米軍は、15隻の空母と10隻の戦艦を中心とした総勢600隻の大艦隊でマリアナ諸島へ攻め寄せていました。
これに対し日本軍は9隻の空母を含む機動部隊を差し向けます。
マリアナ諸島は「絶対国防圏」の範囲に含まれており、ここが敵の手に落ちれば日本本土がB29の爆撃範囲に入ってしまう事は重々承知の事で、日本にとってはまさに「絶対に負けられない戦い」となりました。
日露戦争の日本海海戦にあやかって、「最後の正念場」を意味する「Z旗」を掲げ、「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の訓示がなされます。
日本軍の航空戦力は498機、米軍は900機と、その戦力差は歴然としていましたが、小沢治一郎司令長官はこの戦況を打破すべく「アウトレンジ戦法」と呼ばれる作戦をとりました。
これは、日本軍機が米軍機よりも航続距離が長いという特性を利用したもので、「敵空母からの航空機が届かない位置から艦載機を発進させて攻撃する」というもので、「これしかない」と結論づけられた作戦でした。
しかし、戦艦同士の戦闘で、敵の射程圏外から砲撃するのは有効かもしれませんが、空母から発射されるのは砲弾ではなく飛行機です。
自軍の空母を傷つけない為に「飛行機1機とパイロット」を「1発の弾丸」に見立てたトンデモない作戦でした。
さらにアウトレンジ戦法では、パイロットは2時間半もの長時間飛行をして疲弊した上での戦闘を強いられる上、日本軍空母を攻撃できない米軍は艦載機を空母の防御に回す事ができるのです。
肝心のパイロットといえば、この頃になると歴戦のベテランも多く失われ、空母への離発着もままならないほど未熟な者も多く、1発の弾丸と考えるにしても少々心もとないものでした。
6月19日早朝、米軍艦隊を発見した日本軍は第一次、第二次攻撃隊、合わせて192機を出撃させます。
しかしこの動きはレーダーで察知され、米軍は防空体制を整え、3時間かけて到達した日本軍機を次々と撃ち落として行きました。
この攻撃で日本軍は敵艦数隻を小破させましたが、その代償として140機を失う事になります。
米軍には「VT信管(マジックヒューズ)」と呼ばれる砲弾が配備されていました。
この砲弾は、電波が敵機を察知したら自動的に爆発し、その破片で敵機を撃ち落とすもので、要するに命中させなくても近くにいる敵機にダメージを負わせる事ができるのです。
その効果は絶大で、日本軍機は為す術もなく撃ち落とされ、その様子は「マリアナの七面撃ち」と揶揄されるほどでした。
攻撃隊を無事発進させて勝利を確信し、帰還を今や遅しと待っていた日本軍機動部隊のところにやって来たのは、友軍機ではなく、敵の潜水艦でした。
空母「翔鶴」「大鳳」が魚雷攻撃によって撃沈し、日本軍はこの日だけで2隻の空母と300機の航空機を失う事になりました。
6月20日15時40分、米軍空母部隊が日本軍機動部隊を発見します。
艦載機の航続距離の限界ギリギリであるにも関わらず、米軍は空母から216機の攻撃隊を出撃させました。
17時30分、米軍攻撃隊は日本軍機動部隊の上空に来襲、零戦が迎撃にあたるものの、23機が撃墜され、空母「飛鷹」が沈没、さらに空母「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」も損傷、逃げ遅れた2隻の輸送船も沈没する大損害を被ります。
この結果を受けて小沢司令長官は作戦を中止し撤退を決定します。
米軍は130機の航空機を失いましたが、一隻も撃沈する事はありませんでした。
日本軍は空母3隻、航空機450機、輸送船2隻を失い、日本軍機動部隊は事実上、壊滅しました。
日本海軍総力を挙げて臨んだマリアナ沖海戦において、日米の戦力差が歴然と開いてしまった事を思い知らされたのです。
サイパンの陥落も決定し、日本本土が空襲に晒される事が予想されました。
日本の上層部にもさすがに「敗戦」の二文字が頭によぎったのでしょう、7月18日には東條内閣は総辞職し、小磯内閣が誕生、和平の道を模索する動きも出てきました。
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