2019年6月4日火曜日

日露戦争1 マニフェスト・デスティニー

日清戦争が終わった頃の世界情勢は、「白人とそれ以外」に分けられていました。
アジアにおいて有色人種の独立主権国家は「日本」と「タイ」のみです。
さらに言うなれば、タイはイギリスの植民地「イギリス領インド」と、フランスの植民地「フランス領インドシナ」の中間にある為、緩衝地帯として生き残っていただけでした。
世界中で、白人国家に対抗できる有色人種国家が「日本だけ」であった事は、強く認識しておかねばなりません。
19世紀末、世界は帝国主義のたけなわを迎えている中、最後の帝国主義国家、アメリカが動き出します。
1776年に独立宣言を出したアメリカ合衆国は、欧米列強の植民地競争に完全に乗り遅れていました。
アメリカ大陸の東岸に13州の国として発足した新興国であるこの国が、植民地を獲得して列強に名乗りをあげるには、西へ進むしかありませんでした。
東は欧州列強国、北はイギリス領カナダ、南は列強が介入を目論むメキシコがあったからです。
アメリカは先住民であるインディアンを虐殺しながら西部を侵略していきます。
そして1850年頃にはアメリカの領土は西海岸にまで到達しました。
こうして「フロンティア」という名を借りたインディアン虐殺も、1890年には完了しました。
しかしアメリカは「海のフロンティア」という新しいスローガンを掲げ、海を越えてさらに西へと進みます。
アメリカ大陸から太平洋を西へ進むと、最初に突き当たる国はどこでしょうか?
「ハワイ」です。
1881年、ハワイ王国のカラカウア王は、お忍びで世界一周旅行に出かけました。
その道中でカラカウアは横浜港へ立ち寄ります。
日本としては、明治維新以降に初めて来日した海外の元首となりました。
事前通告なしでの来日でしたが、サンフランシスコからの電信で国王の来日を察知した明治政府は、盛大におもてなしをします。
海軍が出迎えて礼砲を打ち鳴らし、軍楽隊によるハワイ国歌の演奏にカラカウアは感激し涙を流したそうです。
そして何より驚いた事は、滞在中に一人も白人の姿を見なかった事でした。
カラカウアの世界一周旅行の目的は、ハワイ王国が直面している「移民問題」の危機を乗り越えるための情報収集だったのです。
カラカウア大王
当時のハワイ王国は、サトウキビ事業にアメリカが過度に介入し、カラカウア王は「アメリカに国益を売り渡す王」と揶揄されていたのでした。
さらにハワイでは、白人が持ち込んだ天然痘や淋病などの疫病で人口が激減していました。
カラカウアは日本に救いを求める事にします。
日本と同盟を組み、有色人種の勢力圏「ポリネシア帝国」を築いてアメリカに対抗しようと考えまたのです。
そして明治天皇に謁見し、日本の皇室とハワイの王室との間での縁談を持ちかけ、日本人に移民としてハワイに来てもらうように要請しました。
しかしその当時の日本には、まだアメリカに
抵抗できるような力などなく、この縁談は丁重にお断りするしかありませんでした。
それでも日本とハワイの交流は深まり、日本からハワイへの移民が公認されました。
日本人移民の中には、明治維新によって階級を失った「武士だった人達」が多かったと言われています。
1885年には「日布渡航条約」が締結され、大勢の日本人がハワイに移住する事になります。
ハワイでは盛大な歓迎会が開かれ、国王自らも出席し、日本酒が振る舞われて相撲大会も行われたそうです。
しかしハワイへの移民はアメリカの実業家の手によって管理されており、日本人移民たちは奴隷同然の扱いを受けることになります。
そして日本と結束を強めようとするカラカウアの動きはアメリカにとって不都合なものでした。
1887年、アメリカは武力的な威圧によって「銃剣憲法」を無理やり制定し、ハワイの有色人種は選挙権を失いました。
カラカウアは失意のまま1891年に病死します。跡を継いで女王となった妹の「リリウオカラニ」はハワイ人の選挙権を復活させるために、新憲法を発布させようとしました。
リリウオカラニ女王
民衆もそれを支持してデモを行いましたが、アメリカはこれに対して軍隊を出動させて政府庁舎を制圧、ホノルル港に停泊したアメリカの軍艦「ボストン」は主砲の照準を宮殿に定めました。
そして新政権を発足させ、「ハワイ王政の廃止」を宣言します。
しかしここで思わぬ出来事が起こります。
日本の巡洋艦「浪速」そして「金剛」がホノルル港にやってきたのです。
日本は、女王の救援要請を受けて、アメリカによるハワイ併合を止めるため「日本人移民の安全確保」の名目で軍艦を派遣し、クーデター勢力を威嚇したのです。
日本の軍艦の登場を、ハワイ人達は涙を流して喜んだと言います。
2隻の軍艦を率いていたのは「東郷平八郎」でした。
この「ハワイ革命」の一年後、東郷平八郎はハワイ新政権から新政権一周年記念の祝福のために礼砲を要求されましたが、東郷はハワイ王朝の為に喪に服し、これに答えませんでした。
もともと海外進出に消極的だったアメリカ大統領クリーブランドは、この「ハワイ革命」が不法であることを認め、ハワイ併合は見送られましたが、アメリカ国民はクリーブランドの姿勢を批判しました。
そしてその5年後、帝国主義政策を重んじた次期大統領ウィリアムの手によってハワイはアメリカに併合され、ハワイ王朝は消失してしまいます

