2019年6月3日月曜日

日清戦争7 虐殺って何ですか?

平壌の戦いの勝利で朝鮮半島から清軍を駆逐し、黄海海戦の勝利によって黄海の制海権を得た日本軍は、いよいよ清国領内へと侵攻します。
朝鮮と清国の国境には、「鴨緑江(おうりょくこう)」という河があります。
日本軍は、鴨緑江を渡河して首都・北京を目指す「第一軍」と、海上輸送の根拠地確保のために旅順を目指す「第二軍」に分かれる事になりました。
10月中旬、清軍は日本軍の渡河を阻止するべく、鴨緑江の対岸に30000の兵と90門の大砲を配備し、迎え撃ちます。
しかしその大部隊の内、10000の兵は平壌からの敗残兵であり、2000名の負傷者を含む、統率の取れない軍隊でした。
日本軍は清軍の激しい抵抗にあい34名の死者を出しますが、なんとか橋を作り鴨緑江渡河に成功、対岸の敵陣地を占拠しました。
鴨緑江に架けられた橋

清国領内に進出した日本軍は「九連城」を目指しますが、日本軍に恐れをなした清軍はすでに退却しており、無血開城となります。
その後、第一軍は鴨緑江河口の「大東溝」、内陸部の「鳳凰城」を占領して行きました。
このように第一軍が内陸部に進出して清軍の相手をしている隙に、第二軍は遼東半島の「花園口」に上陸し、旅順を目指します。
その結果、第二軍は一ヶ月足らずで旅順を制圧しました。
日本軍の戦死者40名に対し、清軍は4500名という圧倒的な勝利でした。
しかしこの「旅順攻略」において、大問題が生じてしまいます。
「旅順虐殺事件」です。
1894年11月18日、旅順近郊へたどり着いた日本軍は清軍と戦闘を開始します。
11月21日には旅順を制圧、この日以降、数日間に渡り日本軍は掃討戦にかかります。
問題となったのは、この「掃討戦」での出来事でした。
この数日後、「タイムズ」紙が「日本軍は清国民間人を二百名ほど殺傷した」と報じたのです。
この記事はすぐに「セントラル・ニューズ」紙によって反論、否定されますが、12月12日にアメリカの従軍記者ジェームズ・クリールマンが「ニューヨーク・ワールド」紙に寄稿した記事はショッキングなものでした。
『日本軍部隊は十一月二十日旅順に入り、冷血にもほぼ全人口を虐殺した。
無防備で武器を持たぬ住民は住居で惨殺され、むごたらしく手足を切断された。
殺数はまったく抑制もなく三日間も続けられた。
全市は目を覆う残虐行為の巷と化した。
日本文明の最初の汚点である。
この瞬間、日本人は野蛮社会に逆戻りしたのである。
状況がこの残虐行為を正当化したとする口実はすべて欺隔である。
文明世界は詳報におののくであろう。
この情景に恐れをなした外国人従軍記者たちは、一丸となって日本軍のもとを離れた』
この報道によってアメリカ国内では日本との不平等条約の改正を延期すべきだという世論が沸き起こりました。
この「旅順虐殺事件」が物議を醸したのは、組織的戦闘が終わった後の掃討戦についてです。
日本軍第二十四連隊の軍曹の手記によると、
「夜明けて敵の敗兵十三名を捕す。然れども、下士哨にて悉くにて之を刺殺す、予も三人やりつけたり」
「敗残の負傷者毎戸二、三人つつ在らさるなし。皆刀を以て首を切り、或いは銃剣以て突き殺したり。」
などと書いてあり、日本軍による「過度な掃討戦」「捕虜の処刑」「民間人の巻き添え」は実際にあったのではないかと考えられます。
現在、支那共産党は虐殺の被害者数を「一万八千」と誇大に主張していますが、証言などを参考すれば200〜2000の範囲内でその数にばらつきがあります。
問題は、「なぜそのような事が起きたのか?」という事です
日清戦争において、日本軍が行軍の途中で見てきた同胞の遺体は過度に損傷していました。
日本兵の遺体は首や手足を切断、耳や鼻を削ぎ落とされた状態で発見されていました。
明らかに戦闘での傷ではなく、生きながら火あぶりにされた負傷兵もいました。
11月18日に発見された遺体の状況は特に凄惨でした。
首は切断されて見当たらず、手足は断たれ、腹を割かれて内臓は取り出され、代わりに石が詰め込まれており、性器も切断されていたのです。
そういった陵辱行為には現地民間人も加担していたようで、日本軍兵士の怒りを買いました。
それゆえに山地元治師団長は、「土民といえども我が軍に抵抗するものは残らず殺すべし」と命令してしまったのです。
そのような状況下で、清軍兵士たちは自軍が負けそうになると、真っ先に軍服を脱いで逃げ出しました。
実際に、日本兵たちは大量に脱ぎ捨てられた軍服を目にしています。
そして軍服を脱いだ清兵たちは民間人に紛れ込んで便衣兵となり、旅順市内でゲリラ戦を展開したのです。
第二軍司令官・大山巌大将も敵兵と非戦闘員の区別がつかなかった事を認めていますが、そのような状況で日本軍はどう戦えばよかったのでしょうか?
伊東博文首相はこの事件について次のように正式に弁明しています。
1・清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
2・旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
3・住民は交戦前に逃亡していた。
4・逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
5・日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
6・日本側は軍紀を守っていた。
7・クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
8・旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。
この弁明はアメリカで好意的に受け止められました。
フランスの国際学者「ポール・フォーシュ」ベルギー 公使「アルベール・タネタン」、フランス公爵「ラブリ子爵」など、これらの各国の要人たちは旅順虐殺そのものすら否定し、米国駐日公使の「エドウィン・ダン」は、詳しく調査した上で、ジェームズ・クリールマンが記事にしたような虐殺はなかったと結論づけています。
エドウィン・ダン
ジェームズ・クリールマン
ジェームズ・クリールマンはもともと、過激な記事を書いて世論を煽るのが得意で、スペイン人の残虐性を誇張して報道し、米西戦争を引き起こすのに一役買ったこともあるのです。
彼の報道内容には信憑性がないと判断されました。
これらの西洋人が日本を擁護したことによって、国際世論の日本への批判は収まりました。
この「旅順虐殺」について日本に何か責任があるとすれば、政府が責任追求を恐れてこの件をうやむやにしようとした事だと私は思います。
「旅順虐殺」の構図は、後の支那事変における「南京大虐殺」という虚構と同じなのです。
ここで対策を講じていれば、虐殺事件をでっち上げられる事もなかったのかもしれません。
近代国家としてのデビュー戦である日清戦争で、日本軍は国際法を大切に守りました。
当時の日本は未だ小国、列強と渡り合うために不要な批判は避けなければならなかったのです。
最後に一つ申し上げておきますと、日清戦争で清に捕虜として捕らえられ、生きたまま引き渡された日本兵はたったの「1名」です。
他は全員殺されました。
「虐殺って何ですか?」