1941年12月8日の真珠湾攻撃はアメリカにとって「屈辱の日」になりました。
米軍は日本軍の快進撃を止めることはできず敗戦を重ね、さらに9隻の日本軍の潜水艦がアメリカの西海岸付近で通商破壊を行い、航行中のタンカーや貨物船を撃沈させました。
1942年2月24日には、カリフォルニア州サンタバーバラの石油精製所を伊17潜水艦が砲撃を行うなど、アメリカ本土への攻撃を行っていました。
本土砲撃を行った日本軍の潜水艦 |
これらの作戦は、本土を攻撃された事の少ないアメリカ国民を不安と恐怖に陥れるには十分であり、ルーズヴェルト大統領は日本軍の本土上陸を過度に警戒し、ロッキー山脈で食い止める作戦をも立案させるほどでした。
また、真珠湾攻撃の際にハワイのニイハウ島に不時着した「西開地重徳」一飛曹を、日系アメリカ人が匿ってしまう「ニイハウ島事件」の影響もあり、アメリカ本土の日系アメリカ人に対する強制収容も行われました。
日系人強制収容 |
日本に対する警戒心、恐怖心がピークに達する中、2月25日には、ロサンゼルスに飛来した「未確認飛行物体」に対し、戦闘機による迎撃や対空射撃などが行われ、砲弾の破片に当たって市民に死者が出る「ロサンゼルスの戦い」が起きてしまいました。
「UFOが来た!」というオカルトチックな不確定情報に陸軍も海軍も民衆も振り回され、死者が出てしまうという、まさに国を巻き込んだ「集団ヒステリー」とも言える事件でした。
未確認飛行物体の正体は未だにわかっていません。
ロサンゼルスの戦い |
そこで考えられたのが日本本土空襲計画ですが、日本軍優勢の状況下においては、米海軍が日本本土に接近することすら困難であると考えられ、海上からの艦砲射撃などは断念されました。
蒋介石は日本の報復を恐れ、計画の延期を米軍に再三要請しますが聞き入れられませんでした。
とはいえ、大きな爆撃機を空母に艦載するのは困難な事でした。
艦載爆撃機の候補として挙がったBー18は小さくて艦載が可能なものの、爆弾搭載量や航続距離が不足していました。
B-23は全幅が大きすぎて空母を滑走できず、B-26は離陸距離が足りませんでした。
B-26 |
B-23 |
結局、本作戦用に「Bー25」が24機改修される事になり、空母から爆撃機を発進させる訓練が行われました。
B-25 |
空母ホーネット |
攻撃予定日の前日の4月18日、空母エンタープライズのレーダーに光が映ります。
索敵の為に発進した爆撃機が目にしたのは、漁船を改造した日本海軍の特別監視艇「第二十三日東丸」でした。
第二十三日東丸は巡洋艦や艦載機からの攻撃に晒され、30分に渡り応戦と偵察を続け、何度も本国へ打電し報告しました。
目標よりも早く発見されてしまった米軍は予定を大きく狂わされてしまい、周辺の監視艇を一掃する事に躍起になりました。
飛び立った16機のBー25は、東京・川崎市・横須賀市・名古屋市・四日市市を爆撃します。
空襲を終えたBー25爆撃機が支那へたどり着いた頃には天候も悪化し、さらに滑走路に誘導電波装置が設置されていなかった為に夜間着陸は不可能であり、搭乗員達は機体を棄ててパラシュートで脱出せざるを得ませんでした。
無事に脱出できた搭乗員達は全員、英雄として重慶に招かれて蒋介石や宋美齢夫人と晩餐会を共にしました。
日本軍はこの空襲に対する迎撃の為に盛んに無線通信を行った為、それを傍受した米軍は日本軍の有益な情報を解読する事に成功、日本軍の次期作戦や艦隊の編成を把握する事ができました。
この、突然の本土空襲に日本軍は全く対応できておらず、連合艦隊司令長官の山本五十六に大きな衝撃を与えました。
山本五十六は日本本土の安全を確保する為、ミッドウェー島を攻略して敵空母を殲滅する作戦を急ぐことになります。
米軍提督のモットーは「ジャップを殺せ。もっと殺せ。黄色いやつらを始末しろ」 |
荒川区の空襲で焼死した母親と嬰児 |
荒川区で焼死した4歳児 |