クリーブランド大統領
ウィリアム大統領

有名なハワイの曲「アロハ・オエ」は、リリウオカラニ女王が滅び行く祖国の悲しみを歌ったものです。
さて、ハワイを手にしたアメリカの野心はさらに西へ進みます。
1898年、キューバのハバナ湾で停泊していたアメリカの軍艦「メーン号」が爆発し、266名が死亡しました。
アメリカはこれをスペインの仕業だと騒ぎ立て、国民世論はスペインとの戦争を望みました。
日清戦争で「旅順虐殺」について書いた「ジェームズ・クリールマン」も、過激な記事で世論を煽った記者の一人です。
アメリカ世論は「リメンバー・メーン」を合言葉に盛り上がり、南北戦争で分断されていた国民感情はスペインという共通の敵を持つことで一つになりました。
アメリカはスペインに宣戦布告します。
「米西戦争」です。アメリカとスペインの戦争とはいうものの、アメリカの狙いはスペインの植民地「フィリピン」でした。
アメリカ海軍は1年以上前からフィリピン攻略を計画していたのです。
この戦争でアメリカは勝利し、スペインの持つ植民地、グアムやフィリピンを手に入れることができました。


300年以上もスペインの植民地であったフィリピンの先住民達は、昔から独立のために戦ってきました。
アメリカは、「スペインが負けたら独立させてやる」と約束し、米西戦争でフィリピン独立軍をスペイン軍と戦わせて利用しました。
そしてスペインが降伏すると、今度は米軍がフィリピン独立軍を掃討し始めます。アメリカとフィリピンとの「米比戦争」は4年間に渡り、20万人の戦死者が出ました。

その戦いはもはや虐殺とも呼べるもので、拷問も凄惨を極めました。
アメリカ軍は「ウォーターボーディング(水責め)」という拷問を採用したのです。
フィリピン人にたらふく水を飲ませ、アメリカ兵が腹の上に飛び乗ります。
すると口から噴水のように水が吹き出て死に至流のです。
あまりにもひどいこの拷問によって、フィリピン人はアメリカに逆らう事ができなくなりました。

こうして、アメリカ西海岸から太平洋を横断してフィリピンまで到達したアメリカでしたが、その最終目的は「支那市場」でした。
アメリカがフィリピンを獲得し、いざアジアの植民地争奪戦に参加しようとした時、清国はすでにイギリス・フランス・ドイツ・ロシア等に食い荒らされており、アメリカが付け入る隙はありませんでした。
アメリカは清の主権を尊重し、各国がそれぞれの利権のためだけでなく、全ての国が自由に商業、工業の機会が与えられるべきだという「門戸開放政策」を唱えました。
内容だけ見ると聞こえは良いですが、要は「アメリカにも支那利権をよこせ」という意図によるものです。
このように、アメリカはその帝国主義的な政策に従い、太平洋を横断してアジアへやってきました。
アメリカはこの「西進」を、「マニフェスト・デスティニー」というスローガンで正当化しています。
マニフェスト・デスティニー(明白なる運命)とは、「文明は西へ進むのだ!」という意味不明な理屈の事です。
マニフェスト・デスティニー

アメリカは国を動かす時に必ず「スローガン」を用います。
これは、アメリカという国が世界初の「民主共和制」である事に関係していると考えています。
共和制ではイギリスの「王室」日本の「皇室」というような「歴史的な権威」が存在せず、貴族のような階級もありません。
アメリカは「スローガン」を用いて国民世論をまとめあげるしかないのです。
例えばアメリカが戦争をするときは必ず相手に先制攻撃をさせて「リメンバー○○」をスローガンにします。
スローガンの力では、国民をまとめ上げることはできても、歯止めをかけることはできません。
だから度々この国は暴走を起こすのです。
海洋国家の共存は困難です。
「マニフェスト・デスティニー」で西へ進む事を決意したアメリカは、いずれ日本と雌雄を決する事が運命付けられていたのです。
日米開戦は、避けられるものではなかったと言えるでしょう。