第一次世界大戦中に起こったロシア革命によって、共産主義国家「ロシア・ソヴィエト共和国」が誕生しました。
共産主義の産みの親、マルクスの概念では「すべての国で、労働者階級による、資本主義の打倒」が歴史的な必然とされており、ウラジーミル・レーニンはこれに基づいて1917年のロシア革命を「世界革命のための一環」と位置付けました。
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ウラジーミル・レーニン |
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ヨシフ・スターリン |
そして、世界中を共産主義化し、「世界ソヴィエト社会主義共和国」を目指すため、「共産主義インターナショナル」を結成します。
1919年に結成されたこの組織は「Communist(共産主義者)」「International」を略し「comintern(コミンテルン)」と呼ばれる事になります。
しかし1924年にレーニンが没すると、代わりに台頭したスターリンは「一国社会主義論」を打ち出します。
これは、「世界革命を起こさなくてもロシア一国で社会主義の実現が可能である」と言う考えであった為、共産党内部でも反発が起きて権力抗争が起こる事になります。
スターリンは、ロシア内戦の勝利によって確立されたウクライナ、ザカフカースなど各地のソヴィエト政権を吸収し、「ソヴィエト連邦」を形成しました。
俗に言う「ソ連」です。
何はともあれ、スターリンの思惑によってコミンテルンはソ連の外交政策を援護する役割を持つようになって行きます。
各国に散らばったコミンテルンの共産主義者は、自国の重要な情報をスターリンに届けました。
要するにスパイ活動をしていたわけです。
スターリンについては後日詳しく書かせていただく事にして、話を少し戻します。
世界革命を目指していた当時のコミンテルンは、活動の場を非ヨーロッパ圏に定めます。
ヨーロッパの列強国は共産主義に対する警戒が強かったのです。
その方針は「帝国主義から搾取される植民地の解放運動を支援する事」です。
第一次世界大戦後に蔓延していた「民族自決」の考えは、共産主義者達に大いに利用されました。
コミンテルンが結成された1919年以降、アメリカ、メキシコ、デンマーク、スペイン、インドネシア、イギリス、トルコ、ウルグアイ、オーストラリア、フランスなど世界各地で「共産党」が次々と設立されます。
軍閥が割拠して内戦状態であった中華民国もまた、コミンテルンの格好の標的となりました。
政情が不安定で民衆の不満が高まるほど、共産主義は浸透しやすいのです。
支那の山東省はかつてドイツが利権を保有していましたが、ヴェルサイユ条約によってその利権が日本へ移譲される事が決まると、これが引き金となって各地でデモが起こります。
五四運動の中心人物の中には、あの有名な「毛沢東」もいました。
コミンテルンは日本にも触手を伸ばします。
1922年に結成されたのが「日本共産党(第一次)」又の名を「コミンテルン日本支部」と言います。
これは非合法の秘密結社であり、政府から公認された政党ですらなく、政策も資金もコミンテルン頼みというなんとも微妙な組織でした。
コミンテルンは「日本共産党綱領草案(22年テーゼ)」を示します。
その内容は皇室の廃止、軍隊の廃止など荒唐無稽なものであり、「さすがにそれはちょっと・・・」という微妙な空気が日本共産党内部にも漂うほどでした。
そんな感じでちょっとグダグダだった組織なので、党内にスパイが潜入したりして、80名が一斉に検挙される「第一次共産党事件」が起き、日本共産党は壊滅状態に追い込まれます。
日本政府が共産主義に警戒を強める中、国家転覆を狙うコミンテルンがノリノリになってしまうような大事件が起こります。
1923年9月1日、相模湾北部を震源地とするM7、9の大地震が関東を襲いました。
死者・行方不明者は10万人以上、その犠牲のほとんどが「火災」によるものですが、その火災は果たして、地震が引き金となり自然に起こったものなのでしょうか??
震災から2年後に作られた「大正大震災火災史」には、震災当時に各警察署に寄せられた報告がまとめてあります。
そこには、震災直後において、過激な朝鮮人独立運動家達が爆弾を所持、又は使用していた事が書かれていました。
現在、「爆弾を投げていた」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などの報告は全て「流言(デマ)」として一括りにされていますが、携帯電話もSNSもない時代に、果たして短時間で広範囲にデマが広がるものなのでしょうか?
大正大震災火災史に書かれている、各警察署からの報告の中で、場所と時刻が判明していて、「爆弾」について記述されているものだけを書き出してみます。
【9月2日】
「10時頃」
・ 不逞鮮人等の放火
・毒物撒布又は爆弾を所持せり(牛込・早稲田)
「14時30分頃」
・ 東京・横浜に於ける火災は概ね鮮人と社会主義者とが共謀して爆弾を投じたる結果なり(品川)
「18時頃」
・予てより、密謀を蔵せる鮮人等は、今回の震災に乗じて、東京市の全滅を企て、放火又は爆弾に依りて火災を起こさしめ、且毒薬を飲料水、菓子等に混入して、 市民の鏖殺を期せり(下谷・上野)
・上野広小路松坂屋呉服店に爆弾を投じたる鮮人2名を現場に於て逮捕したるに、100円紙幣2枚を所持せり、蓋し社会主義者の給せるものに係る」(下谷・上野)
・「鮮人等爆弾を投じて各所を焼けり」(青梅)
「20時頃」・「鮮人が爆弾に依りて火災を起し、財物を掠め、婦女を辱め、或は毒薬を撒布する等暴虐到らざる所なし」(深川・西平野)
【9月3日】
「7〜8時頃」
・鮮人等爆弾を携帯して放火・破壊・殺害掠奪等を行ひ、又毒薬を井戸に投ずるものあり(京橋・月島)
これらを全て「流言」と断じるのは、いささか無理があるのではないでしょうか。
震災直前の日本では、ウィルソンの唱えた「民族自決」の言葉にナショナリズムを刺激されて朝鮮の独立運動家達が、頻繁にテロ活動を行っていました。
新聞には連日、朝鮮人活動家による現金強奪、爆破事件などが報道されていたのです。
その中でも「義烈団」は共産党の支援を受けていたテロ組織であり、皇太子(後の昭和天皇)に対するテロを計画し、日本政府も警戒を強めていました。
関東大震災による国内の動揺は、コミンテルンにとって絶好の機会だったと言えます。
共産主義の蔓延により、必然的にテロが多発するような状況の中で、関東大震災が起きたという事を頭に入れておくべきだと思います。
震災直後から「自警団」が組織されたのも納得がいく話なのです。
自警団と朝鮮人活動家達は衝突し、多くの犠牲者が出ました。日本共産党(第一次)は、震災中に共産党員など10名が処刑された「亀戸事件」によって、解党へと突き進んでいく事になりました。
現在では、すっかり「関東大震災の時に、日本人はデマを流して朝鮮人や社会主義者を虐殺した」という事で結論づけられてしまっています。
ここまで話した上で、あえて強調しておかねばならない事があります。
日本にいた全ての朝鮮人が悪い事をしたわけではない、という事です。
日本人自警団は朝鮮人活動家の凶行を警戒しすぎるあまり、朝鮮人を見ると尋問したり拘束したりしたのも確かです。
政府は、一般の朝鮮人が迫害される事を恐れ、9月5日に「朝鮮人保護」を閣議決定しました。
一般の朝鮮人被災者に対し、炊き出しを行い、毛布を配り、看護をし、急設したバラックに住まわせて警備したのです。最も、それすら現在では「強制連行」などと言われていますが(笑)