アメリカ海軍のケンプ・トーリィ中尉は、ルーズベルト大統領の命により、フィリピンに向かい、そこでヨット船「ラニカイ号」を購入します。
古い大砲を積み込んで、現地人を雇い、ボロ船二隻を従えて、日本海軍のいるベトナムのカムラン湾へと向かいました。
「星条旗を掲げ、日本艦隊に接近して調査せよ」という命令に従うためです。
11月27日の時点で、「ハル・ノート」を見たルーズベルトは「これで戦争になるな」と呟き、日本軍の奇襲に備えて警戒指令を出していました。
陸軍長官スティムソンは、12月1日に日本軍が奇襲を仕掛けてくると予想していたのですが、1日に何も起こらなかったので、翌日にケンプ・トーリィに調査命令を下したのでした。
しかし、星条旗を翻した武装船が日本艦隊に接近する事は明らかな挑発行為であります。
ルーズベルトは、失っても痛くないボロ船を日本軍に先制攻撃させて、戦争の口実を作ろうとしたのです。
結局、ラニカイ号がカムラン湾へ到着するよりも早く、真珠湾攻撃は行われ、この作戦は失敗に終わりました。
駆逐艦ウォード号が直ちに接近し射撃を加えると、重油のようなものが流れてきたため、潜水艦は沈没したとみなされました。
甲標的には一隻に2名ずつ乗り込み、5隻が真珠湾に向けて出撃していました。
甲標的による攻撃は、生還できる見込みが限りなく少なく、岩佐直治中佐は婚約を破棄してまで戦場に赴くほどでした。
実際に座礁して脱出し、捕虜になった「坂巻和夫」を除いて全員が戦死し、「九軍神」と呼ばれる事になります。
甲標的による攻撃は、生還できる見込みが限りなく少なく、岩佐直治中佐は婚約を破棄してまで戦場に赴くほどでした。
実際に座礁して脱出し、捕虜になった「坂巻和夫」を除いて全員が戦死し、「九軍神」と呼ばれる事になります。
鯨の誤射事件と同等に扱われ、この事件は未だに公式に戦果として認められていません。
同時期、オアフ島北部のレーダーステーションでは50機以上の飛行機の大編隊が確認されていました。
もちろん真珠湾を攻撃せしめんと接近してくる日本軍機です。
レーダーを操作していた二人の二等兵は情報センターに連絡しましたが、日曜日だったために管制官は休んでおり、代わりに応対したカーミット・タイラー中尉はレーダーに映った機影を友軍機と誤認し、「気にするな」と言ってしまいました。
もちろん真珠湾を攻撃せしめんと接近してくる日本軍機です。
レーダーを操作していた二人の二等兵は情報センターに連絡しましたが、日曜日だったために管制官は休んでおり、代わりに応対したカーミット・タイラー中尉はレーダーに映った機影を友軍機と誤認し、「気にするな」と言ってしまいました。
「ウォード号事件」「レーダー誤認」など、奇跡か偶然か、不自然なほどに真珠湾攻撃は警戒される事なく、スムーズに実行される事になったのでした。
1941年12月8日、東京の大本営に「トラ・トラ・トラ」の電信が入りました。「我、奇襲二成功セリ」という意味です。
爆撃される真珠湾を見たラムジー中佐は無線室まで走り、「真珠湾攻撃、演習にあらず」と電文を打たせました。
太平洋艦隊司令官のキンメルは、ゴルフの予定だったところに「ウォード号事件」の知らせを聞き、自宅に帰っていました。
真珠湾攻撃の知らせを聞いて受話器を叩き切り、外に出て目にしたものは、真珠湾に群がる日本軍機でした。
キンメルのゴルフ相手だったハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショートは、ベランダから見える真珠湾の光景を「迫真的な演習」だと思い込み、「戦艦二隻沈没」の知らせを聞いても、「笑止千万」と全く信じようとしませんでした。
ウォルターとキンメル、この2名は責任をとって罷免される事になります。
急降下爆撃も雷撃も素晴らしい精度で、特に低空飛行の技術に至っては、日本軍の飛行機は3階から見下ろすことができ、地上からはパイロットの顔が見えるほどであったと言います。
日本軍は第一波の攻撃の1時間後に第二波による攻撃を加えましたが、米軍も反撃体制を整えていたために被害が増えることになりました。
南雲忠一司令長官は「雨雲が広がり始めたこと」「敵の迎撃体制が整いつつあったこと」などを理由に、第3波を出撃させずに攻撃を終了します。
真珠湾攻撃は、日本軍の損害は少なく、米軍に一撃を加えた事によって賛美されました。
