その時からすでに人が住んでいた形跡があり、台湾原住民の祖先は、主に東南アジアに分布する「オーストロネシア語族」に分類されるようです。
台湾原住民は日本語では「高砂族」と呼ばれますが、アミ族やパイワン族など10以上の民族に別れており、現在でも人口の2%を占めています。
台湾の存在は古くから支那王朝に認識されており、「元」の時代には支那王朝へ隷属し、船舶の寄港地や倭寇の根拠地として利用されていました。
支那王朝が「明」の時代には、すでに漢民族や日本人が永住しており、1544年にはポルトガルによって台湾が発見され、欧州の各国はアジアにおける拠点として台湾に興味を示します。
日本も例外ではなく、豊臣秀吉が使者を出したこともあったそうです。
17世紀に黄金期を迎えていたオランダ海上帝国は、台湾からスペインを駆逐し、台湾をオランダ統治下におきました。
そしてオランダは漢人を労働力として台湾へ連れてきたのですが、この時に台湾原住民が発した「ターヤン(よそ者)」という言葉がきっかけで、「台湾」という名前が名付けられたそうです。
やがて明が衰退し、女真族国家の清が支那王朝にとって変わろうとしました。
明は清に徹底抗戦すべく戦いますが敗北を重ねます。
福建省最大の武装海賊の父親と日本人の母親を持ち、7歳まで日本で生まれ育った経歴を持つ「鄭成功」は、武力を以ってオランダ勢力を台湾から一掃して「鄭氏政権」を樹立し、清を打倒するための根拠地にしました。
こうして清国の統治下になった台湾でしたが、清は台湾を重要視せず、「化外の地」と呼んでいました。
さて、ここで話を日清戦争に戻します。日本と清、両国の軍隊を呼び込み日清戦争の遠因となってしまった「東学党の乱」ですが、朝鮮政府は農民達反乱軍の提案を受け入れ「全州和約」を締結し、反乱は一応収束の形を見せました。
日本は朝鮮王宮を占拠し清に依存する閔妃派を排除し、大院君を擁立して朝鮮の内政改革を推し進めようとしました。
しかし大院君は、新政権を立ち上げるのにはもってこいの人物でしたが、彼こそが朝鮮の旧体制の権化とも言える存在であり、何より朝鮮の近代化や改革など全く望んでいませんでした。
日本の干渉が気に食わない大院君は、朝鮮半島内の日本人を駆逐する事を画策します。
収束していた東学党の乱を再び扇動し、数十万の兵を率いて漢城まで攻め上ってくるように指示を出したのです。
これを東学党の乱の「二次蜂起」と呼びます。
日清戦争が拡大している状況で、北方から清軍、南方から反乱軍が挟み撃ちにすれば、日本軍とてひとたまりもないであろうと踏んだのでしょうが、この時すでに日清戦争は大勢を決しており、農民達の二次蜂起は日本軍によってあっけなく鎮圧されました。
一方その頃、旅順を陥落させていた日本軍は、ここを足がかりにして清の首都・北京へ進軍しようと考えました。
しかし時はすでに12月、日本とは比べものにならない厳しい冬を迎えることになります。
大本営は第一軍に「現場待機、春に決戦すべし」と命令を下しますが、清は5万もの大軍を差し向けており、日本軍の目前に迫っていました。
第一軍司令官・山縣有朋はこれに危機感を感じ、独断で「海城」まで進軍を開始します。
この頃になるとイギリスなどが日清戦争終結のための仲裁を申し出てきます。
清における自国の利権を守り、日本がこれ以上大陸に進出してくるのを防ぐためです。
そういった背景のもと、日本は清との講和を有利に進めるためには、もうワンパンチ必要だと考えていました。
まずは海城を攻略して遼河平原まで進出し、首都である北京目前まで軍を進めておく事。
これは将棋でいうなら「王手」の状態です。
そして威海衛(いかいえい)に引きこもっている傷だらけの北洋艦隊に止めを刺し、海軍力を喪失させる事。
さらに台湾を占領する事。
「海城」は清にとって交通の要衝であったため、第一軍が占領した後も度重なる反撃を受けました。
遼河平原には清の大軍が配備されており、激戦が繰り広げられました。
両軍共に損害を出しつつも3月には制圧に成功し、北京攻略のための「直隷決戦」の準備が進められていきます。
第二軍は「黄海海戦」で傷ついた北洋艦隊の残党を叩き潰すために威海衛へ向かいました。
威海衛の守りは、海側に比べて陸側が弱かったため、日本軍は陸と海から北洋艦隊を挟み撃ちにします。
汝昌提督は、配下の兵達の助命を引き換えに降伏し、服毒自殺します。
「威海衛攻略」によって海軍力を低下させ、「遼河平原制圧」と「直隷決戦の準備」を進め、まさに清は喉元に切っ先を突きつけられている状態となりました。
そして1895年3月、清国の全権大使として李鴻章が下関に到着、和平交渉が開始されます。この和平交渉において欧米列強の関心はたった一つです。
「日本が清国本土の領土を割譲するのか」
当時の清といえば、世界全土を植民地化してきた列強が最後に群がる巨大市場だったのです。
列強はいかに清国から利益を貪ろうかと目を光らせており、日本がその利権争いに参戦することなど決して許される事ではありませんでした。
だからこそ日本は、清が「化外の地」と呼び関心を示さない「台湾」を割譲しようとしたのです。