2019年12月1日日曜日

大東亜戦争13 セイロン沖海戦  前兆

スリランカは「インド洋の真珠」と呼ばれる美しい島です。

人口の75%が北インドから渡ってきたシンハラ人の「上座部仏教」の国であり、タミル人が20%を占めています。

スリランカはインド洋交易の交通拠点となるため、さらに香辛料の産地でもあるので、古くから西洋諸国に侵略されてきました。

まずは1505年からポルトガルによる支配が150年間、さらにオランダがその後140年間。

そして19世紀にはイギリスを宗主国とする植民地支配下に置かれました。

タミル人はこの時に労働力としてインドから連れてこられたのです。

イギリスは少数のタミル人を優遇し、シンハラ人を支配させました。

こうする事で、民衆の不満や怒りの矛先が宗主国のイギリスではなく、タミル人に向かうからです。(これにより1983年に泥沼の内戦が勃発し、2009年にようやく停戦を迎えました。)
内戦によって廃墟と化した街

スリランカではイギリス人が飲む紅茶のために茶葉をせっせと作らされ、自分たちの主食の「コメ」も作れなくなり、コメを輸入に頼らざるを得ない有様で、当然のように飢饉に悩まされ続けました。

そんな中、イギリス統治の中で廃れていく仏教を守ろうと19世紀末に立ち上がったのが「アナガーリカ・ダルマパーラ」です。
ダルマパーラ

ダルマパーラは数回に渡って仏教に縁の深い日本に渡航します。

明治維新の成功により近代化しつつある日本の社会を目の当たりにすると
「欧米のアジア人に対する差別をなくし、植民地支配の悲劇からアジアを救う事が日本の役目だ」
と語りました。

さらに日本がロシアに勝った時、
「こんなに素晴らしい事はない。日本によってアジアは死の淵から生還したのだ」
とも語っています。

日本統治下の朝鮮や満州をも視察し、その発展ぶりを称賛したとも言われています。

ダルマパーラは日本へ留学するための財団を設立し、その結果、シンハラ人の民族主義意識が高まって独立運動が広がりました。

この動きを警戒したイギリスは、暴動を煽動した容疑でダルマパーラを逮捕し5年間も監禁します。

一緒に捕まった弟を獄死させられるなど辛い目に遭いますが、それでもダルマパーラは活動をやめず、1933年、69歳でその生涯を終えました。

「次に生まれ変わる時は日本に生まれたい」
と生前よく話していたそうです。

1941年に大東亜戦争が始まることになりましたが、数百年にもわたって独立を熱望していたスリランカの人々は、日本軍の快進撃に熱狂した事でしょう。

マレー作戦を終えて「昭南市」となったシンガポールからは、ラジオ放送によってインドやスリランカへ独立を呼びかけられるようになります。
ラジオ昭南の番組案内
そのような状況の中、日本軍の侵攻はスリランカへも及ぶことになりました。

日本軍は3月9日のジャワ島攻略を以て、第一段作戦である「南方作戦」を予定よりも早く完了しつつありました。

しかし次に日本軍が取るべき「作戦の第二段階」の方針は定まっていませんでした。

スリランカに進出してイギリス領インドや支那を攻略し、同盟国であるドイツ・イタリアと連携を取ろうとする陸軍の「西亜作戦」と、オーストラリアやサモアを攻略してアメリカとオーストラリアの連携を遮断しようと言う海軍の「米豪遮断作戦」を主張する海軍との間で対立が起きていたのです。

結局、進行中のビルマ作戦の輸送路確保や、セイロン島(スリランカ)へ退避していたイギリス東洋艦隊を殲滅すべく「インド洋作戦」が実行されることになりますが、現状認識と最終目標は不明瞭なままでした。

一方で、マレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズを失っていたイギリス東洋艦隊は、本国からの増援を含めて空母3・戦艦5の大艦隊を構築していました。

