日清戦争から数十年、話を遡ります。
このように王の信任を得た特定の一派が独占的に政権を握る事を「勢道政治」と呼びます。
安東金氏の権力濫用はひどいもので、朝鮮国内はとことん荒れ果てました。
当然のように安東金氏を打倒を望む勢力が王族の中からも出てきます。
そんな中、国王・哲宗が32歳の若さで亡くなりました。
哲宗には後継ぎがいなかったので、当然ながら後継者を誰にするかを決めなければなりません。
かつて王位継承者候補にも挙げられるも、安東金氏によって排除されてしまった経験を持つ李昰応(りかおう)は、日頃から安東金氏の監視の目を逃れつつも王族との繋がりを強めており、自分の子供を次期王位に就けるための布石を打っていました。
その甲斐もあって、第26代国王の座には李昰応の息子である「高宗」が就く事になります。
しかし高宗はまだ11歳。
「大院君」とは、即位した王が直径からの継承ではない時に、国王の父親が名乗る称号です。
大院君は、自らの勢力を強めて敵対勢力を排除すべく、高宗の嫁選びを急ぎました。
もともと王族内の権力争いのために嫁いできた閔妃に、大院君も高宗も興味を示しませんでした。
高宗は愛人との間に子供を作り、大院君はその子を後継に決めてしまいます。
怒った閔妃はその子供を暗殺し、自分の子が王位に就けるように宗主国である清に働きかけました。
この一件以降、大院君と閔妃の激しい嫁舅抗争が繰り広げられる事になります。
お互いの親族や側近を爆殺したり拷問にかけたりして、双方ともに暗殺に明け暮れ、国民の生活は無視されました。
大院君が鎖国すれば閔妃は日本に擦り寄り、閔妃が清に擦り寄れば大院君が日本に擦り寄る、というように、お互いに真逆の政策をとって対抗するのみで、そこに国家的な展望も政策も何もなく、国は乱れて行きました。
そして自国の農民の反乱すら鎮圧する事も出来ず、その結果起こったのが「日清戦争」だったのです。
そして日清戦争が終わった後、「三国干渉」が起こりました。
大国の要求に屈服してしまった日本を見て、閔妃はこう考えました。
「日本は清に勝ったが、白人には屈した。白人国家が一番強い。」
閔妃の後ろ盾となっていた清が弱体化すると、閔妃はロシア軍の力を借りてクーデターを起こし、政権を大院君から奪い返します。
しかし朝鮮半島にロシアの影響力を呼び込むことは、日本のみならず、清やイギリスにとっても「絶対にしてはならない事」でした。
このクーデターで閔妃は多くの敵を作り、閔妃は暗殺されました。
この暗殺事件は、今では全て日本人が悪いかのように教えられていますが、実際には閔妃の殺害を目論んだ一派が日本人と組んだだけの話であります。
高宗とその息子・純宗は、閔妃を殺害したのは朝鮮人だと証言しています。
世間に出回っている閔妃の顔写真は偽物だという事もわかっており、数多く存在する王宮内の侍女の中から閔妃を探し出してピンポイントで殺害しているため、閔妃をよく知る人物が裏で糸を引いていたはずです。
閔妃は殺害後すぐに燃やされており、閔妃に対する恨みの念が強かった人物が首謀者であると考えられます。
私が思うに、閔妃暗殺を裏で手引きをしたのは大院君です。
大院君は閔妃暗殺の2日後に、閔妃から王妃の座を剥奪して平民に格下げしました。
事件後に大院君と高宗との不仲が決定的になったのも、大院君の暗躍があった事の裏付けになると思います。
そして大院君は燃え尽きたかのように、閔妃の死の三年後に死去しました。
閔妃がロシアの力を借りてクーデターをした後、大院君が日本の力を借りて閔妃を暗殺するカウンタークーデターを行ったわけですが、その後すぐにロシアが朝鮮に軍隊を派遣して親日派を排除するクーデターを行いました。
もう滅茶苦茶です。
閔妃も大院君もいなくなり、国王・高宗は自分で政治をせねばならなくなりました。
