江戸時代も末期、日本では明治維新が起きようかとしていた頃、アジアの大国「清」は、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱などが立て続けに起き、かつてない混乱に陥っていました。
しかし咸豊帝にはこの混乱を収める力などなく、英仏軍の進撃によって首都・北京を離れて熱河地方へ退避することになりました。
この咸豊帝には二人の正室がいましたが、どちらにも子供ができませんでした。
そして避難先の熱河で結核にかかり、30歳で死去してしまいます。
側室から皇帝が出たため、古いしきたりにより正室が新皇帝の継母になり、「慈安皇太后(じあんこうたいごう)」を名乗ります。
一方、側室であり同治帝の本当の母である「懿貴妃」は「慈禧皇太后(じきこうたいごう)」となりました。
つまり、二人の皇太后(皇帝の母)が存在する事になったのです。
皇帝の宮殿である「紫禁城」を挟んで東側に住んだ慈安皇太后は「東太后」、西側に住んだ慈禧皇太后は「西太后」と呼ばれる事になります。
ところで、同治帝が皇帝に即位したのは1861年、まだ6歳の時でした。
東太后 |
恭親王 |
(三頭政治)同治帝は結局、皇帝としての実権を握る事がないまま、19歳で病死し、後継ぎもいませんでした。
自分の子供が後継も残さず死去した事によって、西太后は自分の権力が揺らぐ事を恐れます。
そこで自分の「妹」が生んだ子供を「光緒帝」として第11代皇帝に即位させるのです。
光緒帝はこの時まだ3歳でした。
こうして西太后が権力の中枢に居座り続ける中、東太后が急死します。
明らかな病状がなく、西太后による毒殺説がささやかれました。
そして西太后は三頭政治の一角を担っていた恭親王をも失脚させ、清朝における絶対的な地位を手にしたのです。
光緒帝が成長しても、西太后の傀儡である事に変わりはなく、光緒帝は伯母である西太后から独立し、自ら親政する事を望むようになります。
結局、光緒帝は16歳の時に西太后の指導を受けるという条件で親政を許されました。
しかし日清戦争に敗北し、朝鮮への影響力を失い、北洋艦隊も失い、列強国に食い荒らされ、清は完全に衰退しました。
国勢の回復を願った光緒帝は、明治維新に倣って急進的な改革を進めようとしましたが、保守派の官僚たちの支持を得ることができず、逆に西太后への支持が高まってしまいます。
光緒帝による改革、「戊戌の変法」を推進する変法派は、西太后を幽閉する事を計画しますがバレてしまい、逆に光緒帝が西太后に監禁されてしまいます。
こうして再び西太后が実権を握ることになりますが、ここで清国崩壊に歯止めが効かなくなる「とどめ」を指すような事件が起こります。
「義和団事変」です。
日清戦争の後、清国の領土はあっという間に各国の勢力圏に飲み込まれて行きましたが、その中で「山東省」に進出してきたのはドイツでした。
そしてキリスト教が広められ、教会を建てる為に住民を強制移住させるなどの土地問題が多く起きていました。
山東省には孔子の生誕の地があり、これは言わば「儒教の聖地」です。
キリスト教の布教に対して強い反発が起こるのも当然です。
山東省では様々な武術組織が自警団のような役割を担っており、彼らはキリスト教と一般市民との間に起きた問題に武力介入をしはじめます。
要するに、非武装の神父たちを殴り殺すのです。
この武術集団によるキリスト教弾圧運動は拡大して行き、やがて宗教的な求心力を持ち始めました。
「義和拳」を名乗った彼らの強さの話には尾ひれがついて、「銃弾をも通さない鋼の肉体を手に入れることができる」と言う話が広まり、その強さに惹かれた大勢の民衆が門下生となり、巨大な武闘集団となりました。
これが「義和団」です。
彼らはキリスト教の施設や、信者達から金品を強奪して行き、その行為は「ドイツの圧政から立ち上がった義和拳」と頼もしく捉えられ、民衆の支持を得ます。
清朝の軍人、「袁世凱」は欧米の要求に応じて義和団を弾圧しましたが、山東省から逃げ出した義和団はより広い地域に広がってしまい、弾圧は逆効果となりました。
