2020年2月24日月曜日

大東亜戦争21 ニューギニアの戦い②山を越え、谷を越え

山砲かついでエンヤコラ

めずらしく日本陸軍と海軍が協力して立案されたポートモレスビー攻略のための「MO作戦」でしたが、珊瑚海海戦の「痛み分け」によって海軍は早々と作戦を中止してしまいます。

さらに6月にはミッドウェー海戦で南雲機動部隊が壊滅し、南洋における日本海軍の影響力が薄まった事によって、ラバウル航空基地の重要度は増していきました。

当然、そのラバウルにとって脅威であるポートモレスビーを攻略することも重要性を増し、日本陸軍単独での「スタンレー作戦」が決行されることになりました。

直線距離にして220km、最高峰地点4000mのオーエンスタンレー山脈を越えて陸路で突破するとう、無謀な作戦でした。

1942年7月21日、日本軍「南海支隊」はゴナへ上陸し、ココダへと向かいます。

南海支隊は開戦以降グアム、ラバウルを攻略してきた部隊で、隊長は堀井富太郎少将です。
堀井富太郎

迎え撃つのはオーストラリア第39軍、これは予備役の民兵からなる部隊で、チョコレートソルジャーと呼ばれていました。

日本軍はこれを蹴散らしてココダを占領、オーストラリア軍はイスラバへと押し戻されます。

イスラバには強固な機関銃陣地が構築されており、ジャングルに不慣れな日本軍の侵攻は難航しましたが、苦戦しつつもなんとか敵陣地を迂回し前進しました。

善戦していたオーストラリア軍も、この迂回により退路を断たれる事を恐れて退却し、日本軍は8月31日にイスラバを占領する事に成功します。

9月4日にはスタンレー山脈の峠に到達した日本軍でしたが、そこで初めて「この先の道のりは下りばかりではない」という事を認識するのでした。

日本軍は現地の地形を把握できていなかったのです。


さらに、8月頃からアメリカ軍による本格的な反攻作戦が始まっており、日本軍はソロモン海での制海権を失いつつありました。

ソロモン諸島方面に展開していた日本軍の「第17軍」も、戦力をポートモレスビーに集中できる状況ではなくなっていたのです。

ニューギニアまでやってきた日本軍の兵站は伸び切っており、食料は現地調達に期待せざるを得ませんでした。

しかしオーストラリア軍は撤退する際、日本軍が利用できないように食料や物資を処分しており、孤立した南海支隊は危機的な状況に陥ってしまいました。

たび重なる空襲に晒される中、それでも南海支隊は進軍を続けます。

オーストラリア軍司令官をも唸らせるほどの、高度な水準の練度を武器に、9月16日にはイオリバイワを占領しました。

オーエンスタンレー山脈を突破し、目的地ポートモレスビーは目前に迫っていました。
スタンレー山脈

あとは総攻撃の指示を待つのみでしたが、戦局の悪化により、ポートモレスビー攻略へ向けられるはずだった増援部隊や食料はガダルカナル島へ向けられる事になってしまい、ポートモレスビー総攻撃は中止となってしまいました。

