南部仏印進駐によって日本とアメリカの関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結と、石油の禁輸を実行しました。
極限にまで追い詰められ、もはや開戦は避けられない状況となった日本でしたが、最後までアメリカとの戦争を回避する道を模索していました。
1941年8月、この状況に流石にまずいと思った近衛首相は日米開戦を避けるべく、自ら「フランクリン・ルーズヴェルト」大統領と会談する事を決意します。
フランクリン・ルーズヴェルト |
日本とアメリカの交渉はこれまで何度も行われていました。
当初は「支那事変和平交渉の斡旋」や「日米関係の改善」などが目的だったのに、もはや「戦争するのか、しないのか」という抜き差しならない状況になってしまっていたのです。
「野村吉三郎」駐米大使によって、首相の面会意思はアメリカ国務長官「コーデル・ハル」へと伝えられますが、大統領は大西洋会談で不在だったため、冷ややかに断られてしまいました。
野村吉三郎 |
コーデル・ハル |
8月9日から12日までの間、ルーズヴェルト大統領とイギリスの首相「ウィンストン・チャーチル」は、イギリス軍艦プリンス・オブ・ウェールズの艦上で会談を秘密裏に行なっていました。(大西洋会談)
この会談によって調印された憲章、「大西洋憲章」は、第二次世界大戦後の世界構想を謳ったものでありましたが、その自由で平等な理念は、有色人種に適応されるものではなく、「白人世界の継続」を願ったものでした。
この大西洋憲章に対抗するように、後に日本は「大東亜共同宣言」を採択する事になりますが、その事については近いうちに詳しく書きたいと思います。
大西洋会談 |
注意せねばならないのは、この大西洋会談、なぜアメリカが戦後の世界構想について語っているのでしょうか?
この時点でアメリカは第二次世界大戦に参戦していませんし、真珠湾攻撃も起こっていないのです。
この大西洋会談で、イギリスはアメリカに対日参戦してくれないかと打診していたと言われています。
要するに、いかに日本を戦争に巻き込むかの相談をしていたのです。
イギリスとアメリカは、それぞれ独自に日本に「最後通牒」を突きつける事に同意し、ルーズヴェルトは「ベイビーを三ヶ月あやす」と語ったと言われています。
ベイビーとは日本の事であり、アメリカの戦争準備に必要な三ヶ月間、日本との交渉を引き延ばし、日本の暴発を引き起こそうとしたのです。
アメリカにとって「日本を潰す事」はもう決まった事であり、今後の日本の必死な交渉は全て無駄なものになってしまいます。
8月に石油の禁輸が決定してから、野村大使とハル国務長官との会談は、12月8日の真珠湾攻撃までの間に22回も行われており、野村大使とルーズベルトとの会談も4回行われています。
日本がどれほど必死にアメリカとの開戦を回避しようとしていたのかを伺う事ができます。
野村大使(左)コーデル・ハル(中)来栖大使(右) |
しかしその一方で、日本もアメリカと戦う決意を固めていきました。
日露戦争の時もそうでしたが、「和平交渉」と「戦争準備」この2つは同時進行で行うものなのです。
日米交渉を進めるにあたり、近衛内閣は9月6日に御前会議を開きました。
御前会議とは、天皇臨席のもとで重要な国策を決めるときに開かれる会議です。
1941年9月6日 御前会議 |
この会議によって、要求が受け入れられない場合は10月上旬で交渉を打ち切ってイギリス・オランダ・アメリカに対して開戦に踏み切るという方針が決定されたのです。
この時、昭和天皇は、「明治天皇の御製」を詠みあげました。
「四方の海 皆同胞と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
この句は、平和を願いつつもロシアとの戦いに踏み切らねばならない苦しい胸の内を、かつて明治天皇がお詠みになられたものです。
昭和天皇も同じ気持ちだったのでしょうか、これはあまりにも重苦しい「陛下の戦争回避の意思」でした。
その後、近衛内閣の倒閣によって東條内閣が誕生する事になるのですが、東條は首相任命の際、陛下から戦争回避に尽力するように指示をされます。
そして「白紙還元の御諚」を賜り、9月6日の御前会議で制定された「帝国国策遂行要領」の再検討が行われる事になったのです。
東條英機 |
そして11月5日、再び御前会議が開かれ
・武力発動は12月初旬にする事
・12月1日までに日米交渉が成功すれば武力発動は中止する事
・交渉は最終譲歩案「甲案」「乙案」により進める事
という方針を改めて定めました。
「甲案」では、
・アメリカの主張する「通商の無差別」が全世界に適応されるのなら、太平洋や支那における通称機会均等を認めましょう
・日独伊三国同盟においては、自衛権をみだりに拡大解釈したりはしませんよ
・支那事変が解決したら、支那のほとんどの地域からは2年以内に撤兵しますよ
・フランス領インドシナからは、支那事変が解決したらすぐ撤兵しますよ
という内容のもので、9月25日に日本がアメリカに提示した交渉条件を緩和したものでした。
東條英機は、甲案だけでは戦争回避には不十分であり、まずはフランス領インドシナの問題を解決する必要があると考え、「乙案」を幾度も修正しながら作り上げて行きました。
完成した乙案は
・日本はフランス領インドシナ以外の東南アジアに侵略する意図はございませんよ
・日米両国はインドネシアの資源獲得が保障されるように協力しましょうね
・とりあえず資産凍結やめてくださいませんか?