セイロン島が日本の手に落ちれば、インド洋交易路が遮断され、連合国への補給ルートが断たれて枢軸国側が有利になる可能性があったのです。

イギリスは日本海軍の暗号を、部分的ながらも解読に成功し、日本軍が4月1日にセイロン島を攻撃する事を察知し、艦隊連携の練度を高めて日本軍を待ち構えました。

予定より少し遅れた4月5日、セイロン島へ出撃したのは、あの真珠湾攻撃を成功させた航空艦隊「南雲機動部隊」でした。
目標のトリンコマリー軍港(印)と、コロンボ(左下)

出動した180機の艦載機が商港コロンボを空襲、迎撃に来たイギリス軍雷撃機「ソードフィッシュ」を数十機も撃墜し、重巡洋艦「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の2隻を撃沈させました。
ソードフィッシュ

この戦いで、南雲艦隊の空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」の搭乗員たちは、爆撃命中率が平均で「88%」という、驚異的な練度を見せました。

当時の世界的な平均命中率は25%であり、世界一の正確さを誇る日本の爆撃に晒された2隻の軍艦は、ただ沈みゆく事しかできなかったのです。


日本軍は、東洋艦隊の空母を叩くべく索敵を続けながら北上し、4月9日の午前からスリランカ北部のトリンコマリー軍港への空襲を開始します。

南雲機動部隊の飛行甲板上には第二次空襲に備えて燃料と爆弾を搭載した艦載機がズラリと並んでいましたが、そこへ「東洋艦隊発見」の知らせが届きます。

機動部隊は軍港の空襲よりも、艦隊への攻撃を優先させました。

既に装着していた陸上用の爆弾を外し、対艦用の魚雷へと兵装転換を行いますが、これによって空母が最も無防備になる時間が1時間半も続いてしまいました。

そこへ襲いかかって来たのがセイロン島から出撃して来た9機のブレニム爆撃機です。
ブレニム

日本軍が全く気づかないまま旗艦である赤城に爆撃が開始され、対応は後手に回りました。

幸い、命中弾はなく5機のブレニム爆撃機は零戦によって撃退され、ことなきを得ました。

その後、逃走を試みていた空母ハーミーズと駆逐艦ヴァンパイアは南雲機動部隊の爆撃機に発見され、ハーミーズは37発、ヴァンパイアは13発の命中弾を受けて撃沈しました。
空母ハーミーズ

このように、セイロン沖海戦は日本側の大勝利に終わり、イギリス軍はインド洋での艦隊行動は危険であると判断し、艦隊をアフリカ東岸のマダガスカルにまで撤退させ、戦争末期までインド洋方面で作戦を展開することができなくなりました。

しかしそれでも東洋艦隊の主力空母を見つけることができなかった事は日本軍にとって大きな痛手であり、もしここで東洋艦隊を完全に壊滅させる事が出来ていれば、イギリスにとどめを刺す事になり、第二次世界大戦からイギリスが離脱する可能性すらあったと言われています。
空母インドミタブル
空母フォーミダブル












一方で、日本海軍の内部では、最も警戒すべき相手はアメリカの太平洋艦隊であるという考え方から、インド洋に日本軍の主力艦隊を向ける事は太平洋艦隊に立て直しの時間を与えてしまっただけだと捉えられており、セイロン沖海戦以降は、インド洋への戦力投入は消極的になってしまいます。

結局、セイロン沖海戦は、日本海軍の敗北を予兆させる出来事となりました。
・暗号が解析され待ち伏せされていた
・兵装転換によって空母が脆弱になる時間を作ってしまった
・索敵不足で東洋艦隊を見つけられなかった
・敵機の接近に全く気づかなかった
これらの失態に対して、上層部は非常に楽観的であり、「重要な課題」として捉えられることはありませんでした。

「あの時、爆弾が当たってた方が良かったのでは」と感じた現場の将兵もいたそうです。

そしてその通り、日本海軍は「ミッドウェー海戦」で全く同じ過ちを犯し、日本を滅亡へと傾けさせてしまうのでした。