南海支隊は食料も尽き、栄養失調とマラリアで衰弱した患者を多数抱えた状態で再び山脈を越えて帰らなければなりません。

南海支隊は9月24日に撤退を開始、10月4日にココダへ到着、イオリバイワはオーストラリア軍によって奪回されました。

南海支隊はオーストラリア軍の追撃、包囲をかいくぐりながら、必死で上陸拠点のゴナへと退却します。

途中、堀井隊長が事故死するなどのアクシデントもあり、南海支隊は散り散りになりながらもブナ・ゴナの守備隊と合流することができました。

しかしこの時、空路でスタンレー山脈を越え先回りしていたアメリカ軍が既に接近しており、ゴナの日本軍を包囲していたのです。


制空権を握ったアメリカとオーストラリアの連合軍は空路で兵力を増強し、11月16日にブナ・ゴナを守る日本軍に攻撃を開始しました。

しかしこの戦いに参戦したアメリカ軍の部隊のほとんどが初戦闘であり、練度は散々なものだったようです。

命令の誤伝達や誤爆があいつぎ、オーストラリア軍の部隊日誌には、アメリカ軍について「見るに耐えないくらいの無能」と書かれてしまうほどでした。

それでもアメリカ軍は増援を繰り替えし、戦力を充実させて総攻撃の準備を整えました。

日本軍大本営は、「第8方面軍」を新設しこの戦局の悪化に対応します。

ニューギニアへは駆逐艦による増援が度々行われましたが、敵の空襲によって思うようには捗りませんでした。

圧倒的に劣勢な兵力でありながらも、日本軍は粘り強く勇猛に戦います。

「ジャップは死ぬまで抵抗をやめることはなく、我が軍も多くの損害を出している。どちらかがゼロになるまで勝負はつかない様相」
という電報が、現地のオーストラリア軍から送られるほどで、壊滅する部隊も多く出ていました。
オーストラリア軍
それでも12月8日にゴナの日本軍陣地は全滅し、15日にアメリカ軍の戦車が到着すると、大勢は決しました。

ブナを守る日本軍の守備隊はわずか十数名になりましたが、陸軍大佐の山本重省と海軍陸戦隊司令の安田義逹らは協力しあい、50日間に渡って抵抗を続け、1月2日に全滅しました。

安田司令は突撃して戦死しました。

山本大佐は1月2日の早朝、塹壕から出てきてこう叫びます。

「日本語のわかるものは前にでるように」

敵の銃撃が止んで静かになると、大佐は敵将兵に語りかけました。

「今、君たちは勝ち誇っている。物資をやたらと浪費して、我々を圧倒した。我が軍は1発の弾丸といえども無駄にはしなかった。今に見よ。必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。日本軍人の最期を見せてやるからよく見とけ。第日本帝国万歳、天皇陛下万歳。」

万歳三唱のあと、山本大佐は自ら腹を切りました。

「さぁ、撃ってよろしい」

と大佐が言うと、一斉射撃が始まり、山本大佐は戦死しました。

日本兵の死体が散乱したブナの砂浜は「Maggot Beach」(蛆虫浜)と呼ばれました。

安田義達
山本重省



壊滅したブナ守備隊







2020年2月11日火曜日

大東亜戦争20 ニューギニアの戦い① 世界初、空母決戦



西太平洋にある島々「チューク諸島」は、第一次世界大戦によって日本の委任統治領とされ、かつては「トラック諸島」と呼ばれていました。

ここには大日本帝国海軍の基地が築かれており、大東亜戦争においては太平洋の重要拠点となっていました。


いざ戦争となると、主要拠点はしっかりと守らねばなりません。

海軍はトラック諸島の近くにあるニューブリテン島の「ラバウル」を攻略し、航空基地を建設しました。

ところがいざラバウルを占領してみると、今度はニューギニアの「ポートモレスビー」からの空襲に悩まされる事になります。

そこでポートモレスビー攻略作戦「MO作戦」が実行される事になり、日本の戦いはニューギニアへも広がることになったのです。


1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニア北岸の「ラエ」「サラモア」に上陸しました。

ラエには海軍陸戦隊を、サラモアには陸軍南海支隊の一部を派遣する「陸海共同作戦」となりました。

しかし、無線暗号の解読によりこの動きを察知した米軍は、「ヨークタウン」「レキシントン」の2隻の空母を主幹とする機動部隊を送り込み、3月10日にラエ・サラモアへ空襲を行いました。

この空襲で日本軍は4隻の艦船が沈没し、130名以上の死者が出る大損害を被ります。



ニューギニア島中央には、東西に山脈が走っており、北岸からの陸路でポートモレスビーを攻略する事は困難であると考えられ、海路からの攻撃が方針づけられます。

そこで日本軍は、ポートモレスビー攻略に先立つ4月30日、ソロモン諸島のツラギ島を占領して水上基地を設営、ポートモレスビーに行くために避けては通れない「珊瑚海」の警戒にあたりました。


