2019年11月26日火曜日

大東亜戦争12 ビルマの戦い② 最後の快進撃



ダボイを攻略した日本軍は海岸沿いに北上し、モールメンの敵陣地を目指しました。

国境を越えて東方から進軍する部隊とともに、二正面での攻略となりました。

モールメン(モーラミャイン)はサルウィン河口左岸に位置する、ビルマ第3の都市です。

ビルマ人の聖地である寺院を、イギリス軍はことごとく要塞として利用しました。

1942年1月28日、日本軍はモールメンへの攻撃を開始、市街地西方の高地を確保すべく断崖を登り始めます。

崖の上からの機銃掃射の弾丸の雨にもひるむ事なく登って来る日本軍に恐れをなしたイギリス軍は忽ちにして敗走を開始しました。
モールメン

丘の上から逃げゆくイギリス軍を一望することができた日本軍砲兵隊や機関銃部隊は、これに対して集中砲撃を行い、サルウィン河を渡河するための大型船や、汽車、トラックを爆破炎上させる戦果をあげました。

この「パゴダの丘」を占領した事がきっかけとなり、1月30にはモールメンは完全に日本軍に制圧されました。
パゴダの丘から臨むサルウィン河

モールメンを失ったイギリス軍は、インド人兵を増派して日本軍がサルウィン河を渡らないように防衛戦を張り、川を挟んで日本軍と激しい砲撃戦を繰り広げました。

しかし日本軍にとってこの砲撃戦は牽制にすぎず、部隊の一部は密かにサルウィン河を北上し、モールメン北方の要衝パアンを攻略しました。

パアンを拠点に日本軍は一斉渡河を行い、モールメン対岸にある都市、マルタバンを占領する事に成功したのです。

日本軍は2月11日、いよいよ首都・ラングーン攻略を開始します。

15日には要衝サトンを無血開城、16日には撤退していた敵軍に追いついてこれを軽々と撃破、大混乱に陥ったイギリス軍は民家もろとも、所構わず放火をし、どさくさに紛れて逃げて行きました。
戦友の遺骨とともにラングーンへ

イギリス軍の司令官アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を見捨て、シッタン河の橋を爆破し、退却してしまいます。
アーチボルド・ウェーヴェル

それでも日本軍の進軍を止めることはできず、援蒋ルートに使用されていたビルマ鉄道を破壊し、3月8日にはラングーンを占拠したのです。
涅槃像と日本兵

ビルマ・ルートの遮断に血相を変えたのは、ほかでもない「蒋介石」です。

首都・重慶から国民党軍を南下させてビルマに進駐、イギリス軍の敗残兵と合流して日本軍と対峙する事になりました。
蒋介石















支那事変において日本軍が苦しめられたのは、国民党軍の「日本軍が退けば追い、追えば退く」という戦法でした。

支那事変で味わった、「勝っても勝っても終わらない戦い」は日本軍が最も避けたい事であり、戦線膠着を防ぐためにも国民党軍を一気に殲滅させる必要があったのです。

3月10日、ラングーン北方のマンダレーに集結した支那国民党軍に向かって、日本軍は三方向に分かれて北上を開始します。

まず動いたのは中央部隊で、3月11日に1600名もの敵部隊を軽々と撃破し、それに続く3月18日、今度は左翼部隊が要衝・レパダンへと進出しました。

中央、左翼の2部隊の動きを見て、国民党軍はこれらの部隊が日本軍の主力であり、日本軍は左翼、つまり西方からマンダレーへと攻め込んで来るものだと判断しました。

しかし実は、日本軍の右翼部隊こそが新鋭の機械化兵団であり、国民党軍の部隊の間隙を縫って一気に北上する機会を虎視眈々と窺っていたのでした。

北方に猛進する中央部隊は3月17日、チャウタカで砲兵陣地を築いていた敵をたちまちにして撃破すると、敵に立ち直らせる隙も与えずに追撃を行い、3月25日にトングーを総攻撃しました。

この戦いは、ビルマ戦線では初めての国民党軍の主力との戦闘となりました。

国民党軍は村落を利用して陣地を構築していたため、日本軍は砲撃などで粉砕することができませんでした。

そこで日本軍は、日露戦争の旅順攻略さながらに坑道を掘り進め、敵前に出て攻撃を仕掛けたのです。

30日にはトングー近郊の掃討が完了し、トングーは陥落しました。

これに伴い、いよいよ右翼部隊が北上を開始します。

作戦開始から一週間で7回も敵との戦闘があったものの、敵は右翼部隊を1秒たりとも遅らせることはできず、4月10日にはケマピュ、17日はザヤットを奪取し、29日にはビルマ鉄道の終点、ラシオにまで到達しました。

この快進撃によって、マンダレイに陣取る国民党軍の退路を断ち切る事に成功したのです。

右翼部隊が一気に北上する中、イワラジ河を北上しようとする左翼部隊を待ち受けていたのはアメリカの義勇軍でした。

この義勇軍は日米開戦前からラングーンに入り、イギリスと共同で作戦を練っていたのですが、日本軍の侵攻を止めることはできずに、あっけなく壊滅しました。

日本軍は3月29日、シュエダンの攻略を開始します。60両の戦車と100両の装甲車を相手に日本兵は火炎瓶と地雷で応戦し、30日にはシュエダンを占領します。

戦車22両、装甲車30両を破壊する大戦果でした。

さらには4月2日、敵の第一線陣地プロームを占拠、続けてアランミョー、サドダンも占領します。
現地住民と触れ合う日本兵

いよいよ油田地帯・イェナンジョンが左翼部隊の目前に迫ってきました。

大英帝国にとって数少ない貴重な油田地帯であるイェナンジョンに、日本軍の精鋭部隊は船艇に乗って一斉にイワラジを渡って急襲し、ミンブを占領しました。
油田地帯を匍匐前進