クーデターだらけの混乱の中、高宗に為す術があるはずもなく、なんとロシア公使館へ逃げ込んでしまいました。
高宗は欧米諸国に鉱山採掘権や鉄道敷設権などあらゆる利権を売り渡し、朝鮮は全く自主性のない国になってしまったのです。
日本はなんの為に日清戦争を戦ったのでしょうか・・・。
ところで、敗戦国となった清には、過酷な末路が待ち受けていました。
三国干渉によって日本から遼東半島を取り戻したのはいいけれど、列強国に「借り」を作ってしまう事になり、遼東半島最南端の大連は結局ロシアが租借することになりました。
さらに、アヘン戦争、アロー戦争に負けている清にはそもそもお金がなく、日本に対する賠償金を払える状態ではありませんでした。
それに対し、日清戦争を勝った日本は、清からの賠償金で軍備を増強します。
陸軍は7個師団から13個師団体制になり、兵力は倍になりました。
そして新領土「台湾」には、多額のインフラ投資が行われ、化外の地と呼ばれた台湾に水道、病院、鉄道、学校などが次々に建設されていきました。
日本は清に勝ったことで、イギリスから「使える番犬」として認められるようになり、「日英同盟」へと話は繋がって行きます。
イギリスが持つアジアでの植民地利権をロシアから守るのに、日本は適役だったのです。
日清戦争の結果、日本は軍備を増強、清は各国の介入を許し半植民地化され、朝鮮はロシアの属国となりました。
こうして、世界情勢は確実に「日露戦争」へと歩みを進めて行くことになるのでした。
最後に余談となりますが、日清戦争で浮き彫りになった日本軍の最大の課題について書かせていただきます。
それは「陸軍と海軍の不仲」です。
日清戦争の日本軍の死者数は約13000名でしたが、そのうち戦闘で死亡したのは1100名ほどでした。
残りの12000名は病死なのです。
そして死因となった病気のトップは「脚気」です。
今でこそビタミンB1不足により引き起こされ、偏った食事が原因という事がわかっているのですが、白米を主食とする日本人は常に脚気に悩まされていました。
脚気は心不全を引き起こし死に至る恐ろしい病気なのです。
大日本帝国海軍の軍医・高木兼寛は、イギリス医学を学び、脚気の発生数が食事内容によって違うことを突き止め、洋食によってタンパク質を摂ることで脚気を防ごうと考え、海軍の食事をパン食に切り替えました。
もっとも、パン食は下士官達に不評で、パン食は麦飯に変更される事になりました。
(麦飯も不評で、白米食に戻されると再び脚気が発生しました。)高木軍医により、麦飯が脚気の予防に効果的である事がわかりましたが、「ビタミン」という概念がなかった当時の医学では理論的に説明することができず、ドイツ医学を信奉する陸軍軍医・森鴎外などに批判されました。
森鴎外 |
結局陸軍は、海軍に反発して麦食を導入せず白米を食べ続け、日清戦争に続いて台湾平定、日露戦争でも脚気患者を出し、最終的に25万人もの脚気患者を出してしまうことになりました。
この「陸軍と海軍の仲の悪さ」は、後の日露戦争や大東亜戦争でも露呈し、日本の将来に大きく影を落とすことになりました。
なぜこんなに陸軍と海軍の仲が悪いのか不思議でしたが、明治維新を勉強した事によってその原因がわかったような気がします。
この御親兵が日本陸軍の起源であり、日本陸軍の父と呼ばれる「大村益次郎」は長州藩の出身です。
それに対し海軍のルーツは江戸時代に遡ります。
戊辰戦争の際、新政府軍は幕府軍に勝利しましたが、海軍力では圧倒的に幕府側が上回っていました。
自前の軍艦すら持ち合わせていなかった明治政府は、幕府が設立した施設などを使用し、幕府海軍をベースに帝国海軍を作ったのです。
「帝国海軍の父」は、江戸幕府の要人「勝海舟」なのです。
つまり、「陸軍は長州藩」「海軍は幕府」という、明治維新で争い合った過去のある、お互いに決して相容れない存在がルーツとなっていたのでした。