フィリピンはアメリカの植民地である為、日本軍は開戦と同時にフィリピンを占領し、アジアにおけるアメリカの拠点を奪う必要がありました。
1941年12月8日、真珠湾攻撃のニュースはフィリピンのアメリカ極東軍にも届きます。
在フィリピン米軍(以下、在比米軍)は台湾から日本軍の攻撃機が出撃する事を察知しており、クラーク基地とイバ基地の戦闘機を出撃させ、基地上空を警戒しました。
イバ飛行場とクラーク基地は近くにあります |
しかしその頃、台湾では濃霧が発生し、第11航空艦隊は出発が遅れてしまいます。
この遅れが幸いしたのか、日本軍機がフィリピンに到着する時刻と、米軍機が給油するタイミングが重なった為、日本軍は容易に飛行場を爆撃するのができました。
当時のアメリカの主力機Pー36 |
在比米軍はこの日だけで100機もの飛行機を失う事になり、その後の戦闘によって、開戦からわずか5日で日本軍は早々とフィリピンの制空権を確保する事ができたのです。
フィリピン南部のミンダナオ島の都市・ダバオは12月20日には陥落し、さらにフィリピンの中心都市であるマニラのあるルソン島に日本軍が上陸した事によって米軍はマニラを放棄します。
アメリカ極東陸軍司令官の「ダグラス・マッカーサー」は、12月8日の開戦直後から「日本が真珠湾で負けるだろう」とタカをくくり、日本敗北の知らせをただ待つのみで時間を浪費し、日本軍の侵攻に対する対策に大きく遅れをとっていました。
マッカーサーとマニュエル・ケソン |
マッカーサーは日本軍の航空機によって制空権を掌握されても、日本人を見下した人種差別的な観点を崩さず、「日本軍の飛行機を操縦しているのはドイツ人だ」と報告するほどでした。
さらに、予想よりも6日も早く上陸に成功した日本軍に恐れをなし、マッカーサーはマニラを放棄して在比米軍をバターン半島とコレヒドール島に退却させました。
米軍が撤退したマニラは「無防備都市宣言」を行い、日本軍はマニラへ無血入城することになります。
これは、戦時下において「軍事力が存在していない都市である事」を宣言し、戦火による損害を免れる為の措置であり、当時の戦時国際法に基づいた宣言でした。
無防備都市宣言をした都市を攻撃することは許されていないのですが、実際にはあまり守られていません。
無防備都市宣言をしたマニラ |
フィリピン攻略を受け持つ日本の第14軍司令官「本間雅晴」中将は、800名の将校を集めて「焼くな、犯すな、奪うな」という訓示をし、違反者には厳罰に処すと宣言します。
しかしそれでも、日本の陸軍将校による「マニラの女性の強姦」などの報告があがっており、日本軍の軍紀・軍規は世界一であれども、「抑えの効かない狼藉者」がいなかったわけではなさそうです。
本間雅晴 |
さて、日本軍はバターン半島に立てこもるアメリカ軍を「所詮は敗残兵」と軽く見ていました。
しかし、アメリカは数十年も前から日本と戦争になった時の戦争計画「オレンジプラン」を作成しており、在比米軍が日本軍の攻撃に持ちこたえられない事も想定内の事でした。
オレンジプランでは、バターン半島とコレヒドール島に退却して6ヶ月間持ちこたえるように決められており、これに基づいてバターン半島とコレヒドール島には巧妙な防衛線と堅固な要塞が築かれていたのです。
そんな事は予想にもしていない日本軍は、主力部隊をインドネシア攻略に差し向けてしまい、思わぬ苦戦を強いられる事になるのでした。
日本軍はバターン半島攻略に死傷者を増やすばかりで、2月には作戦を中断せざるを得ない状況にまで追い込まれます。
バターン半島で進撃する日本の戦車 |
しかし日本軍の猛攻をしのいできた在比米軍の損耗も著しく、さらにバターン半島には一ヶ月分の食料しかありませんでした。
アメリカ本国では、「善戦するマッカーサーを救出せよ」という世論が沸き起こりますが、米軍はフィリピンに補給や増援を送る余裕などありませんでした。
それを悟ったマッカーサーは10万人の将兵を見捨ててフィリピンから脱出する準備を始めます。
コレヒドール島に到着した米軍の潜水艦に、負傷兵を乗せてあげるのではなく、フィリピンの大量の金銀を積み込み、自身は家族とともに魚雷艇に乗り込んでコレヒドール島を脱出したのです。
マッカーサーが乗って逃げた船 |
その後、ミンダナオ島を経由してオーストラリアまで逃げ落ち、そのまま南太平洋方面の連合国軍司令官に就任したマッカーサーは「私は必ずフィリピンに戻る(I shall return)」というカッチョいい演説をしました。
しかし当時のアメリカ兵の中では「I shall return」という言葉を「敵前逃亡」という意味で使うのが流行ってしまうほど、マッカーサーは卑怯者であるという認識が広がっていました。
