世界地図をぼんやりとイメージしてみます。
アメリカ大陸は南北に長く伸びています。
そして北アメリカと南アメリカの境目の所がキュッとくびれてます。
ちぎれそうなくらい細いです。
この一番細い所にあるパナマ共和国にあるのが「パナマ運河」です。
「運河」とは、船舶の移動のために作られた「人工の水路」の事です。
「パナマ運河」ができる前は、船で大西洋側のワシントンから太平洋側のサンフランシスコに行くのはとても大変な事でした。
南米最南端のホーン岬を周回し、荒れやすいドレーク海峡を通らなければならず、片道1ヶ月以上かかるのです。
北アメリカと南アメリカの中間に位置し、大陸の最狭窄部であるパナマに「運河」を建設し、船舶の交通を可能にする事は、アメリカにとって経済的にも軍事的にも重要な事でした。
当時のアメリカは、支那での利権争いに乗り遅れており、「マニフェスト・デスティニー」を掲げて太平洋進出を急いでいました。
そんな中、1894年の「日清戦争」に日本が勝利した事により、太平洋における日本の影響力が拡大するのではないかという焦りがアメリカに出てきます。
さらに1898年に起きた「米西戦争」で、アメリカは実際に太平洋で戦闘を行ったのですが、大西洋側の艦隊を太平洋へ周回させてフィリピンに向かわせるのに90日もかかってしまいました。
これらの出来事によって、アメリカにとってパナマ運河の建設は、太平洋進出に不可欠なものであると再認識されます。
1903年、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領はコロンビアに介入して「パナマ共和国」を独立させ、パナマ運河の建設権を手に入れました。
なんと「属国」を作ってまでパナマ運河を作ろうとしたのです。
ところで、パナマ運河の建設には「青山士(あおやま あきら)」という一人の日本人が測量・設計に参加していました。
彼は東京大学の土木工学科を卒業後、「パナマ運河を作ることが最も人類の為になる仕事だ!」と決意し、単身でアメリカに乗り込み、勤勉さと技術力を認められて出世していき、パナマ運河で最難関と言われて工区の副技師長を任されるほどになったのです。
しかし日露戦争で日本が勝利すると、周囲からスパイ疑惑をかけられて帰国せざるを得なくなり、パナマ運河の完成を見ることは叶いませんでした。
この頃から、アメリカは日本を「敵性国家」と認識していた事が良くわかります。
パナマ運河が完成したのは1914年、第一次世界大戦が始まった年でした。
パナマ運河の開通によって、アメリカの野心は今まで以上に積極的にアジアに向けられるようになります。
さて、イギリスやフランスなどと違って、第一次世界大戦で本土が戦場にならなかったアメリカは、一気に「五大国」の一員にのし上がりました。
そしてアメリカはいよいよ「アメリカ中心の新しい世界秩序」を作ろうと画策していきます。
まずは軍事面で主導権を握らなければなりません。
当時の「戦争」において、最大の火力を誇る、最強の兵器は「戦艦」でした。
飛行機はそれほど発達しておらず、戦争の勝敗は艦隊決戦が左右するものだと考えられていたのです。「いかに巨大で強力な戦艦を作るか」という「大艦巨砲主義」に基づき、各国は競い合うように戦艦を建造していました。
1919年には、アメリカで建造された「太平洋艦隊」がパナマ運河を通ってフィリピン、グアム、サモア、ハワイに配備される事が決定されます。
日本はこれに対抗する為に、1920年に「八八艦隊」の予算案を通します。
これは艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力にしようという計画です。
このように各国ともに激化していく艦隊建造競争でしたが、世界大戦で疲弊していた各国には、経済的負担があまりにも大きすぎました。
そこでアメリカ大統領ウォレン・ハーディングは1921年、「ワシントン会議」を開いて軍縮を提案します。
参加国は日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中華民国の9カ国です。
イギリスはアメリカに140億ドルもの借金を抱えていた為、この会議におけるアメリカの発言力は絶大なものになり、常にアメリカのペースで話は進みました。
五大列強国であるアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアは戦艦・空母など主力艦の建造に制限を設けられ、各国間で保有量(主力艦の総排水量)の比率を定められました。
その比率はアメリカ・イギリスが5に対し、日本が3、イタリアとフランスが1、67と定められました。
