日本の東側は大きく海に面しており、日本本土を守るためには莫大な海軍兵力を割いて警戒に当たらねばなりません。
しかし実際のところ海軍にそのような余裕はなく、アメリカ太平洋艦隊の機動部隊(空母を中心とした艦隊)の活動の機運に不安を隠しきれない状況でありました。
そのため、アリューシャン列島のキスカ島を攻略して水上基地を作り、米海軍の北方航路を抑えようという作戦が提案されていました。
ソ連を刺激する事を恐れてこの意見は見送られて来ましたが、ドーリットル空襲が4月18日に起きてしまった事によって、「米軍空母によって日本が空襲に晒される」事が立証されてしまった以上、日本軍はそれを防がねばなりません。
こうして、アリューシャン攻略作戦(A L作戦)が認可されることになります。
そしてこのアリューシャン攻略は「ミッドウェー作戦」と同時に行われる事になりました。
ミッドウェーを攻略し、アメリカの太平洋艦隊を誘い出して殲滅する事が目的のミッドウェー作戦でしたが、日米艦隊の戦力差がありすぎる為に、米軍が反撃に出ず太平洋艦隊をおびき出せないのではないかという懸念がありました。
そこでミッドウェー島とアリューシャン列島を同時に攻撃すれば、領土を守る為に流石にアメリカ艦隊も出撃せざるを得ないだろうという算段なのです。
5月25日、「隼鷹」「龍驤」の2隻の空母を中心とした機動部隊が大湊から出航します。
隼鷹 |
龍驤 |
しかしこの際、攻撃隊は対空砲火や戦闘機Pー40などによる反撃を受ける事になります。
この戦いで、古賀忠義一等飛行兵曹の乗る零戦(零式艦上戦闘機二一型)が被弾し、油が漏れ出す致命弾となってしまいました。
P-40 |
零戦 二一型 |
古賀一飛曹は主脚を出してアクタン島への不時着を試みます。
しかし湿地帯である事に気づかずに着陸して主脚が沼地にとらわれてしまい、その勢いのまま機体はひっくり返ってしまいました。
古賀一飛曹は頭部を強打して死亡、一ヶ月後に発見されて米軍に回収されました。
古賀忠義 |
当時の零戦といえば、機動性、格闘性能、航続性能のどれも非常に優れており、世界のどの戦闘機と比較しても抜きん出ていました。
1940年にフライング・タイガースのシェンノートがその性能をレポートで報告したときには、アメリカの分析官は「馬鹿げている」として認めなかったほどでした。
アメリカのエースパイロットでさえも「零戦とドッグファイトをすることは馬鹿げている」と言わしめる程恐れられていた零戦の飛行性能の特性は、謎に包まれていたのです。
アクタン島で回収された零戦は機体に大きな損傷がなかった為に本国へ送られ、修理された後に24回もの飛行テストが行われました。
アクタンゼロ |
そして零戦の能力は徹底的に研究、分析され、「右へロールしにくい事」「急降下するとエンジンが停止する事」などの弱点を暴かれていったのです。
アクタン・ゼロはアメリカにとって「最高の鹵獲品」になったと言われています。
さて、ダッチハーバー空襲を終えて6月6日、アッツ島へ1200名、キスカ島へ1300名の日本兵が上陸しました。
敵の守備隊は存在せず、抵抗を受けることもなく無血占領となり、これはアメリカにとって第二次世界大戦で初めて植民地以外の領土を占領された出来事となりました。
まるで日本軍の先行きを暗示するかのように、ツンドラで資源も何もない風景が、不気味に日本兵の眼前に広がっていました。