ソロモン諸島やニューギニア、バヌアツなどの島々に囲まれた珊瑚海

日本軍がいよいよポートモレスビー攻略の動きを見せると、米軍は再び「レキシントン」「ヨークタウン」の2隻の空母を珊瑚海へ派遣します。
レキシントン
ヨークタウン

ポートモレスビー攻略のために珊瑚海へやってきた日本の機動部隊は、「瑞鶴」「翔鶴」を擁する第五航空戦隊でした。
瑞鶴
翔鶴

こうして、珊瑚海で日米両国の機動部隊が遭遇し、世界で初めての「空母対決」が実現することになるのでした。

5月7日、日本軍の索敵機が敵空母発見の報告をしてきた事により、機動部隊から零戦や爆撃機など、78機が発進します。

しかし索敵機の報告は誤りで、じつは発見したのは空母ではなく「油槽船ネオショー」だったのです。
ネオショー
空母発見の報告から3時間後、「わが蝕接せるは油槽船の誤り」という報告が入ると、機動部隊は真っ青になって雷撃機に帰投を命じます。

油槽船ネオショーは、艦上攻撃機による爆撃によって航行不能に陥りました。

米軍もまた、「空母2隻発見」の知らせをうけて92機を発進させますが、これは送信ミスによる誤報だと判明しました。

両軍共、索敵に苦戦していた空母決戦でしたが、最初に敵空母を発見したのは米軍の方でした。

軽空母「祥鳳」が発見され、米軍機の攻撃にされされてしまったのです。

祥鳳は数十機の爆撃を全てかわし、逆に対空砲火で敵の爆撃機を撃ち落とすなど健闘しますが、二十数機の雷撃機による魚雷攻撃は避けられず、最終敵に7発の魚雷と13発の爆弾を浴びた祥鳳は、海に沈みました。

祥鳳は、日本海軍が初めて失った空母となりました。
魚雷を受けた祥鳳
祥鳳はあくまでも船団を守るための護衛空母として参戦していただけで、作戦の中核を担う存在ではなかったため、祥鳳の沈没はポートモレスビー攻略作戦に支障をきたすものではありませんでしたが、それでもそのショックは大きく、日本海軍は焦りと不安が隠せませんでした。

必死に索敵を試みるも肝心の空母を発見できず、空母以外の艦隊に攻撃を仕掛けるも、戦果はあげられず被害がかさむばかりでした。

それでも夕刻には敵空母発見の知らせをうけ、薄暮攻撃をしかけようと、夜間着艦の得意な熟練のパイロットが集められました。

しかし米軍空母のレーダーには、この薄暮攻撃隊がしっかりと映っており、空母レキシントンからは迎撃の戦闘機が出撃します。

この迎撃によって戦闘機の護衛を持たない薄暮攻撃隊は散り散りになり、日本軍は8機の攻撃機と多くの手練れのパイロットを失いました。

この薄暮攻撃の失敗によって使用可能な日本軍の航空機は米軍よりも少なくなり、戦力差が逆転してしまいます。

第五航空戦隊司令官の原忠一少将は肚をくくり、司令部からの情報を頼りにせずに、自分の鑑から索敵機を出し、自力で索敵を行う事を宣言しました。

しかしこの時、空母レキシントンのレーダーは、薄暮攻撃を終えて帰投する日本軍攻撃機をを捉えており、同じ地点でそのレーダー反応が消えていくのを確認していました。

攻撃機のレーダー反応が消えた地点こそが、日本軍の空母の位置なのです。

しかし既に夜であったため、レキシントンは攻撃隊の発進を断念し、両空母は遠ざかりました。

実はこの海戦から米軍は空母にレーダーを搭載していました。

英米ではレーダーの研究を盛んに行っており、実用化に成功していたのです。

その英米のレーダー開発には、日本人科学者たちの画期的な発明が評価され、応用されていたというのは、本当に皮肉なことです。
八木・宇田アンテナ
夜が明けた5月8日、空は晴れ渡り両軍の索敵が再び始まります。

