦った日本軍には数千名の「京都出身者」がいました。
他にも各県の出身者が沖縄を守るために死んでいきました。
しかし善戦していた日本軍の戦いも、その圧倒的な物量差に徐々に押されていくことになります。
それでも「あたり一面は米兵の死体で埋め尽くされ、仲間の死体を踏まなければ先に進めなかった」というほどの激しい戦闘が各地で続きます。
牛島中将は、自らの腹を搔き切る前に辞世の句を2首読み上げました。
「矢弾付き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」
魂になってでも国を守ろうとした沖縄の英霊達は今何を思うでしょうか。
壮絶な「沖縄戦」において、日本は18万人の死者を出しました。
そのうちの94000人は戦闘に関係ない民間人です。
現代では、民間人を殺害した米軍よりも、「民間人を巻き込んだ」として日本軍が責められています。
5月8日、ドイツの降伏をラジオで知る米兵。しかし彼らの表情に喜びはなく、日本兵は今までと何ら変わらず、 全滅するまで自分達に向かってくるであろうと確信していました。 |
地上戦での激しい戦闘に伴い、海上では特攻隊による猛攻が繰り広げられました。
沖縄戦を語るにおいて、特攻隊について語らないわけには参りません。
1945年4月に米軍が沖縄へ侵攻すると、沖縄を「特攻隊」によって防衛しようとする「菊水作戦」が発令されました。
この作戦を昭和天皇が知った時、陛下は「飛行機だけか?海軍にもう船はないのか?沖縄は救えぬのか?」と問われました。
レイテ沖海戦で壊滅したとはいえ、日本海軍にはまだ軍艦はありました。
史上最大の戦艦「大和」です。
大和はレイテ沖海戦で傷ついた後、日本に帰還しますが、日本の海域は米軍によって機雷封鎖され、大和は呉港に帰る事ができずに瀬戸内海上で停泊していました。
米軍は日本の海に12000個の機雷を投下して、航行不能にします。
日本海軍の象徴・戦艦大和は、瀬戸内海で浮いている事しかできず、空襲を受けて撃沈されるのを待つのみとなってしまいました。
国民の目の前で大和を撃沈させるわけにはいきません。
大和は、生き残った軍艦を集めて艦隊を組み、沖縄を救出に向かう事になりました。
空母がないため航空機の護衛もなく、沖縄にたどり着ける可能性は50%以下という「海上特攻」でした。
「大和は片道分の燃料しかなかった」とよく言われていますが、実は十分に沖縄を往復できる4000トンの燃料が積まれていました。
これは当時日本に残されていた燃料の半分近い量だとも言われています。
燃料の備蓄タンクから必死にかき集めてきて大和に補給したのです。
たとえ不可能だとしても、何とかして沖縄まで辿り着こうという悲壮な決意の表れではないでしょうか。
大和の最期 |
さて、沖縄近海に集結した1500隻の連合軍の大艦隊に対し、陸海軍合わせて1827機の航空機による特攻「菊水作戦」が行われました。
敵艦に命中した特攻機は133機です。
これによって米軍は5000名の死者を出し、36隻の艦船を撃沈、218隻の艦船に損害を与えました。
命中率が低いため「無駄死にだ」と言われていますが、私はそうだとは思いません。
沖縄戦では、米軍艦隊から、60万発の艦砲射撃が行われました。
「鉄の暴風」と呼ばれたこの艦砲射撃によって、沖縄本島は草も生えない焼け野原になりました。
この砲撃によって沖縄の島民たちは身動きができず、防空壕にこもる事しかできませんでした。
しかし、その雨のような艦砲射撃が止む瞬間がありました。
それは、特攻隊がやってきた時です。
また、沖縄にいる米国艦隊への特攻攻撃による損害がひどくなってくると、予定されていた日本の大都市への無差別空襲は軽減され、九州南部の特攻基地への戦術爆撃に切り替えざるを得ませんでした。
都市部への空襲が延期されるという事は、その分、多くの女子供が「疎開」できます。
「特攻」を、戦果だけでその善悪を決めてしまうわけにはいかないのです。
神風特攻隊は、敵を撃破した数以上に、「日本国民を生かした」のであります。
沖縄の海を埋め尽くしていた米軍艦隊に搭乗していた米兵は、常に特攻攻撃に晒されていました。
40日間ぶっ続けで、夜な夜な特攻機がやってくるのです。
誰もが寝不足になり、「夜、ぐっすり寝る事」が皆の夢になりました。
ヒステリーを起こしたり、精神錯乱状態に陥る兵士もいたと言います。
いつ、どこから飛んでくるかわからない特攻機への警戒態勢を解く事はできず、上官の心労はひどく、常にピリピリしていました。
さらに、沖縄攻略における陸軍の進行速度があまりにも遅いため、アメリカの陸軍と海軍との間で対立が起きるようになります。
そんな中、米軍に占領された沖縄の飛行場を襲撃し、少しでも制空権を回復して特攻隊を援護しようと、熊本の健軍飛行場から、1機当たりに14名の精鋭を搭乗させた12機の爆撃機が出撃しました。
「義烈空挺隊」です。出撃前、故郷の方角に最後の別れ |
沖縄への航路の途中で4機が整備不良などで突入を断念し帰投し、残りの8機が沖縄へ向かいましたが、激しい対空砲火に晒されて7機が撃墜、わずかに生き延びた1機が読谷飛行場へ強行胴体着陸を成功させました。
パイロットは操縦桿を握ったままうつ伏せで死んでいたそうです。
爆撃機から降り立った空挺隊員たちは満身創痍の体で破壊活動を行い、7万ガロンの燃料を焼失させ、26機の戦闘機に損害をだし、2日間に渡り飛行場を使用不能にしました。
しかし悪天候により特攻隊を飛ばせず、この好機をものにする事はできませんでした。
それでもこれらの特攻作戦は、米軍の厭戦気分を高め、アメリカ大統領は戦争の早期終結を考え始めなければならなくなりました。
これ以上戦争が長引き、戦死者が増えるならば、国内世論の反発が大きくなり自らの政権が危うくなるからです。
沖縄が容易に陥落し、日本人を殲滅させる「ダウンフォール作戦」がもし実行されていれば、今の我々は絶対に生きてはおりません。
沖縄という土地、沖縄を生きてきた人達、そして沖縄戦で亡くなられた人達に、想いを寄せたいと思います。