山砲かついでエンヤコラ |
めずらしく日本陸軍と海軍が協力して立案されたポートモレスビー攻略のための「MO作戦」でしたが、珊瑚海海戦の「痛み分け」によって海軍は早々と作戦を中止してしまいます。
さらに6月にはミッドウェー海戦で南雲機動部隊が壊滅し、南洋における日本海軍の影響力が薄まった事によって、ラバウル航空基地の重要度は増していきました。
当然、そのラバウルにとって脅威であるポートモレスビーを攻略することも重要性を増し、日本陸軍単独での「スタンレー作戦」が決行されることになりました。
直線距離にして220km、最高峰地点4000mのオーエンスタンレー山脈を越えて陸路で突破するとう、無謀な作戦でした。
1942年7月21日、日本軍「南海支隊」はゴナへ上陸し、ココダへと向かいます。
南海支隊は開戦以降グアム、ラバウルを攻略してきた部隊で、隊長は堀井富太郎少将です。
堀井富太郎 |
迎え撃つのはオーストラリア第39軍、これは予備役の民兵からなる部隊で、チョコレートソルジャーと呼ばれていました。
日本軍はこれを蹴散らしてココダを占領、オーストラリア軍はイスラバへと押し戻されます。
イスラバには強固な機関銃陣地が構築されており、ジャングルに不慣れな日本軍の侵攻は難航しましたが、苦戦しつつもなんとか敵陣地を迂回し前進しました。
善戦していたオーストラリア軍も、この迂回により退路を断たれる事を恐れて退却し、日本軍は8月31日にイスラバを占領する事に成功します。
9月4日にはスタンレー山脈の峠に到達した日本軍でしたが、そこで初めて「この先の道のりは下りばかりではない」という事を認識するのでした。
日本軍は現地の地形を把握できていなかったのです。
さらに、8月頃からアメリカ軍による本格的な反攻作戦が始まっており、日本軍はソロモン海での制海権を失いつつありました。
ソロモン諸島方面に展開していた日本軍の「第17軍」も、戦力をポートモレスビーに集中できる状況ではなくなっていたのです。
ニューギニアまでやってきた日本軍の兵站は伸び切っており、食料は現地調達に期待せざるを得ませんでした。
しかしオーストラリア軍は撤退する際、日本軍が利用できないように食料や物資を処分しており、孤立した南海支隊は危機的な状況に陥ってしまいました。
たび重なる空襲に晒される中、それでも南海支隊は進軍を続けます。
オーストラリア軍司令官をも唸らせるほどの、高度な水準の練度を武器に、9月16日にはイオリバイワを占領しました。
オーエンスタンレー山脈を突破し、目的地ポートモレスビーは目前に迫っていました。
スタンレー山脈 |
あとは総攻撃の指示を待つのみでしたが、戦局の悪化により、ポートモレスビー攻略へ向けられるはずだった増援部隊や食料はガダルカナル島へ向けられる事になってしまい、ポートモレスビー総攻撃は中止となってしまいました。
南海支隊は食料も尽き、栄養失調とマラリアで衰弱した患者を多数抱えた状態で再び山脈を越えて帰らなければなりません。
南海支隊は9月24日に撤退を開始、10月4日にココダへ到着、イオリバイワはオーストラリア軍によって奪回されました。
南海支隊はオーストラリア軍の追撃、包囲をかいくぐりながら、必死で上陸拠点のゴナへと退却します。
途中、堀井隊長が事故死するなどのアクシデントもあり、南海支隊は散り散りになりながらもブナ・ゴナの守備隊と合流することができました。
しかしこの時、空路でスタンレー山脈を越え先回りしていたアメリカ軍が既に接近しており、ゴナの日本軍を包囲していたのです。
制空権を握ったアメリカとオーストラリアの連合軍は空路で兵力を増強し、11月16日にブナ・ゴナを守る日本軍に攻撃を開始しました。
しかしこの戦いに参戦したアメリカ軍の部隊のほとんどが初戦闘であり、練度は散々なものだったようです。
命令の誤伝達や誤爆があいつぎ、オーストラリア軍の部隊日誌には、アメリカ軍について「見るに耐えないくらいの無能」と書かれてしまうほどでした。
それでもアメリカ軍は増援を繰り替えし、戦力を充実させて総攻撃の準備を整えました。
日本軍大本営は、「第8方面軍」を新設しこの戦局の悪化に対応します。
ニューギニアへは駆逐艦による増援が度々行われましたが、敵の空襲によって思うようには捗りませんでした。
圧倒的に劣勢な兵力でありながらも、日本軍は粘り強く勇猛に戦います。
「ジャップは死ぬまで抵抗をやめることはなく、我が軍も多くの損害を出している。どちらかがゼロになるまで勝負はつかない様相」
という電報が、現地のオーストラリア軍から送られるほどで、壊滅する部隊も多く出ていました。
オーストラリア軍 |
ブナを守る日本軍の守備隊はわずか十数名になりましたが、陸軍大佐の山本重省と海軍陸戦隊司令の安田義逹らは協力しあい、50日間に渡って抵抗を続け、1月2日に全滅しました。
安田司令は突撃して戦死しました。
山本大佐は1月2日の早朝、塹壕から出てきてこう叫びます。
「日本語のわかるものは前にでるように」
敵の銃撃が止んで静かになると、大佐は敵将兵に語りかけました。
「今、君たちは勝ち誇っている。物資をやたらと浪費して、我々を圧倒した。我が軍は1発の弾丸といえども無駄にはしなかった。今に見よ。必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。日本軍人の最期を見せてやるからよく見とけ。第日本帝国万歳、天皇陛下万歳。」
万歳三唱のあと、山本大佐は自ら腹を切りました。
「さぁ、撃ってよろしい」
と大佐が言うと、一斉射撃が始まり、山本大佐は戦死しました。
日本兵の死体が散乱したブナの砂浜は「Maggot Beach」(蛆虫浜)と呼ばれました。
安田義達 |
山本重省 |
壊滅したブナ守備隊 |
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