不意をつかれたイギリス軍は壊乱し、日本軍はマグヴェ、イェナンジョンを一気に占領したのです。

神速の右翼部隊、油田を確保した左翼部隊に負けじと、中央部隊も北上を続けていました。

トングーを陥落させた後は休む間も無く前進し、4月は国民党軍との戦いに明け暮れ、スワ、サガヤ、ピンマナ、ピヤプェ、タデを占領していき、はるか北方のマンダレーを目指しました。

ビルマの民衆は日本軍の進軍に対し、サトウキビと水を用意して出迎え、民兵は次々と日本軍に加わりました。

敵の銃声が鳴り響く中、戦闘中の日本軍の為に水を運んでくれる者もいたと言います。

こうした民衆の手助けは、日本軍の進撃を支える大きな力になりました。

5月1日、いよいよ日本軍は国民党軍が陣取るマンダレーに到着しましたが、国民党軍は既に退却しており、マンダレーは灰と化していました。

国民党軍が逃げる際に、村に火を放ち、全てを焼き尽くしていたのです。

焼け野原にされたマンダレー
廃墟に隠れていた老若男女のビルマ人たちは、日本軍きた事を知るとゾロゾロと出てきては歓声をあげるのでした。

マンダレーを占領した中央部隊はさらに北上します。

三手に別れた日本軍の進撃により、ラングーン、マンダレー、ラシオを結ぶ「ビルマ・ルート」は完全に死滅しました。

中央部隊の進撃は止まらず、遂に国境を越えて支那に入りました。

ビルマを流れるサルウィン河は、支那に入ると「怒江」と名前を変えます。
怒江

怒江河畔を敗走する国民党軍は蟻の様に列をなしており、そこへ日本軍は猛烈な砲撃を加えました。

国民党軍の列は散り散りになり、逃げ遅れた味方を見捨てて橋を破壊し、逃げ去りました。
ビルマと雲南省をつないでいた橋

こうしてビルマから重慶への陸路は完全に日本軍が制圧する事になったのですが、左翼部隊はさらにビルマ領内の敵勢力を殲滅すべく、掃討戦へと移っていました。

各地で敗走したイギリス兵は、我先にとビルマ=インド国境へ通じるカレワに殺到していました。

その為、カレワには300もの戦車と、1000もの自動車が集結していたのです。

5月10日の朝から13日夜半までぶっ通しで日本軍との大激戦が行われ、イギリス軍は総崩れとなりました。

ビルマの戦い当初は6万と言われていたイギリス軍の兵力は、もはや数千にまで減っており、敗残兵にはビルマ人ゲリラ部隊が攻撃を仕掛け、その戦果は日本軍へ報告されました。

5月の終わりにはビルマ領内には一兵の敵も見当たらず、ビルマ全土は日本軍によって平定されたのです。

この広大な遠距離地上作戦「ビルマ作戦」を影で支えていた航空部隊の事を書かないわけにはまいりません。

加藤建夫中佐率いる飛行第64連隊、通称「加藤隼戦闘隊」は1942年3月21日からビルマ戦線に参入し、フライングタイガースと死闘を繰り広げ、数々の戦闘において戦果をあげました。
加藤建夫隊長

「隼」とは、「一式戦闘機」の愛称のことで、帝国陸軍の主力戦闘機であり、日本の戦闘機としては零戦に次いで2番目に多く生産されました。

一式戦闘機の操縦性、安定性は非常に優れており、低速度、低高度での格闘性能は連合国から脅威とみなされ、連合国のパイロトは「格闘戦になったら一巻のおしまい」と教え込まれ、一撃離脱戦法を叩き込まれるほどでした。
一式戦闘機「隼」

そんな加藤隼戦闘隊でしたが、隊長の加藤中佐は1942年5月22日に被弾してしまい、自らの意思で機体を反転させて海に突っ込み自爆してしまいます。

「不時着して捕虜となり、機体を敵に引き渡してはならない」と部下に厳しく言っていた事を、身を以て実践し散華したのでした。

さて、空と陸とで連合国を圧倒し、ビルマ・ルートを遮断した日本軍でしたが、実は援蒋ルートはまだ残っていました。

「ハンプ越え(hump cours)」と呼ばれる、イギリス領インドのアッサム州、チンスキヤ飛行場からヒマラヤを越えて昆明に至る空輸ルートです。

輸送機の撃墜の危険性や、輸送量の制限などの問題もありましたが、毎月5000トンもの物資と人員が確実に支那へ補給され、軍備を増強していました。

日本軍はハンプ越えを遮断すべく、「二十一号作戦」を立案してインド北東部へ侵攻しようとしましたが、補給困難などの理由から牟田口中将などの反対にあい、実行には至りませんでした。

しかし大戦末期、皮肉な事に戦局が悪化し制空権を失った状態で、この作戦は牟田口中将の指揮下で「インパール作戦」として実行される事になるのでした。