菅野兼蔵飛行兵曹長が97式艦上攻撃機に乗って索敵し、米軍の機動部隊を見つけた時には既に燃料は尽きかけていました。

菅野は敵空母の正確な位置情報を発信、それを受けた日本軍機動部隊から満を持して69機が出撃します。

一方で、米軍も日本軍機動部隊に向けて73機の攻撃隊を発進させていました。

両軍の出撃はほぼ同時となり、お互いの攻撃機は途中ですれ違いますが、それぞれの目的である空母を攻撃すべくやり過ごします。

菅野兼蔵は自軍空母へ帰投中でしたが、途中で味方の攻撃隊を発見すると、くるりと引き返し、己が発見した敵空母まで誘導しました。

菅野機は結局燃料切れを起こし、未帰還となります。

日本軍にはレーダーはありませんでしたが、菅野の命がそれをカバーしたのです。

彼の最期がどうなったのかは誰も知りません。

日本軍攻撃隊は接近をレーダーで探知されていたため、迎撃機に待ち伏せされ激しい対空砲火を浴びますが、空母レキシントンに魚雷2発、爆弾2発を命中させ、さらに空母ヨークタウンにも爆弾を1発命中させました。

レキシントンは大爆発を起こして機関停止、味方駆逐艦により魚雷処分が下されました。

その頃、日本軍機動部隊も敵機の攻撃にさらされており、空母瑞鶴は爆弾3発を浴びて大破、北方へと退避しましたが、もう一隻の空母翔鶴はスコールに隠れて事なきをえます。
爆撃される空母瑞鶴
これにより両軍共に戦闘の継続が不可能となり、空母決戦は終了しました。

軽空母一隻を失い、正規空母一隻が大破した日本軍、正規空母1隻が沈没、さらに正規空母1隻が中破した米軍、それぞれの損害は「痛み分け」とも言えますが、今後の戦略に及ぼした影響を考えると、日本軍の敗北とも言えるでしょう。

この戦いにより、MO作戦は無期限に延期をせねばならなくなり、今まで続いていた日本軍の快進撃は完全にストップしてしまうのです。

珊瑚海海戦で得た戦訓は大きかったものの、2ヶ月後のミッドウェー海戦でそれが生かされる事はありませんでした。
レキシントン






2020年2月3日月曜日

大東亜戦争19 ミッドウェー海戦③飛龍の戦い



1942年6月5日午前1時30分。

南雲機動部隊からミッドウェー島空襲部隊が出撃しました。

後続の第二艦隊がミッドウェー島に上陸するのが7日と決まっていたため、それまでにミッドウェー島基地を殲滅しておかねばならなかったのです。

ミッドウェー攻撃隊が出撃してから1時間後、アメリカのPBY飛行艇が南雲機動部隊を発見し、その位置を電報で報告します。
PBY飛行艇
そしてさらに2時40分、ミッドウェー島へ向かっていた攻撃隊もアメリカの索敵機によって発見されてしまいました。

「見つけたもん勝ち」の索敵合戦、軍配があがったのはアメリカの方だったのです。

索敵機の報告によって、日本軍の空襲を予想していたミッドウェー島では、迎撃するために戦闘機26機が上空を警戒していました。

そして午前3時16分、ミッドウェー島に飛来した107機の日本軍攻撃隊を発見し、奇襲をしかけたのです。

多数の艦上攻撃機が被弾しますが、零戦が反撃に出て15機を撃墜し、日本軍はこの空中戦に勝利します。

攻撃隊はそのままミッドウェー島を空襲、重油タンクや格納庫、発電所などの基地施設に打撃を与えました。

炎上するミッドウェー基地
しかし滑走路のダメージは少なく、基地にはわずかな航空機しかありませんでした。

ミッドウェー基地の航空機は、既に南雲機動部隊を攻撃するために出撃していたのです。

攻撃の戦果が不十分だと感じた日本軍攻撃隊の友永丈市大尉は、南雲機動部隊に再攻撃の必要性を打電します。
友永丈市大尉

しかしその頃、既に南雲機動部隊は米軍の度重なる攻撃にさらされていました。

ミッドウェー島から飛び立った米軍航空機による攻撃に晒された艦隊は、零戦の迎撃によって事なきを得ましたが、ミッドウェー島再攻撃の必要性を痛感させられる事になり、各艦で待機していた航空機の兵装を、陸上攻撃用爆弾へ転換する事になりました。
魚雷(中)爆弾(左右)

