2019年6月2日日曜日

日清戦争6 連合艦隊VS北洋艦隊

日清戦争開戦の直前、日本は大院君を迎え入れて朝鮮に新政権を樹立させました。
そして日本は改革案を提示し、朝鮮政府に内政改革を促します。
その結果、日清戦争中に改革が行われる事になりました。
その内容は
・清の年号の使用の禁止
・科挙の廃止
・身分制度、奴隷制の廃止
・人身売買の禁止
・拷問の禁止
・女性の再婚を許可
・物量の単位の統一
などなど、ここに挙げられている条項を見ただけでも、李氏朝鮮という国がいかに前近代的であった事が伺えます。
しかしこの「甲午改革」ですが、いっこうに進められることはありませんでした。
朝鮮の政権内部で対立がおき、日清戦争の終結とともに親日派の影響力は失われる事になります。
さて「豊島沖海戦」「成歓の戦い」に日本軍は連勝しました。
そして成歓の戦いで敗れた清軍の敗残兵は北上し、平壌まで来ていた清軍の増援部隊と合流します。
平壌に集結し、今にも南下しようとする清の大軍に大院君は怖気付きました。
第五師団長・野津道貴は、朝鮮政府をこれ以上動揺させないためにも早期に平壌攻略が必要と判断し、日本軍の北進を強行せざるをえませんでした。
この時、日本軍は兵站の整備が間に合っておらず、補給が追いつかないため食料を現地朝鮮人からの提供に頼って進軍したと言われています。
もっとも、何しろ貧しい朝鮮の土地です。
自分たちが食べる食料すらままならない状況において、食料を提供しなけらばならないという現実は、日本軍に対する反発も招いた事でしょう。
補給、兵站については日本軍の今後の課題となりました。
食料の備蓄に乏しい日本軍は短期決戦を挑みます。
城塞都市平壌に陣を構える清軍は、日本軍に包囲された事を知ると動揺し、葉志超提督は「城を捨てて北方へ退却しよう」と提案しました。
それを聞いた左宝貴将軍は葉提督を監禁し、徹底抗戦の構えを見せます。
平壌の戦い
左宝貴将軍
しかし提督の拘束によって司令官がいなくなった清軍は、各将軍の判断で行動せざるをえず、1日で平壌は陥落しました。
左宝貴将軍は隠れることなく自ら先頭に出て戦死しましたが、彼が倒れた場所は日本人の手によって柵が組まれ、「奉天師団総司令官左宝貴ここに死す」「平壌にて日本軍と戦うも、戦死」と刻まれた慰霊碑が作られました。
左宝貴将軍が倒れた門
さらに負傷し命を取り留めた清兵は、日本軍によって丁寧に治療が施されたようです。
この「平壌の戦い」に勝利した日本は、朝鮮半島から清軍を排除することに成功しました。
しかし朝鮮半島を制圧したとはいえ、清軍の北洋艦隊を叩かねば手放しで喜ぶことができません。
朝鮮半島を超えて清国領内に侵攻しようとする日本にとって、北洋艦隊を叩いて黄海の制海権を握り、遼東半島の大連にある旅順軍港を確保しなければ、補給線が朝鮮半島南部からの陸路になってしまい、兵站が伸び切ってしまうのです。
一方、陸戦での連敗を知った清の皇帝・光緒帝は、北洋大臣の李鴻章に北洋艦隊の出撃を命じました。
流石に皇帝の命令を無視することはできず、丁汝昌提督に命じて平壌へ4000の援軍を船団に乗せて送ることにしました。
そしてその護衛として、北洋艦隊の主力14隻を出航させたのです。
この知らせを受けて、伊東祐亨司令官は12隻の連合艦隊を出撃させます。
連合艦隊の4000トン級の三景艦「松島」「厳島」「橋立」北洋艦隊の7000トン級の「定遠」「鎮遠」互いの主力艦がついに激突することになりました。
この当時の海戦の常識として、戦艦が木造から鉄製の「装甲艦」に移行した事により、艦載砲の砲撃のみでは敵艦を撃沈させる事は不可能である、とされていました。
そこで、艦首の底部を角状に尖らせた「衝角」を装着し、敵艦に体当たりする「衝角戦」事が有効であり、敵に側面を見せる事は命取りになっていました。