要するに、日本は英米に対し、6割の海軍力しか持つことが許されないという事です。
強力な戦艦が戦争の勝敗を左右していた時代に、戦艦の保有量の比率を国家間で定めるという事は、各国の軍事力の序列を定めたと言っても過言ではありません。
アメリカがワシントン会議を開いた目的は他にもありました。
実はこの会議に参加した9カ国のうち、中華民国以外の8カ国には共通項があったのです。
その共通項とは、「中華民国の領土内に権益を持っている国」という事です。
イギリス、日本、フランスは租借地を持っており、ポルトガルはマカオの統治権を有していました。
そしてアメリカ、イタリア、ベルギー、オランダは外国人居留地区(租界)があったのです。
アメリカはこれらの国に「9カ国条約」を結ばせます。これは、中華民国の独立と主権・領土を尊重する事、中華民国の政権の安定化に協力する事や、門戸開放機会均等などが定められました。
アメリカは中華民国に恩を売る一方で、支那権益を有する他の国々に対し牽制したのです。
中華民国に対して「対華21か条の要求」を出していた日本は、一気に悪者扱いされる事になりました。
門戸開放とは、「中華民国は権益を有する国だけと商売をするな」「全ての国が経済活動をするチャンスを与えろ!」という意味であり、アメリカが支那権益に付け入る隙をこじ開け、それを条約として明文化したのです。
ワシントン会議について、もう一つ話しておく必要があります。
イギリス・アメリカ・日本・フランスの間で締結された「4カ国条約」についてです。
アメリカはこの条約で「日英同盟」の解消に圧力をかけてきました。
これに対してイギリスは日英同盟の解消を嫌がり、逆にアメリカを加えた「日米英三国同盟」を提案します。
しかしここで動いたのが、日本の全権を任されていた「幣原喜重郎」です。
幣原はアメリカの要求を受け入れ、「日英同盟みたいな排他的なものでなく、何かあった時は関係国みんなで話し合いができる関係を築きましょうよ」という内容の幣原試案を提示し、これに基づいて「4カ国条約」が締結されました。
それに伴い日英同盟は消滅し、日本は同盟国を失いました。
果たして幣原試案の通り、話し合いで紛争が解決できたのかどうかは、歴史が示す通りです。
幣原は後に外務大臣として日本の舵取りを任される事になります。
彼は、日本が生き残って行くために国際協調を重視した外交を展開する事になるのですが、その低姿勢は各国に付け入る隙を与える事も多かったように思えます。
さて、何はともあれこのワシントン会議でアメリカは列強国の海軍力の序列をつける事に成功し、9カ国条約で堂々と支那利権に介入できるようになり、4カ国条約で日英同盟を解消する事ができました。
アメリカを中心とした世界秩序「ワシントン体制」の幕開けです。
日本にとって非常に厳しい世界情勢となりましたが、アメリカはさらに日本を排除しにかかります。
「1924年移民法」を制定したのです。
これは従来の「移民法」に、アジア人の移民を全面的に禁止する条項を付け加えて改正したものです。
当時すでに支那人は「支那人排斥法」によって移民が禁止されていました。
その為、この改正は明らかに日本人に向けられた排日的なものであり、日本国内では「排日移民法」と呼ばれました。
アメリカは、支那での利権獲得のために「門戸開放」を叫ぶのに、日本人に対しては自国への門を閉ざしたのです。
ところで、「ワシントン会議」で戦艦や空母などの主力艦の保有量が制限されたわけですが、これには思わぬ抜け穴がありました。
巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの補助艦艇については制限がなかったのです。
その結果、各国ともに「高性能な巡洋艦」の建造競争が起きてしまいます。
そのため、1930年にイギリスの提案によって「ロンドン海軍軍縮会議」が開催されました。
この会議では、巡洋艦を「重巡洋艦」「軽巡洋艦」に分けるように定められ、補助鑑定の保有数にも制限がかけられる事になりました。
結局、このワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議などの条約は、後に日本が国際連盟を脱退した事などによって形骸化していくことになります。
そして1936年に条約が失効し、自由に戦艦を作ることができるようになった時、アメリカに国力で劣る日本は、戦艦の「数」ではなく、「大きさ」で対抗しようと考えました。
戦艦の主砲が大きければ大きいほど、戦艦は兵器としての威力を増します。
そこで基準になったのが、冒頭でお話しした「パナマ運河」でした。
パナマ運河の水門の幅は33mです。通行する船舶はこれよりも幅が小さくなくてはいけません。