午前4時28分、重巡洋「利根」から発信していた偵察4号機から「敵らしきもの10隻みゆ」という電信が送られて来ました。

この知らせに対して南雲機動部隊の司令部は「らしき、ではわからん、艦種を知らせろ」と指示を出しました。

しかしフロートのついた低速の偵察機では、敵簡単に近づくのは自殺行為です。

それでも利根4号機は粘り強く触接し、指示通りに偵察を続けました。
日本軍の偵察機


利根4号機からの報告を待っている時間は、南雲艦隊にとって致命的なロスであり、本来ならば最初の報告をうけた時点で司令部はなんらかの対応をとるべきでした。

「〜らしき」という報告の仕方があいまいだった事が、判断を遅らせたという意見もありますが、「らしき」という表現は暗号書にも載っている正式な表現であり、受け取った情報をもとに判断をするのはあくまでも司令部の責任なのです。

さらに、利根4号機の件以外にも、他の偵察機である「筑摩1号機」は、敵の艦載機との接触があったにも関わらずこれを報告しなかったという失態もありました。

このミッドウェー海戦において、日本と米軍の勝敗を分けたのは「索敵」だったのかもしれません。

この海戦において、索敵は軽んじられてしまった
南雲機動部隊がまごまごしている間にも、位置が特定されている南雲機動部隊は米軍の航空部隊による度重なる激しい攻撃にさらされます。

当然、三隻の空母「赤城」「飛龍」「蒼龍」が狙われますが、零戦の反撃と、巧みな操船により、艦隊は無傷で済みました。
空母「赤城」は米軍の魚雷攻撃をすべて回避しました

そしてこの空戦の最中、ミッドウェー島を攻撃した第一次攻撃隊が南雲機動部隊の上空に戻ってきました。

空爆を終えて帰ってきた機体は燃料が乏しく、早く母艦に着陸したいところでしたが、戦闘中であったために上空で待機せねばなりません。

そのような混乱した状態で、偵察を続けていた利根4号機から
「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、その後方に空母1隻」
という具体的な艦種の報告が届きます

利根4号機が見た空母は「ホーネット」でした。

しかも、敵機が次々と南雲艦隊の方へ向かっているとのことです。
空母ホーネット

この報告に南雲艦隊司令部は騒然としました。

上空には燃料の尽きかけた100機の第一次攻撃隊、艦内には陸上用爆弾に兵装転換を終えたばかりの第二次攻撃隊。

本来ならば、すぐさま攻撃隊を出撃させて敵空母を攻撃しなければなりませんが、それを優先させてしまっては、上空で待機している自軍機の燃料がなくなってしまい、100の機体と200人の乗員を危険にさらす事になります。

さらに、現在装備している陸上用爆弾では敵艦を沈める事は困難です。

軍艦を沈めるためには、魚雷で横っ腹を撃ち抜かねばならないのです。

第二航空艦隊司令官である山口多聞少将は、すべてを投げ打ってでも現装備のまま、直ちに出撃すべきだと司令部に進言しました。
山口多聞少将

山口少将は、2ヶ月前のセイロン沖海戦にて、兵装転換時にイギリス軍の攻撃を受けた経験があるため、戦闘中に兵装転換をする事の無防備さ、危険性を認識していたのです。

しかし南雲司令部は、敵空母がまだ遠くにいた事(実際はもっと近かったのですが)、ただちに出撃しても護衛戦闘機がおらず、爆撃機を危険にさらす事などの理由から、
・上空待機している自軍攻撃隊の収容を優先する事
・艦内に待機している攻撃隊の兵装を、陸上用爆弾から魚雷に転換する事
を方針づけました。

第一次攻撃隊の収容を終えたのは午前6時50分、この頃になると既に南雲機動部隊は、米軍空母から飛来した雷撃隊の攻撃を受けていました。

予想よりも早い敵機の到達に、南雲中将らは不安を抱かざるを得ません。

雷撃機による魚雷攻撃は、海面近くの低空で行われます。

よって、応戦する護衛の零戦も、艦船の見張りの目も、自然と低空域に向けられてしまうのです。

南雲機動部隊の誰一人として、上空に目を向ける者はいなくなっていました。
雷撃は低空

そして午前7時22分、米軍の艦上爆撃機が戦場空域に到達します。

雲の切れ間から急降下してくる爆撃機に気づいた時には既に遅く、「敵機、急降下!」
の声もむなしく、ドーントレスから放たれた1000ポンド爆弾の四発目が空母「加賀」の甲板を突き破りました。

