2019年10月8日火曜日

大東亜戦争4 マレー半島電撃戦② 自転車でG O!

チリンチリン♫


「マレー沖海戦」にてイギリス東洋艦隊の2隻の主力艦を撃沈させた事により、マレー半島沖の制海権を掌握する事に成功した日本軍は、ベトナムのカムラン湾から続々と輸送船を送り出す事ができました。

マレー半島を南下する「第25軍」は、「近衛師団」「第5師団」「第18師団」「第56師団」「第3戦車団」などによって編成されており、それらを束ねていた司令官が「山下奉文」です。
山下奉文(やました ともゆき)
こうしてシンガポールを目指してマレー半島を南進する作戦が開始されるのですが、その行程は1100キロ、実に東京から下関までの距離に匹敵します。

南下する日本軍の前に最初に立ちはだかったのは、タイとマレーシアの国境付近に位置する「ジットラ」に築かれた強固な陣地でした。



日本軍はマレー半島の地理を熟知しておらず、敵の防御施設を突破する為に、現地で協力してくれる諜報員を探しました。

そこで陸軍参謀本部が目をつけたのが、日本人でありながらもマレー人として生き、現地で盗賊団を率いていた「谷豊」でした。

谷豊は福岡県の出身でしたが、2歳の時にイギリス領マレーに引っ越して以来、数年おきに日本とマレーで交互に暮らすような生活をしていました。

しかし満州事変が起こった時に、暴徒と化した華僑によって妹の首を切り落とされて殺されてしまい、怒りのあまりにマレー人の友人達と徒党を組んで華僑を狙う盗賊団となったのです。
谷豊
日本陸軍のスパイ「神本利男」は、逮捕され投獄されていた谷豊に接触し、保釈金を払って解放してあげ、熱意ある説得の末に日本軍へ協力させる事に成功しました。
神本利男
ジットラに建設されていた防御陣地「ジットラ・ライン」は強固な要塞ではありましたが、湿地帯という悪条件での工事は難航していました。

谷は窃盗団の仲間と共に労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や機械の破壊などの工作を行い、工事を大幅に遅れさせることに成功しました。

この結果、「日本軍が突破するのに三ヶ月かかる」と言われていたジットラ・ラインは、わずか一日で突破される事になります。

「ハリマオ」と呼ばれた谷豊は、その後も日本軍と行動を共にし工作活動を行いますが、マラリアにかかって翌年の三月に死亡してしまいました。
谷豊をモデルに作られたテレビ番組
イギリス軍は、250もの河川にかかる橋を爆破しながら退却し、日本軍の足止めをしようとしました。

しかし日本軍の快進撃を止めることはできず、1日に100キロもの進軍を許していました。

その機動力を可能にしたのが、「銀輪部隊」と呼ばれる自転車部隊です。

マレー半島には戦前から日本の自転車が輸出されており、壊れたとしても現地で部品調達が可能だったのです。

日本兵たちは橋を爆破されていようが、自転車を担いで川を渡りました。

そして日本軍はぺナン島、クアラルンプール、ゲマス、ジョホールバルなどの要衝を次々に攻略していき、1月31日にはマレー半島の最南端にまでたどり着きます。

いよいよ、目標のシンガポールが目前となったのです。

シンガポール要塞は、マルタ島、ジブラルタル、真珠湾と並んで「世界四大要塞」に挙げられるほど強固な要塞でした。

しかし海方面に重点を置いて強化された要塞だったので、マレー半島を南下してきた日本軍に対応するため、イギリス軍は大砲の向きを陸側に変えたり、新たに砲台を設置したりせざるを得ませんでした。

さらに、ジョホールバルとシンガポールを隔てるジョホール水道の南岸に無数のトーチカを作り、さらにそのトーチカの間には壕を張り巡らせ、対岸の日本軍を照らし出すための照明を設置し、万全の体制を整えて日本軍を迎え撃ちます。


