2019年12月4日水曜日

大東亜戦争14 ドーリットル空襲 ジャップを殺せ、もっと殺せ。



1941年12月8日の真珠湾攻撃はアメリカにとって「屈辱の日」になりました。

米軍は日本軍の快進撃を止めることはできず敗戦を重ね、さらに9隻の日本軍の潜水艦がアメリカの西海岸付近で通商破壊を行い、航行中のタンカーや貨物船を撃沈させました。

1942年2月24日には、カリフォルニア州サンタバーバラの石油精製所を伊17潜水艦が砲撃を行うなど、アメリカ本土への攻撃を行っていました。
本土砲撃を行った日本軍の潜水艦

これらの作戦は、本土を攻撃された事の少ないアメリカ国民を不安と恐怖に陥れるには十分であり、ルーズヴェルト大統領は日本軍の本土上陸を過度に警戒し、ロッキー山脈で食い止める作戦をも立案させるほどでした。

また、真珠湾攻撃の際にハワイのニイハウ島に不時着した「西開地重徳」一飛曹を、日系アメリカ人が匿ってしまう「ニイハウ島事件」の影響もあり、アメリカ本土の日系アメリカ人に対する強制収容も行われました。
日系人強制収容


日本に対する警戒心、恐怖心がピークに達する中、2月25日には、ロサンゼルスに飛来した「未確認飛行物体」に対し、戦闘機による迎撃や対空射撃などが行われ、砲弾の破片に当たって市民に死者が出る「ロサンゼルスの戦い」が起きてしまいました。

「UFOが来た!」というオカルトチックな不確定情報に陸軍も海軍も民衆も振り回され、死者が出てしまうという、まさに国を巻き込んだ「集団ヒステリー」とも言える事件でした。

未確認飛行物体の正体は未だにわかっていません。

ロサンゼルスの戦い
精神的に追い込まれていたアメリカは、日本に対して一撃を与え、軍や国民の士気を高揚させるような計画を立案せねばなりませんでした。

そこで考えられたのが日本本土空襲計画ですが、日本軍優勢の状況下においては、米海軍が日本本土に接近することすら困難であると考えられ、海上からの艦砲射撃などは断念されました。

そこで米軍は、空母に爆撃機を艦載し、日本を爆撃した後は空母に戻らずにそのまま日本を横断、支那へ着陸する計画を立てます。

蒋介石は日本の報復を恐れ、計画の延期を米軍に再三要請しますが聞き入れられませんでした。

日本本土空襲計画の指揮官にはジミー・ドーリットル中佐が選ばれ、空母ホーネットとその護衛として空母エンタープライズが任務に就航する事になりました。
ジミー・ドーリットル

ドーリットル中佐は日本に滞在した事もあり、日本から勲章を寄与されていたほどでしたが、その勲章は日本へ投下する予定の爆弾へとくくりつけられました。
日本からもらった勲章は爆弾と一緒に「お返し」
とはいえ、大きな爆撃機を空母に艦載するのは困難な事でした。

艦載爆撃機の候補として挙がったBー18は小さくて艦載が可能なものの、爆弾搭載量や航続距離が不足していました。

B-23は全幅が大きすぎて空母を滑走できず、B-26は離陸距離が足りませんでした。
B-18









B-26
B-23






















結局、本作戦用に「Bー25」が24機改修される事になり、空母から爆撃機を発進させる訓練が行われました。
B-25
1942年4月1日、16機のBー25を搭載した空母ホーネットがサンフランシスコを出航しました。
空母ホーネット

攻撃予定日の前日の4月18日、空母エンタープライズのレーダーに光が映ります。

索敵の為に発進した爆撃機が目にしたのは、漁船を改造した日本海軍の特別監視艇「第二十三日東丸」でした。

第二十三日東丸は巡洋艦や艦載機からの攻撃に晒され、30分に渡り応戦と偵察を続け、何度も本国へ打電し報告しました。

しかしついに命中弾を受け、第二十三日東丸の乗組員14名はアメリカからの救助を拒み、艦と運命を共にします。
第二十三日東丸

目標よりも早く発見されてしまった米軍は予定を大きく狂わされてしまい、周辺の監視艇を一掃する事に躍起になりました。

日本の特別監視艇5隻を撃沈、7隻を損傷させて33名を戦死させた後、空母ホーネットは予定よりも7時間早く、爆撃機を発進させたのです。
発艦するBー25

飛び立った16機のBー25は、東京・川崎市・横須賀市・名古屋市・四日市市を爆撃します。

攻撃が目標から逸れて民間施設に被害が出たり、意図的に民間人を狙った国際法違反の攻撃もあり、87名の死者を出した上、家屋の全壊・全焼は180戸以上にものぼりました。
明らかな誤爆

空襲を終えたBー25爆撃機が支那へたどり着いた頃には天候も悪化し、さらに滑走路に誘導電波装置が設置されていなかった為に夜間着陸は不可能であり、搭乗員達は機体を棄ててパラシュートで脱出せざるを得ませんでした。

この時に8名の搭乗員が日本軍の捕虜となり、3名が死刑、1名が病死しました。

無事に脱出できた搭乗員達は全員、英雄として重慶に招かれて蒋介石や宋美齢夫人と晩餐会を共にしました。

日本軍はこの空襲に対する迎撃の為に盛んに無線通信を行った為、それを傍受した米軍は日本軍の有益な情報を解読する事に成功、日本軍の次期作戦や艦隊の編成を把握する事ができました。

この、突然の本土空襲に日本軍は全く対応できておらず、連合艦隊司令長官の山本五十六に大きな衝撃を与えました。

山本五十六は日本本土の安全を確保する為、ミッドウェー島を攻略して敵空母を殲滅する作戦を急ぐことになります。
米軍提督のモットーは「ジャップを殺せ。もっと殺せ。黄色いやつらを始末しろ」
荒川区の空襲で焼死した母親と嬰児
荒川区で焼死した4歳児