西太平洋にある島々「チューク諸島」は、第一次世界大戦によって日本の委任統治領とされ、かつては「トラック諸島」と呼ばれていました。
ここには大日本帝国海軍の基地が築かれており、大東亜戦争においては太平洋の重要拠点となっていました。
海軍はトラック諸島の近くにあるニューブリテン島の「ラバウル」を攻略し、航空基地を建設しました。
ところがいざラバウルを占領してみると、今度はニューギニアの「ポートモレスビー」からの空襲に悩まされる事になります。
1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニア北岸の「ラエ」「サラモア」に上陸しました。
ラエには海軍陸戦隊を、サラモアには陸軍南海支隊の一部を派遣する「陸海共同作戦」となりました。
しかし、無線暗号の解読によりこの動きを察知した米軍は、「ヨークタウン」「レキシントン」の2隻の空母を主幹とする機動部隊を送り込み、3月10日にラエ・サラモアへ空襲を行いました。
この空襲で日本軍は4隻の艦船が沈没し、130名以上の死者が出る大損害を被ります。
ニューギニア島中央には、東西に山脈が走っており、北岸からの陸路でポートモレスビーを攻略する事は困難であると考えられ、海路からの攻撃が方針づけられます。
そこで日本軍は、ポートモレスビー攻略に先立つ4月30日、ソロモン諸島のツラギ島を占領して水上基地を設営、ポートモレスビーに行くために避けては通れない「珊瑚海」の警戒にあたりました。
ソロモン諸島やニューギニア、バヌアツなどの島々に囲まれた珊瑚海
日本軍がいよいよポートモレスビー攻略の動きを見せると、米軍は再び「レキシントン」「ヨークタウン」の2隻の空母を珊瑚海へ派遣します。
レキシントン |
ヨークタウン |
ポートモレスビー攻略のために珊瑚海へやってきた日本の機動部隊は、「瑞鶴」「翔鶴」を擁する第五航空戦隊でした。
瑞鶴 |
翔鶴 |
こうして、珊瑚海で日米両国の機動部隊が遭遇し、世界で初めての「空母対決」が実現することになるのでした。
5月7日、日本軍の索敵機が敵空母発見の報告をしてきた事により、機動部隊から零戦や爆撃機など、78機が発進します。
しかし索敵機の報告は誤りで、じつは発見したのは空母ではなく「油槽船ネオショー」だったのです。
ネオショー |
油槽船ネオショーは、艦上攻撃機による爆撃によって航行不能に陥りました。
米軍もまた、「空母2隻発見」の知らせをうけて92機を発進させますが、これは送信ミスによる誤報だと判明しました。
両軍共、索敵に苦戦していた空母決戦でしたが、最初に敵空母を発見したのは米軍の方でした。
軽空母「祥鳳」が発見され、米軍機の攻撃にされされてしまったのです。
祥鳳は数十機の爆撃を全てかわし、逆に対空砲火で敵の爆撃機を撃ち落とすなど健闘しますが、二十数機の雷撃機による魚雷攻撃は避けられず、最終敵に7発の魚雷と13発の爆弾を浴びた祥鳳は、海に沈みました。
祥鳳は、日本海軍が初めて失った空母となりました。
魚雷を受けた祥鳳 |
必死に索敵を試みるも肝心の空母を発見できず、空母以外の艦隊に攻撃を仕掛けるも、戦果はあげられず被害がかさむばかりでした。
それでも夕刻には敵空母発見の知らせをうけ、薄暮攻撃をしかけようと、夜間着艦の得意な熟練のパイロットが集められました。
しかし米軍空母のレーダーには、この薄暮攻撃隊がしっかりと映っており、空母レキシントンからは迎撃の戦闘機が出撃します。
この迎撃によって戦闘機の護衛を持たない薄暮攻撃隊は散り散りになり、日本軍は8機の攻撃機と多くの手練れのパイロットを失いました。
この薄暮攻撃の失敗によって使用可能な日本軍の航空機は米軍よりも少なくなり、戦力差が逆転してしまいます。
第五航空戦隊司令官の原忠一少将は肚をくくり、司令部からの情報を頼りにせずに、自分の鑑から索敵機を出し、自力で索敵を行う事を宣言しました。
しかしこの時、空母レキシントンのレーダーは、薄暮攻撃を終えて帰投する日本軍攻撃機をを捉えており、同じ地点でそのレーダー反応が消えていくのを確認していました。
攻撃機のレーダー反応が消えた地点こそが、日本軍の空母の位置なのです。
しかし既に夜であったため、レキシントンは攻撃隊の発進を断念し、両空母は遠ざかりました。
実はこの海戦から米軍は空母にレーダーを搭載していました。
英米ではレーダーの研究を盛んに行っており、実用化に成功していたのです。
その英米のレーダー開発には、日本人科学者たちの画期的な発明が評価され、応用されていたというのは、本当に皮肉なことです。
八木・宇田アンテナ |
菅野兼蔵飛行兵曹長が97式艦上攻撃機に乗って索敵し、米軍の機動部隊を見つけた時には既に燃料は尽きかけていました。
菅野は敵空母の正確な位置情報を発信、それを受けた日本軍機動部隊から満を持して69機が出撃します。
一方で、米軍も日本軍機動部隊に向けて73機の攻撃隊を発進させていました。
両軍の出撃はほぼ同時となり、お互いの攻撃機は途中ですれ違いますが、それぞれの目的である空母を攻撃すべくやり過ごします。
菅野兼蔵は自軍空母へ帰投中でしたが、途中で味方の攻撃隊を発見すると、くるりと引き返し、己が発見した敵空母まで誘導しました。
菅野機は結局燃料切れを起こし、未帰還となります。
日本軍にはレーダーはありませんでしたが、菅野の命がそれをカバーしたのです。
彼の最期がどうなったのかは誰も知りません。
日本軍攻撃隊は接近をレーダーで探知されていたため、迎撃機に待ち伏せされ激しい対空砲火を浴びますが、空母レキシントンに魚雷2発、爆弾2発を命中させ、さらに空母ヨークタウンにも爆弾を1発命中させました。
レキシントンは大爆発を起こして機関停止、味方駆逐艦により魚雷処分が下されました。
その頃、日本軍機動部隊も敵機の攻撃にさらされており、空母瑞鶴は爆弾3発を浴びて大破、北方へと退避しましたが、もう一隻の空母翔鶴はスコールに隠れて事なきをえます。
爆撃される空母瑞鶴 |
軽空母一隻を失い、正規空母一隻が大破した日本軍、正規空母1隻が沈没、さらに正規空母1隻が中破した米軍、それぞれの損害は「痛み分け」とも言えますが、今後の戦略に及ぼした影響を考えると、日本軍の敗北とも言えるでしょう。
この戦いにより、MO作戦は無期限に延期をせねばならなくなり、今まで続いていた日本軍の快進撃は完全にストップしてしまうのです。
珊瑚海海戦で得た戦訓は大きかったものの、2ヶ月後のミッドウェー海戦でそれが生かされる事はありませんでした。
レキシントン |
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