「扶清滅洋(清を助け、洋を滅ぼす)」を掲げた義和団は北京周辺にも溢れかえり、失業者や難民などを吸収して20万人にも膨れ上がります。
清朝政府はこの事態に揺れていました。
清に進出している西欧列強を刺激しない為にも、義和団を「反乱軍」とみなし討伐すべきか、民衆の支持を得た義和団を利用し、諸外国を清から排除すべきか。
西太后は、数で圧倒する義和団が優勢と考え、彼らを利用する事を決め、反対派を処刑します。
そして1900年6月10日、北京へやってきた義和団を西太后は正規軍として迎え入れました。
北京に入城した義和団は暴徒化し、無差別に略奪・暴行を加えるようになります。
この時、日本公使館の書記生「杉山彬」が義和団に虐殺されてしまいました。
その遺体は両手両足を切断され、口・鼻・耳・指を切り落とされ、背中の皮を剥がれ、心臓を取り出されるという悲惨なものでした。
義和団は10万の清軍と合流して30万の兵力となり、北京の公使館区域を包囲します。
ここには3000人のキリスト教徒、8カ国の兵士400人と、500人の外国人民間人が避難していました。
日本・ロシア・イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・イタリアの8カ国は、「8カ国連合軍」を派兵します。
これに対し西太后は列強国へ宣戦布告をしました。
「義和団事変」の始まりです。
義和団を鎮圧し、自国民と権益を守る為に北京を目指す8カ国連合軍でしたが、各国の足並みは揃わず、進軍速度は遅かったようです。救援隊がいつ来るのかわからない状態で、包囲された公使館区域の中にいた各国の兵を指揮したのは、日本公使館武官の「柴五郎中佐」でした。
柴中佐は会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれ、戊辰戦争の際に母・祖母・姉妹を失っています。
会津の落城後は下北半島へ送られ、飢えと寒さで死線をさまよい、死んだ犬の肉を食らって命を永らえたという壮絶な生い立ちを持っていました。
「明治政府の朝敵」というレッテルを貼られながらも、類い稀な努力と資質によってのし上がってきた人物なのです。
義和団事変が起きたのは柴中佐が北京へ着任して三ヶ月も立たない頃でした。
柴中佐は事前に北京の地理を調べ尽くしており、情報網を築き上げていました。
そして柴中佐の指揮の下、日本兵達は各国と連携を取りながら55日間にも及ぶ籠城戦を戦い、居留民を守り抜いたのでした。
日本兵は最も攻撃の激しかった場所を守った為、戦死率は他国を圧倒する20%でしたが、その戦いぶりは各国から賞賛されました。
柴中佐の指揮下で働いたイギリス人義勇兵シンプソンは、
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれている」
「彼の奴隷になってもいい」
と柴中佐に心服しています。
柴中佐のみならず日本兵達は皆、軍規乱れぬ戦いぶりをみせ、日本の国際的信用度は上がりました。
日本軍の勇猛な戦いぶりを目の当たりにした公使館区域の外国人婦人達は皆、日本兵のファンになったと言います。
籠城から二ヶ月経ち、食料も尽きて餓死者が出始めた頃、ようやく北京へ援軍が到着し、籠城戦は終わりを告げました。
この義和団事変は「北清事変」とも呼ばれています。
文字通り、戦局が清の北部で限定されていたのです。
もし、柴五郎がいなかったら、日本軍がいなかったら、公使館区域の各国の居留民は惨殺されていたかもしれません。
そうなると事態は「北清」どころでは済まなかった事でしょう。
柴五郎は後に、イギリスのヴィクトリア女王を始め各国から勲章を授与され、さらに明治天皇に北京籠城の報告をする名誉が与えられました。
戊辰戦争において明治新政府に「朝敵」とされていた会津藩の汚名を、柴五郎が晴らしたのです。
さて、義和団事変は8カ国連合の勝利となりましたが、その戦後処理で連合国が清に要求した賠償額はなんと清の国家予算の8倍でした。
