2019年12月6日金曜日

大東亜戦争15 特殊潜航艇の戦い 死地への棺桶、東へ西へ




特殊潜航艇第二次攻撃隊員
爆発事故で負傷し、シドニーへの出撃を回避した八巻悌次中尉(前列左から二番目)を除いて、
全員戦死


マダガスカルはアフリカ大陸の東岸にある、日本の1、6倍の面積を誇る大きな陸地です。

地球上の大きな陸地の中では、「人類が定住するのが最も遅かった場所」と言われており、その最初の住人はアジアからカヌーで渡ってきたボルネオ系のオーストロネシア語族と言われています。
オーストロネシア語族は東南アジアを中心に分布

実際、マダガスカル人の顔立ちは、近隣のアフリカ諸国よりも、何処と無くアジアを匂わせるような丸顔が多いのです。
丸顔多し

マダガスカルには、16世紀頃から栄えた「メリナ王国」が存在していましたが、18世紀の終わりにフランスの侵攻を受け、植民地にされてしまいます。
メリナ王国

今でこそ、バニラの世界の輸出量の6割を占めるマダガスカルですが、これはフランスの植民地時代にバニラビーンズを持ち込まれて栽培させられていたのがそもそもの始まりです。
日本のバニラの輸入先の95%がマダガスカル

このように、マダガスカルはフランスにとって都合の良い単一の作物を生産し、鉱物の採掘が行われるなど「フランスへの原料供給地」としての立ち位置を確立し、そのフランスに依存した経済体系は、独立を果たした現在でも尾を引く事になります。

そんなフランスの植民地支配に変化が訪れたのは第二次世界大戦の時です。

ドイツによってフランス本国が侵攻されてしまい、マダガスカルの宗主国フランスは、親ドイツ派の「ヴィシー・フランス」になったのです。
ヴィシー政権の軍旗

この頃、地中海・北アフリカ戦線において連合国は劣勢に立たされており、物資の運搬にスエズ運河を利用することができず、イギリスからインド洋へ行くためには喜望峰を超えて迂回するルートを使用せざるをえませんでした。

そのルート上にあるマダガスカルを枢軸国側が占領してしまえば、イギリス本国と、その植民地であるインド・オーストラリアとの補給路が断たれる事になります。

マダガスカルでイギリス軍と奮戦するヴィシー・フランス軍の要請により、日本海軍は1942年の4月下旬、5隻の潜水艦をマダガスカル沖に向かわせました。

5月31日、マダガスカルのディエゴ・スアレス港(現・アンツィラナナ)に連合軍の戦艦、巡洋艦が停泊している事を確認すると、その翌日、日本軍の潜水艦は特殊潜航艇「甲標的」を二艇出撃させ、戦艦ラミリーズ、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティに魚雷を命中させました。
ラミリーズ

「甲標的」は潜水艦から発射される小型の潜水艇で、魚雷2本を装備し30ノットで潜航することができ、あの真珠湾攻撃にも参戦していました。
甲標的

任務遂行後は母艦の潜水艦に収容される事になっているのですが、作戦を実行してから回収するまでの行程が非常に困難であり、当時は実質的な特攻兵器でした。(後のフィリピン戦線では安定した生還率を誇っています)

さて、ブリティッシュ・ロイヤリティは沈没、戦艦ラミリーズも大破という大損害を被り混乱に陥ったディエゴ・スアレス軍港の連合国軍は、日本軍の潜水艦を破壊するために爆雷攻撃を繰り返し、防潜網を貼りました。
防潜網

帰還を図る甲標的でしたが、ノシ・アレス島で座礁してしまい、2名の搭乗員、秋枝三郎大尉と竹本正巳一等兵曹は潜水艇を放棄し、マダガスカル島へ上陸して徒歩で合流地点へと向かいます。

しかし6月2日、地元住民の通報によりイギリス軍に発見されてしまい、降伏を拒否した両者は15名ものイギリス軍兵士に対して拳銃と軍刀のみで応戦し、戦死しました。

イギリス軍側にも1名も死者と5名の重軽傷者を出す、壮絶な最期でした。

秋枝大尉と竹本一等兵の亡骸は、イギリス軍によって現地に埋葬されたと言われています。
秋枝大尉
竹本一等兵

そしてもう一艇、岩瀬勝輔少尉と高田高三兵曹長の搭乗する甲標的の命運は、未だにわかっておりません。
岩瀬少尉
高田兵曹長

この特殊潜航艇による「マダガスカルの戦い」は、大きな戦果を挙げたものの、日本軍は戦略的な意義を見出せずにそれ以降マダガスカルでの軍事行動を起こすことはありませんでした。

日本の支援を期待していたマダガスカルのヴィシー・フランス軍は壊滅し、マダガスカルは連合国の手に落ちてしまいます。

もし、日本軍がスリランカとマダガスカルを占領していたら、大戦の結果にどれほどの影響を及ぼしていた事でしょうか。

さて一方で、マダガスカルの戦いと連動して行われていたのが「シドニー港攻撃」です。

これはイギリス連邦間の通商破壊を目的とした作戦で、5月30日にシドニーに到着した3隻の潜水艦によって実行されました。
イギリス連邦

5月31日の夕刻、3隻の潜水艦からそれぞれの特殊潜航艇・甲標的がシドニー湾に向けて発進します。

しかしそのうちの一隻は防潜網に捕まって身動きが取れなくなってしまった為、中馬兼四大尉と大森猛一等兵によって自爆しました。
前が中馬、後ろが大森

もう一隻はシドニー湾内への侵入に成功し、米海軍の巡洋艦「シカゴ」へ魚雷を発射するも外れてしまいます。
巡洋艦「シカゴ」

しかし逸れた魚雷はオーストラリア海軍の宿泊艇クッタブルの船底を通過して岸壁に衝突し、爆発を起こしました。

これによってクッタブルは沈没し、19名が死亡します。
クッタブル

戦果を挙げて帰途についた甲標的は巡洋艦シカゴの攻撃を受けてしまい、海中深くに沈没してしまいました。

搭乗していたのは伴勝久中尉と、芦辺守一等兵曹でした。

最後の一隻は、警戒が厳しくなった湾内に侵入する事はできたものの、岸壁に艇前方をぶつけてしまい魚雷発射管を損傷、魚雷を発射できなくなりました。

そのため、巡洋艦シカゴへの体当たりを決行するも、接触するのみに終わってしまい、乗員の松尾敬宇大尉と都竹正雄二等兵曹は拳銃で自殺しました。

松尾敬宇の胸像(菊池神社)

甲標的の母艦である3隻の潜水艦は、甲標的の帰還を信じて6月3日まで合流地点で虚しく待機し続けました。

オーストラリア海軍はその後、海中深くに沈んだ一隻を除き、二隻を引き上げて四人の日本海軍の軍人を海軍葬の礼を以って弔います。

シドニー地区海軍司令官ミュアヘッド・グールド少将はこう語りました。
ミュアヘッド・グールド

「このように鉄の棺桶に乗って死地に赴くには、最高の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一を持って祖国に捧げるオーストラリラ人が、果たして何人いるであろうか」



松尾敬宇の母・まつ枝
シドニー湾を見下ろし「よくこんな狭いところをすり抜けたものだ。母は褒めてあげますよ」と語った