対する日本軍は「日本軍は東から攻めてくる」と思い込ませるために陽動作戦を行いました。

日中は頻繁に自動車を東へ移動させ、夜になるとライトを消したままこっそり西側に帰ってくるのです。

これを繰り返すことによって、日本軍の兵力の大部分は東へ移動したのだとイギリス軍に思い込ませることに成功しました。

この作戦にまんまと釣られたイギリス軍は主力を東へ配置し、西の守りを薄くしてしまいます。

2月4日、戦闘準備の整った日本軍は、砲弾の雨をシンガポールに降らせました。

これに対してイギリス軍も砲撃を開始、激しい砲撃戦となります。

日本軍の兵力は36000、シンガポールを守るイギリス軍は85000です。

倍以上の戦力差があるにも関わらず、2月8日に開始された日本軍の渡河を、イギリス軍は止めることができませんでした。

イギリス軍は後退しつつも戦闘を続けますが、2月15日には最終防衛線を破られて敗北する事になります。

そしてその日の夕刻、山下奉文司令官と、連合軍司令官パーシヴァル中将との間で会談が持たれました。

この時、パーシヴァルはグダグダと話を引き伸ばし、なかなか「降伏する」と言わなかったので、山下が「イエスかノーか!!」と迫った話は有名です。
「イエスか、ノーか」
アーサー・パーシヴァル

シンガポールのイギリス軍が降伏したことによって、8万人のイギリス兵が捕虜となり、マレー半島で捕虜になっていた5万人と合わせると捕虜の数は実に13万人にも膨れ上がりました。

これはイギリス史上最大の敗北となり、その衝撃はチャーチルも首相の辞任を考えるほどだったと言われています。

そして何より帝国主義の覇者であった大英帝国の威信を大きく傷つける事になったのです。

さらにシンガポールを失ったことは、インドとオーストラリアの連携を遮断される事にもなり、第二次世界大戦におけるイギリスの戦況を悪化させる事も懸念されました。
シンガポール占領を喜ぶ日本軍

赤い国は1941年当時のイギリスの植民地。
オーストラリアは独立していたものの、かつては大英帝国の一部でした


さて、マレーシアとシンガポールからイギリスを追い払ったとはいえすぐに独立・・・というわけにもいかず、日本の統治下におかれることとなり、シンガポールは「昭南島」と改名されました。

そして昭南島には「ラジオ昭南」が設立され、ラジオ放送を通じて、インドやスリランカに独立運動を呼びかけ、シンガポールはアジア独立運動の起点になったのです。

このラジオ放送を行っていたのは「インド国民軍」です。

マレー作戦では大量の「捕虜」が出ることになりましたが、イギリス軍の捕虜とは言ってもその大部分はインド人でした。

日本軍は、投稿してきたインド人兵士「モーハン・シン」大尉に、インド人捕虜の統括を依頼し、志願者を募って「インド国民軍」を結成したのです。

インド国民軍は、日本軍と行動を共にし、インド解放の為に戦う事になります。
モーハン・シン
ところで、白人による植民地支配というものは非常に良くできたもので、白人たちは現地人の怒りの矛先が自分たちに向かないような工夫を必ずしていました。

マレー半島やシンガポールも例外ではなく、白人たちは東南アジアで強いコミュニティを持つ「華僑」を利用しました。

白人たちが現地人から搾取するシステムの運用を華僑に任せる事によって、「間接支配」の構図を作り、不満が華僑に向かうように仕向けていたのです。

要するに華僑は「白人側」の立場であり、宗主国の敵である日本軍は華僑にとっても敵でした。

華僑は日本軍に対してゲリラ攻撃を仕掛け、時には市民に紛れ込んで日本軍を攻撃しました。

この事態を重く見た日本軍は、18歳から50歳までの華僑を呼び出し、ゲリラの疑いのある者、抵抗した者などを処刑しました。

その数は、一説には5000人にものぼると言われています。(シンガポール華僑粛清事件)
華僑虐殺の慰霊塔

さらに、植民地であったが故に宗主国との経済的依存度が高く、日本の占領下に置かれた為に英米と貿易ができなくなってしまい、生活必需品が不足してインフレが起こってしまいました。

現在では、そのような「日本統治下の負の側面」のみが強調され、日本の歴史教育を破壊する為に利用されているのです。