これまで人として扱われてこなかった朝鮮の農民達は、「東学」という宗教のもとに団結し、立ち上がりました。
そして次々に李氏朝鮮軍を撃破していきます。
朝鮮軍は農民にすら勝てず、この「東学党の乱」は、もはや李氏朝鮮の手におえる案件ではなくなってしまいました。
そこで閔妃は清に援軍を頼みます。
そして日本もまた、日本人居留民を保護するために朝鮮へ派兵しました。
1894年6月5日、清の巡洋艦2隻が仁川へ到着し、翌日に日本に派兵を通告しました。
これは天津条約の「朝鮮へ出兵する際は互いに通知し合う」という取り決めによるものでしたが、清は事前通知ではなく事後報告という形をとりました。(これを条約違反とするかどうかは様々な解釈があります)
6月7日、日本も清に対し出兵を事前通知します。
6月10日、海軍陸戦隊と警官を首都・漢城へ入らせますが、その数はわずか430名でした。
しかし、この6月10日に、朝鮮政府は反乱軍である農民達の条件を飲み、東学党の乱を沈静化させてしまいました。これによって日清双方とも、派兵理由を失ってしまいます。
しかしそれでも清軍は漢城の南にある牙山市に陸軍2300名を集結させ、撤兵を拒みました。
これに対し日本軍も仁川に4000名の軍を増派します。
日清両軍、共に朝鮮からの撤兵要求を受け入れませんでした。
当時日本政府は衆議院を解散したばかりで総選挙を控えていたのです。
日本は派兵理由を「居留民の保護」から「朝鮮政府改革のための圧力」に変更します。
日本は清に対し、共同で朝鮮の内政改革を進めようと提案しましたが、清はこの案に乗ってきませんでした。
日本は東学党の乱の根本的な原因である朝鮮政府を変えなければ撤兵はできないとして、強硬姿勢を強めます。
清からすれば、属国である朝鮮に日本が介入してくる事は受け入れられなかったのでしょう。
「朝鮮は独立国であり、日本は内政干渉するな」と反論します。
この国の外交姿勢は、今も昔も一貫して「お前が言うな」と言いたくなります。
一触即発状態の朝鮮半島には、列強も注視していました。
ロシアも朝鮮半島へ軍事介入したかったのでしょうが、シベリア鉄道が未完成だったため、兵力を東方へ送り込むことができませんでした。
そのため、日本に対して撤兵を要求するにとどまり、日本はこれを突っぱねました。
イギリスもまた、ロシアを牽制すべく朝鮮半島問題に首を突っ込みます。
明治政府は、陸奥宗光を中心に「不平等条約」の改正に取り組んでおり、その交渉が進んでいたのでイギリスのいう事を無視することはできませんでした。
イギリスは日清両国の仲裁を試みますが、清が要求に応じなかったため、日本は清を非難し「第二次絶交書」を送りつけます。
清に対する国交断絶です。
清の皇帝・光緒帝はこれに激怒し、大臣である李鴻章に開戦を指示しました。
しかし李鴻章は戦争回避を模索していたため、牙山に集結する清軍に撤兵するように電信します。
しかし牙山の清軍は撤退を拒否し、逆に2300名の清軍が牙山に向けて増派される事になりました。
7月16日、日本とイギリスとの間で「日英通商航海条約」が結ばれました。
明治政府にとって悲願の「治外法権の撤廃」を成し遂げたのです。
これによってイギリスの干渉を気にしなくてもよくなった日本は、朝鮮に対して強硬に働きかける事になりました。
日本政府は朝鮮に対して具体的な内政改革案を提示しましたが、朝鮮の閔妃は、清との関係を重視してこれを拒否します。
「朝鮮は変わらない」と考えた日本は朝鮮王宮を武力制圧し、大院君を担ぎ上げて新政権を樹立させました。
これによって日本軍は清軍と戦う大義名分を得ることができました。
そして清が牙山に対して増派を差し向けている情報を察知すると、それを阻止するために連合艦隊を差し向けます。
7月25日、両国間での宣戦布告こそないものの、国交を断絶した上で互いに開戦意思をもち、法的には戦争状態に入っていました。
朝鮮半島西岸で日本の巡洋艦3隻が清国の巡洋艦2隻と遭遇します。
清国の巡洋艦は、牙山への輸送船を迎えに行くところでした。
どちらが先に攻撃を仕掛けたかは不明ですが、互いが距離3000mまで近づいた時、戦闘が始まります。
この「豊島沖海戦」において、重大な国際問題が発生します。
清はイギリス商船「高陞号(こうしょうごう)」を使って清兵を輸送していたのですが、日本艦「浪速」の船長「東郷平八郎」は、イギリス人船員を脱出させた上で高陞号を撃沈したのです。
イギリス商船を撃沈し、船員も数名犠牲になった事で、日本は国際世論の非難を浴びる事になりました。
日本政府はイギリスが清側に回らないかと動揺しましたが、東郷平八郎は臆する事なく「私がやった事は正しい」と主張しました。
事実、日本軍の行動には国際法において何の問題もなく、国際法の権威であるイギリス人博士二名が日本を擁護したため、騒動は沈静化されたのです。
さて、既に上陸していた増援隊によって、牙山の清軍は4000名近くにまで増えていました。
日本軍の死者は34名だったのに対し、清軍の死傷者は500を超え、日本軍は勝利しました。
この戦いで英雄となったのが「木口小平」二等兵です。彼は被弾し、死亡しながらも突撃ラッパを口から離しませんでした。
「豊島沖海戦」「成歓の戦い」が終わった後、8月1日に日清両国から宣戦布告が出されました。
「宣戦布告」をしたか、していないか、現在ではそういった事が問題として取りざたされる事が多いのですが、この当時、宣戦布告など何の意味もありません。
先手を打つ事ができるかできないか。先手を打たせて相手の出方を見るか。
「先制攻撃」は国の存亡をかけた腹の探り合いです。
それに対応できない国はただの「マヌケ国家」でしかなく、滅びゆく運命なのです。
そして当時の日本もそういった局面のギリギリの所で国を動かしていたのです。
話は変わりますが、明治天皇は日清戦争に反対だったと言われています。
それは明治天皇が出された日清戦争の宣戦布告文「清国ニ対スル宣戦ノ勅書」の最後の文から読み取れる事ができます。
「事は既に、ここまできてしまったのである。余は、平和であることに終始し、それをもって、帝国の栄光を国内外にはっきりと顕現させることに専念しているのではあるけれど、その一方で、公式に宣戦布告せざるをえない。」
陛下の意思とは裏腹に、日清戦争は続いて行く事になります。