2019年10月6日日曜日

大東亜戦争3 マレー半島電撃戦① チャーチルの涙



日本軍は、対米開戦と同時に「南方作戦」も計画していました。

香港、シンガポール、マニラなどに展開する英米を一掃し、石油、天然ガス、ゴムなどの重要資源が豊富なインドネシアを手に入れることが目標としたのです。

インドネシアへ向かう為に、まずはフィリピンを攻略する右回りルートを主張する海軍と、マレー半島を南下する左回りルートを主張する陸軍とで意見が分かれましたが、結局、両方同時に行われる事で決定しました。

陸軍は、まずはマレー半島南端のシンガポールを占領し、インドネシアへの足がかりとする必要がありました。

マレー半島やシンガポールはイギリスの植民地であり、ここを制圧すればイギリス本土への補給も遮断できる為、日本の同盟国ドイツへの間接的なアシストにもなるのです。

しかし、シンガポールは「日英同盟の解消」以来、防御施設の強化が進められていました。

シンガポール要塞は多数の要塞砲で守られ、海方面からのいかなる侵攻も許しません。

とは言え、陸方面から侵攻する為には1000キロの一本道を250もの河川と険しいジャングルから成る「天然の要塞」を走破せねばなりませんでした。

さらにイギリス軍は、日本軍の南下を警戒して戦力を増強させており、マレー方面の兵力は9万人近くにも達していました。

これは、マレー作戦開始時の日本軍の倍以上の数字ですが、イギリス軍は欧州戦線やアフリカ戦線へ主力を投入していた為、イギリス人による部隊は2万名ほどで、あとの部隊はインド人やオーストラリア人などによって編成されており、練度は低かったようです。
イギリス軍だけどインド人

さらに、イギリス人は、日本人に対して「出っ歯でメガネをかけて視力が弱い」という偏見を抱いていた為、日本軍についての研究もろくにされず、日本軍を過度に見くびっていました。
日本人のイメージは「出っ歯にメガネ」
1941年12月4日、海南島の三亜を出撃した日本軍の大船団はマレー半島を目指します。

6日にはイギリス軍機によって日本軍の存在は知られ、さらに陸軍機によってイギリスの飛行艇を撃墜するなどの交戦が起こりましたが、イギリス軍からの反撃がなかった為、作戦は予定通り遂行される事になりました。

12月7日、各部隊はそれぞれの上陸地点へ向かって散開します。。

マレー半島は断崖地形であり、上陸地点は限定されていました。
マレーシアの海岸は険しい

その中でも北東部に位置する「コタバル」にはイギリス軍の飛行場があり、ここを占拠すれば制空権を確保できます。

当然ながら守りも堅く、トーチカ陣地が構築されて上陸は非常に困難でした。

日本軍は、奇襲を仕掛けるべく、準備砲撃なしで強襲上陸を敢行しました。

12月8日午前1時半、真珠湾攻撃よりも一時間以上早く、日本軍はコタバルで大東亜戦争の口火を切ったのです。

しかし既に存在を確認されていた日本軍の攻撃は奇襲とはならず、輸送船団はイギリス軍機の激しい機銃掃射に見舞われることになりました。

機関銃の雨の中、日本兵たちはモグラのように地面を這いつくばりながら突撃を繰り返しました。

日没までに飛行場を占拠する目標は叶いませんでしたが、日本軍は320名の戦死者を出しながらも大激戦の末に8日夜半にコタバル飛行場を占拠することに成功します。

実はこの捨て身のコタバル上陸作戦は、犠牲を覚悟した陽動作戦でした。

日本軍の主力は、マレー国境付近のタイ領土「シンゴラ」へ上陸する予定だったのです。

コタバルに敵軍を惹きつけている間、日本軍はシンゴラへ無血上陸する事ができました。

日本軍は早速タイと「日泰同盟」の交渉を開始し、タイは日本軍と休戦協定を結んでタイ領土の通過を認めました。

こうして、日本軍がマレー半島を南下する準備が整ったのです。

12月8日の開戦とともに、日本軍はシンガポールに対して夜間爆撃を行っていました。

イギリス軍は「日本人は目が悪く、夜間飛行はできない」と思い込んでいたためこの空襲に全く対応する事ができませんでした。

この爆撃の時、日本軍はシンガポールに停泊する2隻の戦艦と4隻の巡洋艦と駆逐艦の姿を確認しています。

これはイギリスの「東洋艦隊」でした。

イギリス東洋艦隊の司令官「トーマス・フィリップ」は航空隊による支援を求めましたが、既にコタバル飛行場は日本軍の手によって陥落しており、真珠湾攻撃で大損害を被っていたアメリカに助けを求める事もできませんでした。
トーマス・フィリップ

仕方なく、イギリス東洋艦隊は日本軍輸送船団を叩くべく、航空支援なしでシンガポールを出港することになります。

イギリスには戦艦に王家の名前をつける慣例があり、一番艦は「キング・ジョージ5世」、二番艦は「プリンス・オブ・ウェールズ」でした。

シンガポールに配属されていたプリンス・オブ・ウェールズは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルがアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトを招いて大西洋会談を開くほどのお気に入りの艦でした。
プリンス・オブ・ウェールズ

航空支援がないにも関わらず、東洋艦隊の艦内は楽観的な空気が漂っていたと言われています。

「日本人は近眼で射撃ができない」「日本の航空機はレベルが低い」という思い込みが根強く、さらに「航空機は戦艦を沈める事ができない」というのが当時の常識だったからです。

日本軍の南方作戦の支援任務に就いていた戦艦「金剛」「榛名」は老朽艦であり、最新鋭のプリンス・オブ・ウェールズには敵いそうになく、日本軍は艦隊決戦を避けることにします。
金剛

12月10日11時45分、南部仏印を出撃した日本軍の索敵機が東洋艦隊を発見すると、攻撃部隊が殺到し、「マレー沖海戦」が始まりました。

この戦いは、「作戦行動中の戦艦に、航空機のみで挑む」という前代未聞の戦いになりました。

激しい対空砲火によって日本軍は6機を喪失し、21名の戦死者が出ますが、度重なる魚雷攻撃の前に、レパルスは撃沈、プリンスオブウェールズも転覆して沈み始めます。
攻撃を受けるプリンスオブウェールズとレパルス

2隻が沈没した後、日本軍はイギリス海軍の戦いぶりに敬意を表し、救助活動の妨害などは行いませんでした。

それどころか後日、沈没した海面に花束を投下して戦死者を弔っています。
プリンスオブウェールズからの救助活動

この戦いによって「大艦巨砲主義」の時代は終焉を迎え、戦争は飛行機の時代に移って行くことになりました。

この海戦の結果、日本軍はマレー半島における制空権と制海権を掌握し、陸軍による半島の南下がスムーズに行われる事になりました。

プリンス・オブ・ウェールズ轟沈の知らせを受け取ったチャーチルは、そのショックで涙を流したと言われており、後に「2隻を失った事が、第二次世界大戦で最も衝撃的な事だった」と記しています。

しかし、チャーチルの落胆はまだ始まったばかりだという事を彼は予想していたでしょうか。

世界の4分の1を支配していた大英帝国が崩れ去る音が聞こえ始めていました。