という内容で、日本が「南部仏印進駐」を実行する以前の日米関係に戻そう、という提案でした。
この乙案の作成には、撤兵に反対する軍部からの激しい抵抗があったのですが、陛下の戦争回避の意思を汲んだ東條英機の必死の努力によって成し遂げられ、11月21日手交されました。
しかし11月26日、コーデル・ハルによって乙案の拒否が伝えられ、代わりにあの有名な「ハル・ノート」を手交されたのです。
ハル・ノート |
ハル・ノートの内容は以下の通りです。
1・日、米、英、蘭、ソ連、タイ間の多辺的不可侵条約の提案
2・仏印の領土主権尊重、貿易および通商における平等待遇の確保
3・支那及び仏印からの全面撤兵
4・支那において、蒋介石以外のいかなる政権をも認めない
5・支那における租界の治外法権を撤廃する事を諸国に認めてもらうための日米の努力
6・最恵国待遇を基礎とする通商条約の締結に向けた交渉の開始
7・両国の資産凍結の解除
8・円ドル為替レート安定に関する協定締結
9・日米が第三国との間に締結したいかなる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと思われてはならない
10・本協定内容の両国による推進
無条件の全面撤退を要求したり、汪兆銘政権や日独伊三国同盟を認めない事によって、この要求を飲むことは日本にとって「支那事変以前の状態に戻る」事を意味します。
それどころか「蒋介石以外のいかなる政権」の中には満州国も含まれている可能性もありました。
これは到底受け入れられる内容ではなく、さらに今まで議題にも上がっていなかった新しい難題をふっかけるような側面もありました。
ハルノートは、世間一般で言われているような「最後通牒」であったのかどうかは議論の余地があります。
武力行使を匂わせる文言も、回答期限も指定されておらず、交渉打切りの意図もありませんでした。
ハルノートにはまだまだ交渉の余地があったのです。
この点を以て「ハル・ノートは最後通牒ではなかった」という意見も多く、国際法に照らし合わせると確かに的確な指摘です。
しかし考えていただきたいのは、日本は「8月から石油が一滴も入って来ない」という危機的状況に置かれていたという事です。
石油を禁輸された時点で日本に残されていた選択肢は、
・すぐ戦争するか
・交渉しながら戦争の準備をするか
・服従するか
この3つしかありませんでした。
ハル・ノートには「交渉を長引かせよう」という引き延ばしの意図しかありませんでした。
それを感じ取ったからこそ、日本政府は「開戦やむなし」と判断したのです。
実は、すでに日本は真珠湾攻撃の為の部隊を、ハル・ノートが手交される1日前に出撃させていました。
政府がアメリカと交渉を続けていた中、軍部は「いかにしてアメリカと戦うのか」という戦略を練っていました。
「まずはアメリカ領フィリピンを占領し、艦隊決戦で迎え撃つ」という、当時としては常識的な戦略を海軍は考えていましたが、連合艦隊司令長官である「山本五十六」は、
「真珠湾に攻撃を加え、アメリカ海軍の太平洋艦隊にダメージを与えてから南方へ攻めるべき」という主張を強引に押し通し、「真珠湾攻撃」が決定される事になりました。
このあたりの作戦立案に関してはまた詳しく書きたいと思います。
山本五十六(やまもといそろく 父親が56歳の時に生まれたから) |
そして11月26日、択捉島の単冠湾に集結した機動部隊がハワイに向けて出港します。
この時点ではまだ引き返す選択肢もありました。
しかし翌日にハル・ノートが手交された事によって、12月1日に御前会議が開かれ、対米開戦が決定したのです。
12月2日、「ニイタカヤマノボレ 一二◯八」の電文が大本営から機動部隊に送られました。
12月8日に真珠湾攻撃を行う事が決まったのでした。