爆撃は高高度から
続いて空母「蒼龍」「赤城」にも爆弾が命中し、各艦とも、艦内には燃料を満タンにして爆弾や魚雷を抱えていた第二次攻撃隊に誘爆し、大炎上を起こしました。
映画「永遠の0」より

その後、3隻とも沈没し、合わせて2000名近くの搭乗員が戦死しました。
赤城 戦死者221名


蒼龍 戦死者718名


加賀 戦死者811名


日本軍に残された空母は「飛龍」一隻のみとなりました。

飛龍は雲の下に隠れており、撃沈した3隻とは少し離れた場所にいたため、爆撃を免れていたのです。

先ほど、「兵装転換を行わずに直ちに出撃すべし」と具申した山口多聞少将は、この飛龍に乗船しており、独断で進路を変えていたのです。
飛龍

飛龍の孤独な反撃はここから始まります。

炎上する3隻の空母を遠目に見ながら第一派攻撃隊が発進し、敵空母「ヨークタウン」に攻撃を仕掛けました。

零戦2機と艦上爆撃機12機が撃墜されるも、爆弾3発を命中させ、ヨークタウンを航行不能に陥らせます。
ヨークタウン

その後、駆逐艦「嵐」が海面に漂っていた米兵「オスマス少尉」を救助し、尋問を行いました。

そしてアメリカの出動空母は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻である事を知り、初めて敵戦力の全容を知る事になるのです。

オスマス少尉はその後何者かによって惨殺され、水葬に附されました。
ウェスリー・フランク・オスマス

付近に新たな敵空母が存在するという知らせを受け、飛龍からは第二次攻撃隊が出撃しました。

1時間後に攻撃隊は新たな米軍機動部隊を発見します。

友永丈市大尉は、この敵空母を「ヨークタウンとは別の空母、エンタープライズである」と判断し、攻撃を加えます。

しかしこの空母は、先ほど日本軍の攻撃を受けて航行不能に陥っていたヨークタウンであり、復旧作業が進んで自力航行が可能になっていたのです。

友永大尉率いる攻撃隊の攻撃によってヨークタウンは発電機やボイラー室を損傷、再び航行不能に陥ったところを、潜水艦の攻撃によって撃沈しました。
友永攻撃隊に狙われたヨークタウン

日本軍は、同じ空母を2度攻撃した事に気づいておらず、ヨークタウンとエンタープライズの2隻を撃沈できたのだと誤認していました。

飛龍の副長、鹿江隆は「これで1対1になった」と手応えを感じていたほどです。

しかし、沈没寸前のヨークタウンからエンタープライズへ「飛龍の正確な位置」が打電されており、それを受信したエンタープライズは既に爆撃隊を発進させていました。

飛龍の司令官・山口少将は態勢を整え直して夕暮れを待ち、全兵力を以て薄暮攻撃を仕掛ける予定でした。

17時30分、エンタープライズから飛来した米軍の爆撃隊が飛龍上空に到達、迎撃に当たった零戦との激しい空戦の末、飛龍に4発の爆弾が命中します。

消火不能の火災が発生した飛龍の甲板上では、山口多聞少将によって全員が集められていました。

「皆が一生懸命やったけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の鑑をここに沈めなければならなくなった事は極めて残念である。どうか皆で仇を討ってくれ。ここでお別れする」
と告げると、一同は水盃を交わし、万歳を唱えながら軍旗をおろしました。

部下たちは、山口司令官と加来艦長の退艦を願い、二人を制止しようとしましたが、それを振り切って二人は艦橋へと登り、2度と出てくる事はありませんでした。

生存者が駆逐艦隊に移乗した後、飛龍には雷撃処分がくだされました。

艦と運命を共にした二人の態度は「まるで散歩の途中にさよならを言うかのように淡々としていた」と言われています。