さて、日本が巨額を投じてフランスに設計を依頼し発注した「三景艦」ですが、実は本当は4隻作る予定でした。
完成した松島を見て「こりゃダメだ」と判断した日本海軍が4隻目をキャンセルしたのです。
4000トン級の船体なのに、7000トン級の「定遠」よりも大きな32センチ砲を搭載していたのです。
この巨砲を発射するたびに、船首の方向がズレて、砲塔を旋回させれば船が傾くというお粗末なものでした。
しかも松島は、主砲がなぜか後ろ向きに設置されていたのです。
しかしこの三景艦には打倒「定遠」「鎮遠」のために国力を投じて作られ、国の命運が託されていました。
日本海軍は秘策を講じました。
9月17日、日本連合艦隊と清国北洋艦隊は互いにその煤煙を確認し、攻撃態勢を整えます。
敵艦の煤煙を視認
北洋艦隊は定遠、鎮遠を中心に10隻を「横一列」に並べました。
この戦法は当時の正攻法です。
艦首に備えた主砲で攻撃しながら突進し、衝角で体当たりする衝角戦に持ち込むのです。
一方の連合艦隊は、北洋艦隊とは逆に「縦一列」に並びました。
双方とも大きな戦闘旗を掲げ、北洋艦隊の船体は黒に、連合艦隊は灰色に塗られていました。
連合艦隊の縦列は、北洋艦隊の進路に対し、向かって右から左へ横切ります。

距離5800mの時点で定遠の艦首主砲が火を吹き、海戦が始まりました。
横一例に並んだ北洋艦隊の一斉砲撃に晒される連合艦隊でしたが、先頭艦「吉野」の司令官・坪井少将は砲撃を許可せず、全速力で北洋艦隊の前を横切ります。
そして北洋艦隊の右側に回り込み、距離3000mまで近づいた時に敵右翼端の「揚威」「超勇」に一斉放火を浴びせます。艦の側方に備え付けられたアームストロング速射砲による猛烈な射撃により、超勇は炎上し1時間後に沈没、揚威も戦闘不能になり放棄されました。

三景艦の主砲が役に立たないと悟った日本海軍は、主砲同士の打ち合いと衝角による突撃戦法では分が悪いと判断し、機動力を生かして艦側方の速射砲で敵艦の戦闘能力を奪う、という戦法を練っていたのです。
北洋艦隊は衝角戦に持ち込むべく突進を試みますが、速度に勝る連合艦隊に接近する事ができません。
ここで、北洋艦隊の後方に控えていた4隻も戦場に接近し、本体との合流を試みましたが、連合艦隊が近づいてくるのが見えると逃げ帰ってしまいます。

連合艦隊の中でも最後尾の「比叡」「扶桑」は旧式のため、連合艦隊から遅れを取り、本体に合流できずに取り残されました。
そこへ北洋艦隊の「定遠」「経遠」が比叡に衝角攻撃をしようと突撃をしてきましたが、比叡はなんと両艦の間をすり抜ける敵中突破を試みました。
比叡は集中攻撃を浴び、敵艦をすり抜ける事はできましたが、戦闘不能となって離脱します。
「扶桑」は、比叡に攻撃が集中している間に本隊を追うことができました。
その後も互いに損害を出しつつも連合艦隊の猛攻は続き、激しい十字砲火により定遠で火災が発生し、「済遠」は逃亡し戦線を離脱、「致遠」は傷つきながらも最後まで日本艦に突撃しようとして艦首から沈んで行きました。

しかしその後、北洋艦隊の最強艦「鎮遠」の30cm砲が連合艦隊の旗艦「松島」に直撃、大破炎上します。
松島艦内の惨状

その後も砲撃戦は続けられ「経遠」も撃沈。
これによって定遠、鎮遠ら北洋艦隊は旅順港へ退却しました。
「松島」乗組員の三浦虎次郎三等水兵は深く傷を負い、通りがかった向山慎吉少佐に息も絶え絶えになりながら「まだ定遠は沈みませんか」と問いかけました。
向山少佐が「定遠は戦闘不能に陥ったぞ」と答えると、三浦水兵は息を引き取ります。
この水兵の死は新聞で報道され、「勇敢なる水兵」という軍歌が作られました
『勇敢なる水兵』
呼びとめられし副長は 
彼のかたへにたたずめり
声をしぼりて彼は問ふ 
まだ沈まずや定遠は
まだ沈まずや定遠は
この言の葉は短くも
御国を守る武士の 
胸にぞ深く刻まれぬ

北洋艦隊は3隻撃沈、2隻喪失、死者850名
連合艦隊撃沈なし、大破3隻、死者298名
この海戦の勝利によって日本は黄海の制海権を勝ち取り、いよいよ清国領内へ進出する事になりました。しかしまだ、日本海軍最大のライバルである「定遠」と「鎮遠」を撃破することはできていませんでした。