パナマ運河を通行可能な最大の大きさの事を「パナマックス」と呼びます。
アメリカは、大西洋と太平洋を効率よく行き来して運用する為に、このパナマックスを超える大きさの戦艦を建造する事ができないであろうと、日本海軍は考えたのです。
日本は、このパナマックスを基準に考え、超パナマックス級の史上最大の戦艦「大和」を誕生させたのでした。
最強の戦艦を持つ日本が、後に飛行機の優位性を示し、大艦巨砲主義を終わらせることになるという、なんとも皮肉な展開が待ち受けているのですが、それはまたいつの日か書きたいと思います。
これらの出来事によって、アメリカにとってパナマ運河の建設は、太平洋進出に不可欠なものであると再認識されます。
1903年、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領はコロンビアに介入して「パナマ共和国」を独立させ、パナマ運河の建設権を手に入れました。
なんと「属国」を作ってまでパナマ運河を作ろうとしたのです。
ところで、パナマ運河の建設には「青山士(あおやま あきら)」という一人の日本人が測量・設計に参加していました。
彼は東京大学の土木工学科を卒業後、「パナマ運河を作ることが最も人類の為になる仕事だ!」と決意し、単身でアメリカに乗り込み、勤勉さと技術力を認められて出世していき、パナマ運河で最難関と言われて工区の副技師長を任されるほどになったのです。
しかし日露戦争で日本が勝利すると、周囲からスパイ疑惑をかけられて帰国せざるを得なくなり、パナマ運河の完成を見ることは叶いませんでした。
この頃から、アメリカは日本を「敵性国家」と認識していた事が良くわかります。
青山士 |
パナマ運河が完成したのは1914年、第一次世界大戦が始まった年でした。
パナマ運河の開通によって、アメリカの野心は今まで以上に積極的にアジアに向けられるようになります。
さて、イギリスやフランスなどと違って、第一次世界大戦で本土が戦場にならなかったアメリカは、一気に「五大国」の一員にのし上がりました。
そしてアメリカはいよいよ「アメリカ中心の新しい世界秩序」を作ろうと画策していきます。
まずは軍事面で主導権を握らなければなりません。
当時の「戦争」において、最大の火力を誇る、最強の兵器は「戦艦」でした。
飛行機はそれほど発達しておらず、戦争の勝敗は艦隊決戦が左右するものだと考えられていたのです。「いかに巨大で強力な戦艦を作るか」という「大艦巨砲主義」に基づき、各国は競い合うように戦艦を建造していました。
1919年には、アメリカで建造された「太平洋艦隊」がパナマ運河を通ってフィリピン、グアム、サモア、ハワイに配備される事が決定されます。
日本はこれに対抗する為に、1920年に「八八艦隊」の予算案を通します。
これは艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力にしようという計画です。
このように各国ともに激化していく艦隊建造競争でしたが、世界大戦で疲弊していた各国には、経済的負担があまりにも大きすぎました。
そこでアメリカ大統領ウォレン・ハーディングは1921年、「ワシントン会議」を開いて軍縮を提案します。
ワシントン会議 |
参加国は日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中華民国の9カ国です。
イギリスはアメリカに140億ドルもの借金を抱えていた為、この会議におけるアメリカの発言力は絶大なものになり、常にアメリカのペースで話は進みました。
五大列強国であるアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアは戦艦・空母など主力艦の建造に制限を設けられ、各国間で保有量(主力艦の総排水量)の比率を定められました。
その比率はアメリカ・イギリスが5に対し、日本が3、イタリアとフランスが1、67と定められました。
要するに、日本は英米に対し、6割の海軍力しか持つことが許されないという事です。
強力な戦艦が戦争の勝敗を左右していた時代に、戦艦の保有量の比率を国家間で定めるという事は、各国の軍事力の序列を定めたと言っても過言ではありません。
アメリカがワシントン会議を開いた目的は他にもありました。
実はこの会議に参加した9カ国のうち、中華民国以外の8カ国には共通項があったのです。
その共通項とは、「中華民国の領土内に権益を持っている国」という事です。
イギリス、日本、フランスは租借地を持っており、ポルトガルはマカオの統治権を有していました。
そしてアメリカ、イタリア、ベルギー、オランダは外国人居留地区(租界)があったのです。