米軍の太平洋方面での戦力を壊滅させたため、日本軍の快進撃を支える事になったのです。
しかし、真珠湾の膨大な石油貯蔵施設や修理ドックは無事だったため、損傷した艦隊は修理されて戦線復帰する事になりました。
真珠湾攻撃を構想した山本五十六司令長官の考えは「刺し違えてでも、戦争を早期に終わらせる程のダメージを与えたい」というものでしたが、現実にはそうなりませんでした。
真珠湾攻撃の成功は、同時に「敗戦」も確定的にしたと言えるでしょう。
大戦果を挙げていた真珠湾攻撃のさなか、その事に気づいていた人間が一人だけいました。
「飯田房太」第三中隊長です。
飯田は支那で活躍した腕利きの零戦乗りで、司令長官から感謝状をもらった事もあるほどでした。
しかし飯田は、「こんな事で喜んでいたら困るのだ。空襲で勝負をつける事はできない。最後の勝利は歩兵さんに直接足で踏んでもらわねばならない。こんな戦争を続けていたら日本はいまに大変な事になる。」と、戦争が長引く状況を憂いていました。
そして真珠湾の基地を機銃掃射した際に燃料タンクに被弾し、母艦に帰ることを諦めて敵の格納庫へと突入して自爆しました。
飯田は出撃の前日に「祖国の滅亡をみるに忍びない。わたしは明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行く末を見守ってもらいたい」と訓示しており、あえて自爆という道を選んだのではないかという説もあります。
このような先見の明のある人物にこそ、生きていて欲しかったと思わずにはいられません。
さて、真珠湾を攻撃した日本軍ですが、民間人への攻撃は厳重に禁止されていました。
「飯田房太」第三中隊長です。
飯田は支那で活躍した腕利きの零戦乗りで、司令長官から感謝状をもらった事もあるほどでした。
しかし飯田は、「こんな事で喜んでいたら困るのだ。空襲で勝負をつける事はできない。最後の勝利は歩兵さんに直接足で踏んでもらわねばならない。こんな戦争を続けていたら日本はいまに大変な事になる。」と、戦争が長引く状況を憂いていました。
そして真珠湾の基地を機銃掃射した際に燃料タンクに被弾し、母艦に帰ることを諦めて敵の格納庫へと突入して自爆しました。
飯田は出撃の前日に「祖国の滅亡をみるに忍びない。わたしは明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行く末を見守ってもらいたい」と訓示しており、あえて自爆という道を選んだのではないかという説もあります。
このような先見の明のある人物にこそ、生きていて欲しかったと思わずにはいられません。
飯田房太 |
飯田の突入地点には記念碑が |
さて、真珠湾を攻撃した日本軍ですが、民間人への攻撃は厳重に禁止されていました。
しかし軍施設内にいた政府関係者や作業従事者などは巻き添えにあい、68名の死者が出てしまいます。
また、米軍による対空砲火は15キロ離れたホノルル市街に降り注ぎ、33名の民間人の死者が出ました。
昭和天皇が「間違いなく宣戦布告するように」と指示を東條英機に下令されたため、外務省は極秘任務だった真珠湾攻撃の事を知らされる事になり、急いで開戦通告の準備を始めます。
東郷茂徳外務大臣から送られた「暗号化された電報」が駐米大使の元へ届けられましたが、大使館の電信課員達は暗号を解読するのに非常に手間取り、夜になると同僚の送別会に出席してしまいました。
その結果、国交断絶の文書がアメリカの国務長官のコーデル・ハルに届けられたのは、真珠湾攻撃の1時間後になってしまったのです。
この事から、真珠湾攻撃は「卑怯な攻撃」と非難される事になりました。
真珠湾攻撃について、アメリカがどこまで察知していたのかは定かではありません。
何はともあれ、日本はこの日を境に破滅へと突き進んでいきます。
太宰治は、その日の事をこう書いています。
『十二月八日』
しめ切った雨戸のすきまから、
まっくらな私の部屋に、
光のさし込むように強くあざやかに聞えた。
二度、朗々と繰り返した。
それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。
あるいは、聖霊の息吹きを受けて、
つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。