マッカーサーがフィリピンから姿を消した後、日本軍は再びバターン半島に攻勢を仕掛けます。
3月24日から連日に渡って爆撃を行い、4月3日には陸上からの総攻撃を行いました。
もはや抵抗する余力のない米軍は降伏し、なんと7万人の捕虜が出る事になりました。
バターン陥落を喜ぶ日本兵達 |
降伏した米兵 |
日本軍は続いてコレヒドール島の攻略に移ります。
バターン半島の先端からはコレヒドール島まで砲弾が届くので、日本軍はここから砲撃戦を挑みました。
4月14日、日本軍の砲弾が敵の弾薬庫に命中して大爆発を起こします。
5月5日に日本軍が上陸を開始すると、米軍は翌日には降伏を申し入れてきました。
コレヒドールの司令部 |
その後、ミンダナオ島などにも日本軍は上陸し、6月にはフィリピンの米軍全てが降伏し、フィリピン作戦は終了します。
ところで、バターン半島で降伏した7万人の捕虜はどうなったのでしょうか。
予想より二倍以上も多い数の捕虜に困ったのは他でもない、日本軍の方です。
何しろ日本軍はトラックが足りておらず、米軍のトラックも、日本軍が使えないように米兵が自分たちで壊してしまっていました。
バターン半島に食料はないため、日本軍は捕虜たちを収容所まで歩かせるしかありませんでした。
たった120km、頑張れば女性が一人で踏破できる程度の道のりでしたが、飢えとマラリアに苦しみ、衰弱した米兵にはいささかしんどかったようです。
1日に10キロ20キロ歩くのは日本兵にとっては当たり前のことでしたが、米兵たちは自堕落に休みを繰り返し、日本軍が気を使って何箇所も補給所を用意したのに、「米は嫌だパンを出せ」と文句を言う始末でした。
ダラダラと歩き続けた為に感染症が日本兵にまで広がるほどで、重い装備を背負った日本兵から見れば、軽装で水筒しか持たなくても良い捕虜が羨ましく思えたかもしれません。
結果としてマラリアなどによって1万人近くの人間が死亡した為、戦後に「バターン死の行進」として、日本軍を非難する宣伝材料として今日も利用されています。
捕虜三百人を兵士一人が引率するような状況でした。 いくら捕虜とはいえ襲われたらひとたまりもない |
こうして、フィリピンからアメリカ軍を追い払う事ができたわけですが、これを一概に「日本軍によるフィリピン解放」と呼んでも良いのかどうかは、同じフィリピン人の中でも意見が分かれるところです。
フィリピンは1521年からスペイン、1898年からアメリカの植民地でした。
「国家の独立」と言うものは、数百年の長きに渡ってフィリピン人が夢見てきたものなのです。
1930年代頃になると、アメリカ国内で「フィリピンを独立させよう」と言う世論が沸き起こりました。
しかしこれは決して人道的なものではなく、世界恐慌によってもたらされた経済的な理由によるものでした。
植民地、フィリピンから安い農作物が手に入るので、アメリカの農家に打撃を与えていたのです。
かと言ってフィリピンからの農作物に高い関税をかけるには、フィリピンを独立国にする必要がありました。
1934年にルーズヴェルト大統領は「フィリピン独立法」を制定し、独立準備政府を結成し、フィリピン人の「マニュエル・ケソン」を準備政府の大統領に据えました。
マニュエル・ケソン |
しかしこのアメリカ主導の「独立」は、フィリピンの主権はアメリカが握ったままになっており、さらにアメリカ大統領への忠誠を誓わなくてはならない「まやかしの独立」でした。
ケソンは、日本がフィリピンに侵攻してきた際に渡米して亡命政府を樹立しますが、持病の肺結核によって戦争が終わる前に亡くなってしまいます。
フィリピンを占領した日本軍は、準備政府の代わりに親日政権を樹立し、1943年には「第二フィリピン共和国」としてフィリピンを独立させました。
大統領となった「ホセ・ラウレル」は、日本軍政の傀儡でありながらも、「英米に宣戦布告せよ」と言う、国を滅ぼしかねない要求には断固として反対し、真の独立国家であろうとし続けました。
おわかりいただけると思うのですが、要するに当時のフィリピンには
「日本が攻めてきたせいで、アメリカに独立させてもらう話がなくなってしまった」
と感じた人達が大勢いたのです。
そしてそのような人達は抗日ゲリラとして、日本軍を苦しめ続けることになります。
親日か親米か、2つの大国の間で揺れ動きながらも、フィリピン独立を模索し続けた彼らの国家観に敬意を表し、私は「日本がフィリピンを独立させた」と言う考えを捨てる事にしました。
数百年も蹂躙されつつも、絶えることのなかった彼らの「民族としての誇り」こそが、フィリピンを独立させたのです。