アメリカはこれらの国に「9カ国条約」を結ばせます。これは、中華民国の独立と主権・領土を尊重する事、中華民国の政権の安定化に協力する事や、門戸開放機会均等などが定められました。
アメリカは中華民国に恩を売る一方で、支那権益を有する他の国々に対し牽制したのです。
中華民国に対して「対華21か条の要求」を出していた日本は、一気に悪者扱いされる事になりました。
門戸開放とは、「中華民国は権益を有する国だけと商売をするな」「全ての国が経済活動をするチャンスを与えろ!」という意味であり、アメリカが支那権益に付け入る隙をこじ開け、それを条約として明文化したのです。
門戸開放 |
ワシントン会議について、もう一つ話しておく必要があります。
イギリス・アメリカ・日本・フランスの間で締結された「4カ国条約」についてです。
アメリカはこの条約で「日英同盟」の解消に圧力をかけてきました。
これに対してイギリスは日英同盟の解消を嫌がり、逆にアメリカを加えた「日米英三国同盟」を提案します。
しかしここで動いたのが、日本の全権を任されていた「幣原喜重郎」です。
幣原はアメリカの要求を受け入れ、「日英同盟みたいな排他的なものでなく、何かあった時は関係国みんなで話し合いができる関係を築きましょうよ」という内容の幣原試案を提示し、これに基づいて「4カ国条約」が締結されました。
それに伴い日英同盟は消滅し、日本は同盟国を失いました。
果たして幣原試案の通り、話し合いで紛争が解決できたのかどうかは、歴史が示す通りです。
幣原は後に外務大臣として日本の舵取りを任される事になります。
彼は、日本が生き残って行くために国際協調を重視した外交を展開する事になるのですが、その低姿勢は各国に付け入る隙を与える事も多かったように思えます。
幣原喜重郎 |
さて、何はともあれこのワシントン会議でアメリカは列強国の海軍力の序列をつける事に成功し、9カ国条約で堂々と支那利権に介入できるようになり、4カ国条約で日英同盟を解消する事ができました。
アメリカを中心とした世界秩序「ワシントン体制」の幕開けです。
日本にとって非常に厳しい世界情勢となりましたが、アメリカはさらに日本を排除しにかかります。
「1924年移民法」を制定したのです。
これは従来の「移民法」に、アジア人の移民を全面的に禁止する条項を付け加えて改正したものです。
当時すでに支那人は「支那人排斥法」によって移民が禁止されていました。
その為、この改正は明らかに日本人に向けられた排日的なものであり、日本国内では「排日移民法」と呼ばれました。
アメリカは、支那での利権獲得のために「門戸開放」を叫ぶのに、日本人に対しては自国への門を閉ざしたのです。
排日移民法に反対する人々 |
ところで、「ワシントン会議」で戦艦や空母などの主力艦の保有量が制限されたわけですが、これには思わぬ抜け穴がありました。
巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの補助艦艇については制限がなかったのです。
その結果、各国ともに「高性能な巡洋艦」の建造競争が起きてしまいます。
そのため、1930年にイギリスの提案によって「ロンドン海軍軍縮会議」が開催されました。
この会議では、巡洋艦を「重巡洋艦」「軽巡洋艦」に分けるように定められ、補助鑑定の保有数にも制限がかけられる事になりました。
結局、このワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議などの条約は、後に日本が国際連盟を脱退した事などによって形骸化していくことになります。
そして1936年に条約が失効し、自由に戦艦を作ることができるようになった時、アメリカに国力で劣る日本は、戦艦の「数」ではなく、「大きさ」で対抗しようと考えました。
戦艦の主砲が大きければ大きいほど、戦艦は兵器としての威力を増します。
そこで基準になったのが、冒頭でお話しした「パナマ運河」でした。
パナマ運河の水門の幅は33mです。通行する船舶はこれよりも幅が小さくなくてはいけません。
パナマ運河を通行可能な最大の大きさの事を「パナマックス」と呼びます。
パナマックス |
アメリカは、大西洋と太平洋を効率よく行き来して運用する為に、このパナマックスを超える大きさの戦艦を建造する事ができないであろうと、日本海軍は考えたのです。
日本は、このパナマックスを基準に考え、超パナマックス級の史上最大の戦艦「大和」を誕生させたのでした。
最強の戦艦を持つ日本が、後に飛行機の優位性を示し、大艦巨砲主義を終わらせることになるという、なんとも皮肉な展開が待ち受けているのですが、それはまたいつの日か書きたいと思います。