しかし一番多くの兵を出し、犠牲を払った日本の取り分はわずか8%でした。
各国とも、清に居留する自国民を保護するために駐留軍を置く事が定めた「北京議定書」が締結されます。
これによって、清の植民地化はさらに進み、中華王朝のプライドは見る影もなくなってしまうのでした。
そしてここに来て大問題が起こります。
義和団事変が終わっても、ロシア軍が満州から兵を退かないのです。
これは事実上の占領でありました。
ロシアの南下を警戒していた日本とイギリスに緊張が走りました。
こうして日本は日露戦争へと歩んで行くのです。
自分の子供が後継も残さず死去した事によって、西太后は自分の権力が揺らぐ事を恐れます。
そこで自分の「妹」が生んだ子供を「光緒帝」として第11代皇帝に即位させるのです。
光緒帝はこの時まだ3歳でした。
光緒帝 |
こうして西太后が権力の中枢に居座り続ける中、東太后が急死します。
明らかな病状がなく、西太后による毒殺説がささやかれました。
そして西太后は三頭政治の一角を担っていた恭親王をも失脚させ、清朝における絶対的な地位を手にしたのです。
光緒帝が成長しても、西太后の傀儡である事に変わりはなく、光緒帝は伯母である西太后から独立し、自ら親政する事を望むようになります。
結局、光緒帝は16歳の時に西太后の指導を受けるという条件で親政を許されました。
しかし日清戦争に敗北し、朝鮮への影響力を失い、北洋艦隊も失い、列強国に食い荒らされ、清は完全に衰退しました。
国勢の回復を願った光緒帝は、明治維新に倣って急進的な改革を進めようとしましたが、保守派の官僚たちの支持を得ることができず、逆に西太后への支持が高まってしまいます。
光緒帝による改革、「戊戌の変法」を推進する変法派は、西太后を幽閉する事を計画しますがバレてしまい、逆に光緒帝が西太后に監禁されてしまいます。
こうして再び西太后が実権を握ることになりますが、ここで清国崩壊に歯止めが効かなくなる「とどめ」を指すような事件が起こります。
「義和団事変」です。
日清戦争の後、清国の領土はあっという間に各国の勢力圏に飲み込まれて行きましたが、その中で「山東省」に進出してきたのはドイツでした。
山東省 |
そしてキリスト教が広められ、教会を建てる為に住民を強制移住させるなどの土地問題が多く起きていました。
山東省には孔子の生誕の地があり、これは言わば「儒教の聖地」です。
キリスト教の布教に対して強い反発が起こるのも当然です。
山東省では様々な武術組織が自警団のような役割を担っており、彼らはキリスト教と一般市民との間に起きた問題に武力介入をしはじめます。
要するに、非武装の神父たちを殴り殺すのです。
この武術集団によるキリスト教弾圧運動は拡大して行き、やがて宗教的な求心力を持ち始めました。
「義和拳」を名乗った彼らの強さの話には尾ひれがついて、「銃弾をも通さない鋼の肉体を手に入れることができる」と言う話が広まり、その強さに惹かれた大勢の民衆が門下生となり、巨大な武闘集団となりました。
これが「義和団」です。
義和団 |
彼らはキリスト教の施設や、信者達から金品を強奪して行き、その行為は「ドイツの圧政から立ち上がった義和拳」と頼もしく捉えられ、民衆の支持を得ます。
清朝の軍人、「袁世凱」は欧米の要求に応じて義和団を弾圧しましたが、山東省から逃げ出した義和団はより広い地域に広がってしまい、弾圧は逆効果となりました。
「扶清滅洋(清を助け、洋を滅ぼす)」を掲げた義和団は北京周辺にも溢れかえり、失業者や難民などを吸収して20万人にも膨れ上がります。
清朝政府はこの事態に揺れていました。
清に進出している西欧列強を刺激しない為にも、義和団を「反乱軍」とみなし討伐すべきか、民衆の支持を得た義和団を利用し、諸外国を清から排除すべきか。
西太后は、数で圧倒する義和団が優勢と考え、彼らを利用する事を決め、反対派を処刑します。
そして1900年6月10日、北京へやってきた義和団を西太后は正規軍として迎え入れました。
