撃墜された九七式艦上攻撃機12型 |
今でこそ、「飛行機」は戦争においてあらゆる場面で欠かせない存在となっています。
しかし、第二次世界大戦が始まるまでは、戦争の勝敗は「艦隊決戦」により左右されると考えられてきました。
※大艦巨砲主義については以下参照
当時から航空機は戦争に用いられ、目覚ましい進化を遂げてはいたものの、
「航空機が、戦闘航海中の戦艦を撃沈させることは不可能である」
と言うのが世界中の軍人達の認識でした。
「航空機が、戦闘航海中の戦艦を撃沈させることは不可能である」
と言うのが世界中の軍人達の認識でした。
その裏付けとなったのが、1921年に行われた、ある実験です。
米軍は、第一次世界大戦でドイツから鹵獲した戦艦「オストフリーラント」を用いて爆撃実験を行いました。
実験初日、航空機から69発の爆弾が投下され、16発が命中。
二日目には12発が投下され3発命中。
航空機から爆弾を投下すれば戦艦を沈没させることは可能だということは立証されましたが、停止中の戦艦を袋叩きにすれば沈むのは当然です。
さらに爆弾投下の命中率も悪く、航海中の船ではリカバリーも行われ、対空砲火もしてきます。
「航空機が戦艦を撃沈するのは、可能であるが、限りなく不可能」という事で結論に至り、航空機よりも戦艦の方が圧倒的に重視される傾向は変わりませんでした。
しかし、航空機が持ち得る武器の中で、戦艦にとって非常に厄介な存在がありました。
重厚な装甲をまとった戦艦も、航空機から放たれた魚雷で横っ腹に穴を開けられたらひとたまりもありません。
オストフリーラントが沈没した最大の原因も、投下した大型爆弾がわずかにそれて水中で爆発し、船底に穴が空いた事でした。
「海軍の誇りである戦艦こそが最強である」という考えは根強いものの、実際に戦艦が航空攻撃によって沈んでしまった事実は世界中に衝撃を与えました。
のちに連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案した「山本五十六」にはアメリカに留学していた時期があり、オストフリーラント爆撃実験の直前まで滞在していました。
アメリカ滞在中の山本五十六 |
おそらく、アメリカ海軍内部の「戦艦VS航空機論争」を目の当たりにしていたのでしょう、爆撃実験を主導した「ウィリアム・ミッチェル」少将の論文を和訳し、航空機で戦艦を攻撃する構想を練っていました。
「アメリカ空軍の父」ウィリアム・ミッチェル |
ハワイのオアフ島にある真珠湾は、非常に優れた軍港で、アメリカ太平洋艦隊の基地でした。
日露戦争でバルチック艦隊を撃破した連合艦隊は、間違いなく「太平洋最強の艦隊」であり、アメリカが警戒すべき存在でした。
真珠湾の軍港に停泊する太平洋艦隊は、日本の連合艦隊を撃破するために作られたと言っても過言ではないでしょう。
真珠湾は水深が12mしかありませんが、当時の航空魚雷は、海中に投下したら60mは沈みます。
つまり、真珠湾に停泊する艦隊に魚雷攻撃を仕掛けても、魚雷は海底に突き刺さってしまうのです。
さらに真珠湾港を守るために作られた要塞には、巨大な大砲が備え付けられ、真珠湾を攻撃しようとする戦艦に対しての守りも十分でした。
オアフ島の有名な観光地ダイヤモンド・ヘッドは要塞だった |
まるで難攻不落の要塞そのものであるオアフ島に、なぜ日本は攻撃を仕掛けたのでしょうか。
艦隊決戦思想に基づくなら、日本の対米戦略は、当時アメリカの植民地であったフィリピンを攻略し、真珠湾から出撃してくる太平洋艦隊を日本の連合艦隊で迎え撃つ「艦隊決戦」を行うのが正攻法だったはずです。
しかし、連合艦隊司令長官・「山本五十六」は、1934年の時点で既に独自の対米戦略構想を練っており、航空戦力によってアメリカ太平洋艦隊を壊滅させるプランを持っていいました。。
「この作戦が認められないなら司令長官を辞任する」という真珠湾攻撃への決意を海軍大臣が汲み取り、真珠湾攻撃作戦は許可される事になります。
では、不可能と言われた作戦、「真珠湾攻撃」はどのように実現されたのでしょうか。
真珠湾では魚雷は使えず、東西は山脈に囲まれているため上陸も困難です。
戦艦による艦砲射撃も、要塞に備えられた40センチ砲にはかないません。
海上で揺れ動く艦砲よりも、地上に固定された要塞砲の方が命中率が上なのです。
砲台からはオアフ島の全方位が照準に収められ、死角はありません。
軍事評論家フレチア・ブレッドは「真珠湾はおそらく世界で最良の軍事基地」と評し、マッカーサーも「最強の軍事基地」と評価していました。
当時のアメリカの軍事評論家たちの間には、「日本が真珠湾を攻撃する事などあり得ない。もし実行されたとしても、成功のチャンスは皆無である」という認識がありました。
しかし、第二次世界大戦が始まると、真珠湾攻撃計画を大きく後押しするような出来事が起こりました。
1940年11月11日、真珠湾攻撃から1年ちょっと前、イギリス軍がイタリアの「タラント軍港」を空襲し、イタリア海軍の軍艦3隻に大損害を与えました。
これが「実戦で航空機が戦艦を沈めた」史上初の出来事だったのです。
1941年10月。真珠湾攻撃の二ヶ月前。鹿児島の市民は騒音に悩まされていました。
民家の屋根スレスレを海軍機が飛び交っているのです。
「海軍は一体何を考えているのだ、いい加減にしろ!」と怒号が飛び交い、あまりの騒音に学校では授業が中断され、子供達は雷撃機に喝采を送りました。
そのような鹿児島での騒ぎも、11月になるとピタリと収まります。
実は、これは航空魚雷による攻撃「雷撃」の訓練でした。
そして、厳しい雷撃訓練と同時に、魚雷の改良も進められました。
「安定板」「安定舵」を魚雷に装着する事で、「荒れた海」「10m以下の水深」での雷撃が可能な九一式魚雷が完成しました。
これにより、不可能と言われていた「真珠湾での魚雷攻撃」が可能になったのです。(この魚雷は後にヒトラーが欲しがったそうです。)
真珠湾攻撃では、航空機からの雷撃と同時に、潜水艦による魚雷攻撃も計画されました。
特殊潜航艇「甲標的」は、母艦の潜水艦から水中発進する小型潜水艇で、鉛蓄電池で30ノットの速度で動くことができます。
武器は2本の魚雷のみで、任務を遂行した後は母艦が回収する事になっていましたが、任務遂行、帰還、回収の行程が非常に困難であったため、搭乗員自身も帰還できるとは考えておらず、「実質的な特攻兵器」と呼べる代物でありました。
ミニミニ潜水艦「甲標的」 |
連合艦隊の中核をなすのは、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」などの6隻の航空母艦を中心に、巡洋艦や駆逐艦などで編成された「空母機動部隊」でした。
そして搭乗員達に、行き先は真珠湾であり、攻撃目標は太平洋艦隊である事が告げられます。
11月26日、真珠湾に向けて南雲機動部隊は出港しましたが、この時はまだ日米開戦は決まっていませんでした。
「交渉がまとまった。引き返せ」の連絡を待つのも虚しく、この翌日に「ハルノート」が手交されたことにより、日本は開戦を決定したのです。
そしてアメリカとの初戦となった真珠湾攻撃は、戦艦が主役だった戦争の在り方をガラッと変えるものになりました。