北京に入城した義和団は暴徒化し、無差別に略奪・暴行を加えるようになります。
この時、日本公使館の書記生「杉山彬」が義和団に虐殺されてしまいました。
その遺体は両手両足を切断され、口・鼻・耳・指を切り落とされ、背中の皮を剥がれ、心臓を取り出されるという悲惨なものでした。
義和団は10万の清軍と合流して30万の兵力となり、北京の公使館区域を包囲します。
ここには3000人のキリスト教徒、8カ国の兵士400人と、500人の外国人民間人が避難していました。
日本・ロシア・イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・イタリアの8カ国は、「8カ国連合軍」を派兵します。
八カ国連合 |
これに対し西太后は列強国へ宣戦布告をしました。
「義和団事変」の始まりです。
義和団を鎮圧し、自国民と権益を守る為に北京を目指す8カ国連合軍でしたが、各国の足並みは揃わず、進軍速度は遅かったようです。救援隊がいつ来るのかわからない状態で、包囲された公使館区域の中にいた各国の兵を指揮したのは、日本公使館武官の「柴五郎中佐」でした。
柴五郎 |
柴中佐は会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれ、戊辰戦争の際に母・祖母・姉妹を失っています。
会津の落城後は下北半島へ送られ、飢えと寒さで死線をさまよい、死んだ犬の肉を食らって命を永らえたという壮絶な生い立ちを持っていました。
「明治政府の朝敵」というレッテルを貼られながらも、類い稀な努力と資質によってのし上がってきた人物なのです。
義和団事変が起きたのは柴中佐が北京へ着任して三ヶ月も立たない頃でした。
柴中佐は事前に北京の地理を調べ尽くしており、情報網を築き上げていました。
そして柴中佐の指揮の下、日本兵達は各国と連携を取りながら55日間にも及ぶ籠城戦を戦い、居留民を守り抜いたのでした。
日本兵は最も攻撃の激しかった場所を守った為、戦死率は他国を圧倒する20%でしたが、その戦いぶりは各国から賞賛されました。
柴中佐の指揮下で働いたイギリス人義勇兵シンプソンは、
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれている」
「彼の奴隷になってもいい」
と柴中佐に心服しています。
柴中佐のみならず日本兵達は皆、軍規乱れぬ戦いぶりをみせ、日本の国際的信用度は上がりました。
日本軍の勇猛な戦いぶりを目の当たりにした公使館区域の外国人婦人達は皆、日本兵のファンになったと言います。
籠城から二ヶ月経ち、食料も尽きて餓死者が出始めた頃、ようやく北京へ援軍が到着し、籠城戦は終わりを告げました。
この義和団事変は「北清事変」とも呼ばれています。
文字通り、戦局が清の北部で限定されていたのです。
もし、柴五郎がいなかったら、日本軍がいなかったら、公使館区域の各国の居留民は惨殺されていたかもしれません。
そうなると事態は「北清」どころでは済まなかった事でしょう。
柴五郎は後に、イギリスのヴィクトリア女王を始め各国から勲章を授与され、さらに明治天皇に北京籠城の報告をする名誉が与えられました。
戊辰戦争において明治新政府に「朝敵」とされていた会津藩の汚名を、柴五郎が晴らしたのです。
さて、義和団事変は8カ国連合の勝利となりましたが、その戦後処理で連合国が清に要求した賠償額はなんと清の国家予算の8倍でした。
しかし一番多くの兵を出し、犠牲を払った日本の取り分はわずか8%でした。
各国とも、清に居留する自国民を保護するために駐留軍を置く事が定めた「北京議定書」が締結されます。
これによって、清の植民地化はさらに進み、中華王朝のプライドは見る影もなくなってしまうのでした。
そしてここに来て大問題が起こります。
義和団事変が終わっても、ロシア軍が満州から兵を退かないのです。
これは事実上の占領でありました。
ロシアの南下を警戒していた日本とイギリスに緊張が走りました。
こうして日本は日露戦争へと歩んで行くのです。